四章・破綻
なんだか落ち着かない。
静かすぎる空間に、今日は居心地が悪く思えた。耐えかねて、何気ない雑談をしてみる。
朝、向けられたあの視線が頭から離れなかったのもあるかもしれない。自分から沈黙を破ってみたくなった。
中身はなく、本当にどうでもいいような世間話ばかり。
店主さんが手を止めることはなく、それでもひとつひとつ、きちんと答えてくれた。
低く短い返事。どこまでも淡々としている。けれど、僕の言葉を途中で遮ることも、鬱陶しがることもなく、静かに耳を傾けてくれていた。
何かを深く問うことはない。ただ、いつも通りそこにいて、相変わらずの距離感。
この距離を埋めようとは思わない。
ただ、今日の僕は面倒臭かっただろうな。とは思った。
いつの間にか当たり前になってしまったこの空気が、たまらなく好きなんだと、改めて気づかされた。
穏やかな時間はあっという間に過ぎる。
作業を終えて、会釈をして、店を出る。
坂を下る時にはまだ、背後に視線を感じた。店主さんの見送りとは、珍しいこともあったもんだ。
今日はいい日だった。
そんなことを思いながら、家路に着く。
坂の中腹あたりで冷たい風が頬を掠めた。ほのかに雨の匂いが混ざっている。
雲が流れる速度がはやい。空の色は濁り、街路樹の葉がワサワサと不穏な音を立てて揺れている。
本格的に降り出す前に、帰れるだろうか。フードの端を引き寄せながら、歩調を少しだけ早める。
交差点に着く頃には、強い風が吹き抜けていた。
排気ガスの不快な匂いと、舞い上がる乾いた埃。寒さに身を縮めた人々は、信号待ちをしながら手元の画面を見つめている。
これから一波乱来そうな、嫌な天候。
そんなことを思いながら、何気なく向かいの雑居ビルを見上げる。上層階に取り付けられた古い金属製の看板が、ぐらりと不自然に傾くのが目に入った。
金属の軋む不吉な音が風に混ざる。
その直下には、ぼんやりと立ち尽くす少年の姿があった。
突風が吹いた瞬間、古い金属製の看板はボルトごと引きちぎれ、落下を始めた。
その真下には、少年の姿がある。
ぼんやりと足元を見つめたまま、頭上から迫る巨大な鉄塊には、まるで気づいていなかった。
時間が引き延ばされたように遅くなる。
考えるより先に、動いていた。
ほんの少しだけ軌道をずらす。それだけのつもりだった。
ドクン、と皮膚の下で歪んだ脈動。
さっきまでの穏やかな余韻を丸ごと叩き潰すように、身体の内側から爆発する。
この感覚は知らない。
鼓膜を突き刺す爆音。空間そのものが跳ね上がったような衝撃が、周囲を揺さぶる。
看板は重力に逆らって斜め上へと弾き飛ばされ、誰もいない車道へ轟音とともに叩きつけられた。
それだけじゃない。
僕の前方、数メートルにわたってアスファルトが捲れ上がる。向かいの店舗のガラスが一斉に砕け散り、街灯のポールがぐにゃりと歪む。
猛烈な粉塵と土煙が立ち込め、視界を一瞬で真っ白に染め上げる。
耳鳴りだけが響く静寂の中、白く煙る空気の向こう側に、先の少年の姿が見えた。瓦礫が転がる路上でへたり込んでいる。
ふと目が合った。
引き攣った顔。見開かれた目。開いた口からは悲鳴が上がる。少年は転びそうになりながら、逃げ去った。
周囲の人々も、同じだった。
捲れ上がった地面と散乱する破片。その中で悲鳴を上げ、恐怖に顔を歪めながら、我先にと逃げ惑う。
怪我人の有無を確認する余裕はなかった。
伸ばした右腕が、鉛のように重たい。
それなのに、自分の中に湧き上がる全能感。猛烈な自己嫌悪に、喉が焼ける。
街中に響き渡る甲高い警報音。街頭カメラが一斉に僕を捉える。
影から影へ、無我夢中で走った。
心臓が肋骨を内側から殴りつけるように痛く、うるさい。
雨が降り始めたのは、それから間もなくのことだ。
けれど、僕の肌には一滴も届かない。
雨脚が強まり、あたりが土砂降りに変わっても、服も髪も気味が悪いほど乾いたままだ。
触れるはずの雨粒が、自分の意思とは関係なく弾け飛んでいく。その光景が、たまらなく恐ろしかった。
ふと、自分の右腕を見つめる。
指先が微かに震えていた。あの爆音と、歪んだ空間の感触がまだ掌に残っている。
自分は本当に何をしてしまったのか。本当に僕がやったことなのか。
僕は、あの少年を助けたかっただけだ。
なのに、あの場にいた誰もが、僕を恐れて逃げていった。
何もかもが、とても現実とは思えない。




