二章・古物
昼下がりの店内。時間が半ば凝固したような静寂に満ちている。
螺子の緩んだ振り子時計、銀メッキが剥がれかけた手鏡、誰のものかわからない錆びついた小さな鍵。それらはすべて役目を終え、ここで風化していくのを待っている。僕がここを好きな理由が詰まっている。壊れ、捨てられ、世界から忘れ去られた真っ当な循環から弾き出されたモノたち。その欠落したカタチの隙間に身を置いていると、自分もまた風景の一部として許されているような気になる。
小さなスタンドライトの光を手元に集める。
細いピンセットの先で、埃を被った小さな歯車をひとつ、慎重に摘み上げた。
金属と金属が触れ合う硬い音、指先に伝わるかすかな重量感。これを綺麗に拭い、元の軸に戻せば、時計はまた動き出す。
けれど、擦り減り、濁ってしまったものはどうか。どんな精密な工具を使ったところで、一度損なわれたものは二度と元には戻らない。そんな取り留めのない思考に浸った。
カラン、と銅の鈴が跳ねる。高く乾いた音が静寂を鋭く割る。
踏み込んできた足音を聞いた瞬間、喉の奥がぐっと冷たく縮こまった。
足音の主の顔を見たわけじゃない。でも、一瞬にして空間の密度が一変したのは肌で分かった。研ぎ澄まされた刃物のようでいて、消毒液のように無機質で冷ややかな、生活感というものを綺麗に削ぎ落とした特有の気配。
恐る恐る顔を上げると、案の定、見覚えのある男がそこに立っていた。
覚えている。幾度となく僕らの側を通り過ぎて行った、笑みを絶やさず、誰にでも丁寧な人。昔から、どうしようもなく苦手だった。
僕の姿を視界に収めるやいなや、すぐに親しげな態度で距離を詰めてくる。革靴が古びた床の木目を踏み鳴らす。規則正しい音が、鼓膜を不用意に揺らした。
男の薄い唇から紡がれる言葉。その内容は頭の表面を掠めて滑り落ちていくだけで、ひとつとして意味を結ばない。何を言われているのか、そんなことはどうでも良かった。ただ、発せられる声の温度、言葉の端々に忍ばされた針のような違和感だけが、チクチクと肌を刺す。
視線が全身をなぞる。僕を気遣うような柔らかい表情の裏側で、彼の目は「僕」を見ていない。作業台の上に置いた手の微かな震え、乱れた呼吸の浅さ、服の隙間から見え隠れする鈍い青。
視線が這うたび、冷たく強張っていく。無意識に上着のポケットに手が伸びた。
表面上は穏やかな雑談のフリをした、ただの点検。
不確定要素がいつ壊れるのか、どれほどの猶予が残されているのか。そんなことを冷ややかに測られている気がした。僕の「破綻」を探る目つき。背筋を這い上がる悪寒と凄まじい不快感で胃の奥が絞られるようだった。
息の仕方すら忘れかけてしまいそうになる。その時だった。
視界の脇に、静かな影が落ちた。いつの間にかカウンターから出ていた店主さんがそっと間に割り込むように立っていた。
店主さんの口から、低く短い一言が放たれる。その声は決して尖ってはいないのに、僕と彼の間にある緊迫した不可視の糸を断ってくれた。
彼は少しだけ意外そうに目を見開いた後、何事もなかったかのように、すぐに元通りの柔らかい笑みを浮かべた。軽く手を振って、物静かな足取りのままドアをくぐって去って行った。
背中が見えなくなった瞬間、全身の力が抜けていく。あの人はやっぱり苦手だ。自分の中の時間が削り取られていくような生々しい恐怖だけが残る。
店主さんは何も言わなかった。ただ一度だけ静かな視線を向けると、黙ってカウンターの奥へと戻っていった。その背に向け、声は出さずとも深く感謝をした。
窓の外の光が、緩やかに変わっていく。店内に差し込む影の角度が長くなり、鮮やかな橙色から紫がかった群青へと溶けていく。
閉店の時間を知らせるように、店主さんが棚の上のランプの火を小さく落とした。
静かに立ち上がり、店主さんに会釈をする。眼鏡の奥の目を少し細めて小さく頷き返してくれる。
店を出ると、夕暮れの冷たい風が容赦なく頬を叩いた。
浮いた嫌な汗が、一気に冷やされていく。街はすでに夜の装いを始めていた。街灯がぽつりぽつりと灯り、家路につく人々が大通りへと吸い寄せられるように流れていく。
坂を下り、朝と同じ道をたどる。頭上高くの街頭ビジョンは相変わらず、ランの話題で持ちきりだ。
カメラのフラッシュを浴びながら、力強く、けれど優しげな笑みを浮かべて人々に手を振る。画面の向こうのあいつは、夕闇に包まれるこの街のどこよりも明るく輝いていた。
立ち止まった人々が、憧れと安心の混ざった眼差しで見上げる。歓声と、その姿を収めようとする電子音。君はこんなにもたくさんの人の光なんだな。改めてそう思う。
街灯の下を過ぎるたび、自分の影が長く、薄く伸びては闇に溶け消えていく。
キシキシと不気味な悲鳴をあげる階段を上る足取りは、いつにも増して重かった。
一歩踏み出すたびに、あらゆる感情と疲労が、身体を内側から押し潰そうとしていた。
視界の端が微かに明滅し、遠くの喧騒が鼓膜に届く手前で不自然に遮断される。嵐の前触れのような静けさが首筋を撫でた。
自室の鍵を開け、錆びついたドアを閉める。相変わらずの狭く薄暗い六畳間。
小さく息を吐き、照明へ手を伸ばそうとした。刹那。
靴を脱ぐ間すらなかった。頭蓋の深部に直接杭を打ち込まれたような、凄まじい衝撃が走る。いつもみたいなものじゃない。とてもじゃないが息を殺せばやり過ごせるような痛みではなかった。頭の奥で何かが無理やり捻じ曲げられ、内部から炸裂するような激痛。
世界がぐらりと揺れ、空間の上下すらわからなくなる。
声にならない悲鳴が千切れるように漏れ、その場に膝から崩れ落ちた。
冷たい床に顔を強く押し付ける。視界が急速に真っ赤に染まり、次いで粘り気のある黒に塗りつぶされていく。
脳髄を直接鋭い爪でかきむしられているような感覚。身体が、骨が、叫んでいる。あの男が引き金になったのか、それとも単純に限界が近いのか。
惨めに床の上でのたうち回る。待つことすら許されない現状をただ耐えるしかない。
秒針の音は、僕を嘲笑うように規則正しく響いていた。




