三章・眩暈
まぶたの裏に、白く静かな光が広がっていた。
薄闇がゆっくりとひらけていくような感覚の中で、見慣れた部屋の天井が視界に収まった。
身を起こそうとして、手をついた床に目を落とす。荒れ果てた六畳間。壊れた木製の椅子と机、散乱した古い本、壁に残る不自然な擦れ跡。まるで暴風が通り過ぎたあとのようだった。
昨夜、激痛にのたうち回った末、そのまま気を失ったらしい。身体のあちこちに残る硬い感触が、それを物語っていた。
それなのに、窓から差し込む朝の光は、どこまでも澄んでいた。
頭が妙に冴えている。
いつもと反対の違和感に、息を呑んだ。
身体が軽い。
昨日まであれほど重く、粘りつくように僕を縛り付けていた重力も、絶え間なく脳の奥を苛んでいた骨の軋みも、嘘のように消え去っていた。
あれが、ただの悪い夢だったのではないかと思えるほどだ。
ここ数年を遡っても、これほど爽快な朝は記憶にない。
嵐が去った後の凪なのか、それとも、次の嵐までの束の間なのか。僕にわかるはずもない。この平穏さがかえって胸を圧迫する。
まず現状が把握したくて、昨夜の記憶を辿ろうと思った。その瞬間。
脳裏の深部で、忘れかけていた感覚が小さく跳ねた。
ドス黒い濁りに呑み込まれ、意識を失う直前の記憶が、急速に蘇る。
身体の芯から力が抜けていく。意識を繋ぎ止めていた糸を自分から手放した。すべてを諦め、黒の中に身を沈めた、ほんの一瞬。そこにあったのは苦痛とはあまりにもかけ離れた感覚だ。
底なしの安らぎ。身体の内側を満たしていく、甘やかな解放感。そして、その奥底に、確かに芽生えた高揚。何かが壊れていくことを、喜んでいるような。
身を委ねてしまうことは、これほどまでに容易く、心地よいものだったか。
それを自分の感情として認識したとき、頭の先から爪先まで、氷水を注ぎ込まれたような悪寒が走った。
泥を喉の奥に無理やり詰め込まれたような、猛烈な自己嫌悪が波のように押し寄せる。
内臓がひっくり返り、思わずその場にしゃがみ込んで盛大に嘔吐する。胃の中に何かが入っているはずもなく、喉を焼くのは酸っぱい唾液と乾いた空気だけだったが、身体の内側から湧き上がる吐き気は止まらなかった。
何気なく床についた手を見る。まるで精巧に作られた偽物のように思えて、薄気味が悪い。
自分の中に潜むあの異質で醜い何かに触れてしまった事実に、理性が全力で拒絶を示す。
何度吐き捨てても、あの甘美な高揚感の名残だけは、胸の奥に張り付いて離れなかった。
荒い呼吸を何度も繰り返し、震える手の袖で口元を拭う。
鏡は見られない。見れば、自分の顔をした別の「何か」と目が合ってしまう気がした。
散らばったものの中から、脱ぎ捨てた記憶もない上着と靴だけを拾い上げる。
昨日と同じ服のまま、逃げるように自室を後にした。
外の空気は今日も冷たい。
身体自体は、やはり気味が悪いほど調子がいい。足取りは軽く、歩幅もいつもより広い気さえする。少し走ってみても息が切れない。
けれど、自分と世界との間にある壁が、昨日までとは比べものにならないほど厚くなっているように感じた。
目の前を通り過ぎていく人々、互いに交わされる無意味な話し声、アスファルトを擦る車のエンジン音、風に揺れる街路樹の葉擦れ。
それらすべての風景がまるでガラス向こうに配置されたジオラマのように、現実感を失い遠のいていく。
街頭ビジョンには、今朝もまた、ランの姿がある。それを見上げる人がいて、何かを話している変わらないはずの朝。それなのに、人々の歓声も、あいつの眩しさも、いつも必ずそこにあったものが、何ひとつとして届かない。ただ「世界が遠い」無機質な疎外感だけが、淡々と胸を侵食していく。
ポケットの中に滑らせた手で探る。触れた懐中時計の輪郭すら、錨になり得ない。
坂を上り、今日も見慣れた木枠のドアを押す。
変わらず、頭上で銅の鈴が乾いた音を立てて鳴った。満ちているはずの木材と金属の混ざった匂いがしないことを除けば、普段通り。
一歩足を踏み入れた時、店主さんが静かに顔を上げた。いつもなら、カウンター越しに会釈をするだけの静かな挨拶。けれど、今日は違った。
店主さんの視線が僕を捉えた瞬間、その瞳の奥に、ほんのわずか。だが明確な、緊張の糸が張るのを見逃さなかった。
歩き方も表情も、表面上は何ひとつ変わっていないはずなのに、店主さんは黙ったまま、食い入るように見つめるだけ。
何を聞いても答えは返ってこない。
表面ではなく心の奥底を見透かされているような、僕の「気配」をその静かな目だけがすべて察しているかのようだった。
店主さんは何も言わず、ただ深く息を吐くと、静かに目を伏せ、作業へと手を戻した。
気にする必要はないはずだ。半ば言い聞かせた。
残された無言が、今日は背筋を伝う冷たい余韻になった。




