序章・薄膜
僕に触れる直前で、雨粒は軌道を歪めて落ちていく。
アスファルトから立ち上る排気ガスとドブの混ざり合う湿った匂いが、鼻腔の奥にへばりついて離れない。
フードを深く被り、影の濃い場所だけを選んで足を踏み出す。そのたび、薄い靴底を通して路面の冷たさが足裏へ伝わる。僕がまだ生きていることを無遠慮に突きつけられる。
降り注ぐ水滴が、見えない膜に弾かれ落ちていく。その光景を見るたび、自分の境界線が世界から拒絶されているような錯覚に襲われる。
濡れた歩道を無数の傘が通り過ぎていく。誰ひとりとして僕を知らない。
手元の小さな端末に目をとめ、自分の世界だけに閉じこもり、傘を傾け歩き去っていく。世界はいつだって無関心で、うんざりするほど平穏に回っている。影の中の摩耗を知ることはない。
頭上から、鼓膜を不快に揺らす声が降ってきた。
雑居ビルの壁面に張り付いた巨大な光の枠。そこに映し出されている色彩が、僕の視界を青白く焼き払う。
足が、勝手に固まる。
光の枠の中で舞っているかのような男はひどい顔をしている。
痛々しいほど黒く、不気味にひび割れた皮膚。その亀裂は頬から首筋へと走り、奥から異質な光が溢れていた。男がひとたび手を払えば、周囲の瓦礫や大型車両が重力を失い、次の瞬間には密度の塊となって地面へと叩きつけられる。
何度も、何度も。同じ場面が繰り返し再生されている。
アナウンサーの震えを押し殺すように搾り出される声が、脳の嫌な部分を突き刺す。
唇の端から、自虐的な笑いが乾いた音を立てて零れた。
画面の向こうの事実がどうであったかなんて、誰も興味はない。そこに映っているのはただの怪物だ。
画面の色彩が、一瞬の暗転を経て変わる。
眩い光の中心。煙と泥に塗れた荒野のような街の只中に一人。怪物の前へと躍り出る。
傷だらけの身体。破れた衣服。泥に汚れた頬。それでも瞳は澄んでいて、まっすぐに、僕を射抜いた。
音声は聞こえていない。でも、僕には聞こえる。
あのときの声は、今も耳の奥に残っている。
不快だ。
あんな顔させたくはなかった。こんな形で会いたくなかった。
でも、どうしようもないから。
ポケットの中で、思い出を強く握りしめる。古びた金属の冷たさに縋りたかった。
僕が僕であるための記憶。
皮膚の下で、みしりと骨が軋んだ。フードを引き寄せ、逃げるように暗い路地裏の湿気の中へと身体を滑らせる。
冷たい壁に背中を打ちつける。アスファルトの匂いと湿気が立ちこめる路地の影で、浅く短い呼吸を繰り返す。
僕が一体何をしたというんだろう。
誰かを傷つけたいわけでも、壊したいわけでもなかった。ただ、壊れないように必死だった。静かな暮らしが欲しかった。
遠く、チクタクと刻む時計の針が脳裏に響く、死神の足音のように思えてならない。
瞼を固く閉じる。雨音の隙間で、胸の奥の声が何度も繰り返される。まだ、僕が僕であると。濁った水のように醜く、それでも消えることなく。




