一章・微熱
指先が熱い。
古びたアパートの一室。薄暗い六畳間の床に直接座り込み、自分の右手をただ見つめている。
天井から垂れ下がった裸電球が微かに揺れ、床に落ちた影を不規則に引き延ばす。
膝の上で握り締めていた拳を、ゆっくりと解く。
関節がわずかに強張り、不気味に硬質化している。電球の橙に透かしてみると、皮膚の裏側から鈍い青が透けて見えた。
そっと触れてみれば、冷たくて硬い。血の通った人間のそれでなく、路傍に転がる石ころと同じ感触がした。
深く、長く、体内の空気をすべて吐き出すように息をつく。
胸の奥でなおも渦巻く重力の余波を鎮めるように、意識を指先の神経ひとつひとつに集中させていく。不快な骨鳴りの後、強張っていた部分が肉の深みへと溶けて消えた。残されたのは、少しだけ血色の悪い、頼りない僕の右手。
ほっと胸を撫で下ろすと同時に、急激な脱力感と猛烈な倦怠感が全身を重く締め付けた。
たったあれだけでこれだ。
昼間、街角の工事現場に組まれた高い足場が崩れかけたのを、ほんの数秒止めただけ。誰も気づいていない。作業員たちも、崩れかけたパイプが空中で一瞬引っかかったのを見て、運が良かったのだと笑いながら現場を後にした。その顔が見れたら僕は十分だ。
目の前で誰かが傷つくのを見たくないから、これはただの自衛のようなもの。
けれど、そのわずかな自衛の代償は着実に僕を削り取っていく。
机の上に放り出された端末が、不意に短く震えた。
液晶から漏れ出す青白い光が、天井をうっすらと照らし出す。画面には見慣れた記号のような文字と、いくつもの鮮烈な画像が並んでいた。
スクロールするまでもなく、中央に大きく表示された彼の姿が目に飛び込んでくる。
歪みのない真っ直ぐな立ち姿。その背後には揺るぎない存在感が漂っている。画面の向こうのあいつは、いつ見ても眩しい。人々はそんなあいつを讃え、持て囃す。
ただ純粋で、誰の目から見ても正しく、暗がりを照らす美しい光。同じなのに僕とは大違いだ。
でも、何も持っていなかったランが、いまや大勢の人に囲まれて、愛されて、本当によかったと心の底から思う。
肌身離さず持ち歩く古びた懐中時計。覚えているのは僕だけかもしれない。規則正しく時を刻む。指先でそっと輪郭をなぞると、冷たい振動が浅い鼓動に重なる。
静寂に落ちる声は誰にも届くことなく、狭い部屋に滲む。
夜が明け、隙間風とともに冷ややかな空気が部屋の中に侵入してくる。微睡の底から無理やり引き上げられるように目を覚ました。
いつもと変わらない、無機質な朝。その辺に落ちていた服を適当に拾い上げて外に出る。
行き交う人々、車の走行音。
開けた大きな交差点に差し掛かり、頭上に聳える街頭ビジョンにふと視線が向く。昨夜、小さな画面で見た彼の勇姿が、大画面いっぱいに映し出されていた。信号待ちのついでに立ち止まった学生たちが、眩しそうに見上げながら親しげに笑い合っている。
勝手ながら、なんだか誇らしかった。
人混みを抜け、坂を上る。街路樹の隙間から差す陽光の模様をたどれればいつもの角に行き着く。
木枠のドアを押し開け、小さな銅の鈴が鳴る。乾いた木材と真鍮、それから微かな埃が混ざり合った独特の匂い。古びたランプにオルゴール、いつもどおり。棚の品は変わらない。
カウンターの奥から、静かな視線を感じる。軽く会釈だけ。いつもそう。
店の一番奥にある使い込まれた小さな椅子。そこに深く腰を下ろすと、ガラス一枚隔てた外のざわめきが、どこか遠い異世界の出来事のように薄れ、褪せていく。
作業台の脇に置かれた小さな木箱を手元に引き寄せる。箱の中、無造作に転がる歯車や螺子、留め具の壊れたブローチを一つずつ視線で拾う。
小さな螺子をひとつ、ゆっくりと噛み合わせていく。カチリと微かな音が沈んでいった。
誰にも脅かされない、静かな僕の居場所。この穏やかな時間がただ流れている。それだけで、十分に幸せだった。
直後だった。
ずん、と頭の奥を鈍器で殴られたような痛みが走った。視界がぐにゃりと歪む。
まただ。苦痛に眉間を寄せ、手に持っていたものをそっと置く。最近、理由のわからない頭痛の頻度が明らかに高くなっていた。頭蓋の内側から歪められ、押し広げられていくような凄まじい違和感。目を閉じても、境が消えていくような感覚は消えない。この感覚が、どうしようもなく嫌いだ。
思考まで、粘り気のある黒い泥の中に呑まれそうになる。
ポケットに入れた懐中時計。上着の布越しにそれを固く握りしめる。指先に伝わる硬い輪郭を確かめるように、しばらくそのまま動けずにいた。
深く、深く、顔を埋めるようにして息を吐く。顔をあげる余裕なんてどこにもない。ただじっと、荒れ狂う嵐が過ぎるのを待つように、作業台に突っ伏してやり過ごす。
どれくらいそうしていたかわからない。頭の奥を占領していた鈍痛が引き潮のように徐々に遠のき、途切れていた周囲の音がゆっくりと戻ってくる。
痺れた身体を庇いながらゆっくり顔を上げると、いつの間にか作業台の端に置かれた小さなグラスが視界に入る。表面には細かい水滴がついており、冷気を含んでいる。そっと視線を横に向けると、店主さんと目が合った。眼鏡の奥にある、どこか遠くを見るような深く静かな目。言葉は一切ないけれど、心配させてしまったかもしれない。グラスを両手で包むように取り、一口含んだ。冷たい水が乾ききった喉を滑り落ちていき、体内に溜まっていた濁りが少しだけ洗われていく気がした。
僕が水を飲み干した様子を見届けてから、店主さんは手元の作業に戻っていった。何も聞いてこない、過剰に踏み込んでくることもない、この絶妙な距離感がたまらなくありがたい。
小さく息を吐く。手のひらに残った熱が冷めていくのを感じながら、棚の上の小さなラジオに意識が移る。低いノイズの隙間から、パーソナリティーの弾んだ明快な声が聞こえてくる。読み上げられる時事の中で、ランの名前だけがやけに鮮やかに聞こえた。




