終わった
最初に我に返ったのはハロルドだった。ずれたティーポットの蓋を直し、手早くワゴンを整える。
「とにかく。お茶をお淹れいたしますので、一度、お掛けになってはいかがでしょう」
その落ち着いた声音が、まるで呪縛を解く合図だったかのように、場の空気がふっと緩んだ。
次に動いたのはマチルダだ。ぴしゃりと自分の頬を叩くと、背筋を伸ばし、彼女に向かって深々と頭を下げる。
「し、失礼いたしました! どうぞ、お掛けくださいませっ」
ルーディはまだ夢から覚めきらないような顔でふらふらと部屋に入ってきて、そのまま所在なさげに壁に背を張りつける。
「は、はじめまして……お、お嬢様。すごいお綺麗で……いや、あの、その……」
しばらく意味不明なことをぼそぼそと口にしていたが、マチルダから鋭い視線を向けられ、すぐに口をつぐんだ。
そんな使用人たちを、テレーゼ嬢はにこにこと眺めていた。
「では、失礼いたしますわ」
優雅に一礼し、ソファへ腰を下ろす。
そのあまりにも自然な振る舞いに、まるでこちらだけが大騒ぎしているような気がしてくる。とにかく、いつまでも突っ立っているわけにもいかず、俺も彼女の向かいに腰を下ろした。
改めて向き合ってみると、彼女は仕草のひとつひとつまでやたらきれいだった。紅茶を口に運ぶ姿も、ふと浮かべる笑みも、まるで礼儀作法の手本を見ているようだ。
(貴族の娘ってのは、みんなこういうものだったか? それとも普段、むさくるしい奴らしか見てないから余計にそう感じるだけなのか)
「ゴホン」
横からマチルダのわざとらしい咳払いが飛んでくる。今のを翻訳すると、「さっさと話をしろ」だ。俺は観念して口を開いた。
「あー。先程、たしか『嫁いできた』と仰いましたが、それは何かの間違いでは?」
これ以上失礼にならないよう、できる限り言葉を選ぶ。
「俺がユリウス殿下にお願いしたのは、若いメイドを一人紹介してほしいということでして」
「まあ! でもユリウス様は、『ヴォルフが嫁を探している』とおっしゃって……それで私に声をかけてきたんですのよ?」
「……は?」
嫁を探している? 俺が?
(そんなことを頼んだ覚えはない。絶対にない)
テレーゼ嬢が嘘をついているんじゃないかとも思ったが、目の前で同じように困惑する彼女の様子を見る限り、それはなさそうだ。
ならば、殿下が何か勘違いをしているのか。そう考えたところで、ふと、あの時の自分の言葉を思い出した。
(たしか……)
「俺は、若い女性を一人、紹介してほしいと……」
口にした瞬間、全身が凍りついた。
「ちょっと坊ちゃま!」
マチルダが血相を変えて俺を見る。
「メイドって、ちゃんと言いました?」
「……」
「坊ちゃま!」
「……言って……ない」
「ああ、もうっ!」
マチルダが頭を抱えた。
「なんで一番大事なところを言わないんですの!」
「くっ……違うんだ! 違う……俺は……メイドが……」
「だからそれを! ちゃんと言わなきゃ意味がないでしょうが!」
肩をがしがし叩かれ、身体がぐらぐらと揺れる。全身から力が抜け、俺はそのままソファに沈み込んだ。
「……ハロルド」
「はい」
「俺の執務室の机……引き出しの一番奥に、殿下からもらった書類の控えがある。ちょっと、持ってきてくれ……」
ハロルドの眉が、わずかに動いた。だが何も言わずに一礼すると、すぐに部屋を出ていった。
あの日、ユリウス殿下に「形式的なものだ」と言われ、ろくに中身も確認せずサインした書類。数日後に「控えだ」と渡されたから、てっきりメイドの契約書だと思っていた。
(いや……頼む! そうであってくれ!)
しばらくして、ハロルドが一枚の書類を手に戻ってきた。
「こちらでございます」
ハロルドから書類を受け取り、ソファの上で広げる。そして目に飛び込んできた冒頭の一文に、一瞬、呼吸が止まった。
『結 婚 誓 約 書』
「……!」
何度か瞬きをしてみたが、文字が消える気配はない。
震える手で書類を裏返すと、そこには目を疑うような文言が並んでいた。
『両名の合意に基づき、今後、婚姻の意志を以て同居を開始する』
さらにその下には、署名がふたつ。
筆圧の高い見慣れた文字と……見慣れない流麗な文字。
ヴォルフ・グランツ
テレーゼ・レヴェラン
「いやいやいやいや! 待て! なんだこれ!」
「こちらは……」
すぐそばで控えていたハロルドが、静かに書類を覗き込む。
「結婚誓約書でございますね。つまり――」
「それはわかってる!」
そして最後に目に入ったのは、承認者の欄に並ぶ殿下とアルベルトのサインだ。
(認めるな!)
思わず天を仰いだ。
(頭が……痛い)
しばらくそのまま己の迂闊さを呪っていたが、ふと、あることに気づく。俺は弾かれたように手元の書類へ顔を寄せた。
テレーゼ・レヴェラン。
(レヴェラン……?)
間違いない。何度見ても、そこにはそう書いてある。
まさか……いや、でも。
俺は書類から目を上げ、目の前の令嬢を見た。
「あの……テレーゼ嬢?」
「はい?」
「もしかして……アルベルトの……?」
「ええ、妹ですわ」
「こ……侯爵令嬢っ!?」
するりと書類が手からすべり落ちた。ひらひらと舞い落ちていくそれを、俺はぼんやりと目で追う。
いっそ、そのままどこか遠くへ飛んでいってくれないだろうか。
そんな淡い願いもむなしく、床に落ちた書類は有能な執事によって即座に拾い上げられ、何事もなかったかのように俺の手元へ戻ってきた。
もう何をどう驚けばいいのかわからない。ソファに崩れ落ちそうになるのを、どうにか気力だけで堪えていると、テレーゼ嬢が不思議そうにこちらの顔を覗き込む。
「つまり……ヴォルフ様は、嫁を望んでいたわけではなかった、と?」
「そ、そうだっ!」
ようやく逃げ道を見つけた気がして、萎えかけていた気力が急に戻ってきた。
「君も、殿下に無理に頼まれて断れなかっただけなんだろ? なら、この話はなかったことに……頼む、そうしよう!」
テーブルに両手をつき、最後の望みをかけて深く頭を下げる。マチルダの深いため息が聞こえたが、今はそんなものに構っている場合ではない。
だが、いつまで待っても返事がなかった。呆れて言葉も出ないのだろうか。それとも、大男が必死に頭を下げる姿がおかしくて、笑いをこらえているのか。
そろそろと顔だけ上げてみれば、テレーゼ嬢はそのどちらでもなかった。彼女はなぜか俺の顔ではなく、テーブルについた俺の腕をじっと見つめていたのだ。
(……やはり気になるか)
素振りの途中で連れてこられたせいで、袖は肘までまくったままだ。むき出しになった太い腕が、よほどお気に召さないらしい。
さりげなく袖を戻しかけて、ふと、手を止める。
(待て。むしろ、もっと見せたほうがいいんじゃないか?)
こんな筋骨隆々とした男など、令嬢の好みからは程遠い。ならば、いっそこの腕を見て嫌になってもらえばいい。そうすれば、彼女のほうから断ってくれるかもしれない。
俺はテーブルについた腕に、ぐっと力を込めた。
「まあ……!」
テレーゼ嬢の目がぱっと見開かれる。
こくり、と喉が鳴り、先ほど以上に食い入るような視線が俺の腕に注がれる。やがて、その頬がうっとりと緩んだ。
「あら、わたくしは、このままで構いませんわ」
「……は?」
「だってもう、結婚してしまいましたもの。ふふっ。ぜひ、よろしくお願いしますわ」
テレーゼ嬢は俺の前にある誓約書を手に取ると、「ほらね」とでもいうように書類を俺に向けて掲げ、仲良く並んだ署名を見せつけてくる。
(いや、「ふふっ」じゃなくて!)
「ちょ、ちょっと待て。いや、待ってくれ。俺は……その、見ての通り伯爵家の次男で、跡取りでもないし、君のご両親だってこんな結婚、許すわけ――」
「泣いて喜んでおりましたわ」
「はあ!?」
嘘だろ。当てが外れた。いや、まだ何かあるはずだ。
(そうだ、腕!)
さっきテレーゼ嬢は、俺の腕を見て言葉を失っていたじゃないか。
「い、いや、でも! 見た目がこんなゴツい筋肉男と侯爵令嬢の君が結婚なんて、普通はありえないだろ? 今どきの流行とは真逆だし……嫌だろ!?」
これならどうだ、とばかりにまくったままの腕を彼女の前に突き出す。
「……っ!」
テレーゼ嬢が片手で口元を押さえた。
(ほら、見ろ)
だが、どうも様子がおかしい。彼女の視線が、俺の腕から一向に離れないのだ。それどころか、少しずつ顔まで近づいてくる。じいっと、それはもう穴でも開きそうなほど見つめたあと、テレーゼ嬢はほう……と恍惚のため息を漏らした。
それから、すっと顔を上げる。
「いいえっ! むしろ……大好物ですわっ!」
「は?」
テレーゼ嬢の瞳が、今日一番と言っていいほど輝いた。
「きゃっ、申し訳ありません。あまりに素敵すぎて、つい……!」
目の前で恥ずかしそうに、もとい、嬉しそうに体をくねらせる彼女を見て、ようやく理解した。ユリウス殿下が、なぜあんなに俺の筋肉を入念に確認していたのかを。
隣で一部始終を見ていたマチルダが、何かを察したようにおずおずと口を開く。
「あの、テレーゼ様はもしかして……筋肉質な男性がお好きなのですか?」
「ええ! 筋肉、大好きなんですの! 特に腕と背中が!」
「っっ!!」
マチルダの顔がみるみるうちに紅潮した。片手で口を押さえ、目にはうっすらと涙まで浮かんでいる。
「坊ちゃま! つ、ついに……! ついに坊ちゃまの筋肉を好きだと言ってくださるお嬢様が……!」
がしっと肩を掴まれ、そのまま前後に揺さぶられる。
「よ、よかったですねぇ、坊ちゃま!」
「待て、なぜお前が泣く! あと揺らすな!」
マチルダはようやく俺を解放すると、今度はテレーゼ嬢のもとへ駆け寄り、その両手をがしりと握った。
「テレーゼ様……!」
「ええ……!」
何かが通じ合ったらしい。二人はそのまま、ぶんぶんと力強く頷き合っている。
ちらりと横目でルーディを見やると、やつは胸の前で両手を固く握りしめ、やたらと目を輝かせていた。
「筋肉は、人を繋ぐっ!」
訳のわからないことを口走りながら、感極まったように、ゆっくりと天を仰ぎだす。
(お前もあっち側か!)
残る望みは一人。助けを求めるようにハロルドを振り返る。
「侯爵家と繋がりができるのは、ヴォルフ様にとっても良い話かと」
「……」
四方を埋め尽くされた。
(くそっ、ならば最後の切り札だ)
「その……さっきも言ったが、俺は伯爵家の次男で、家を継げる立場じゃない。侯爵令嬢の君に、これまでと同じ暮らしをさせてやれるとは思えない」
これで駄目なら、本当にもう後がない。だが、さすがにこれは効くだろう。いくらなんでも、これまで何不自由なく暮らしてきた侯爵令嬢が、わざわざ生活水準を落としてまで俺と結婚したいとは思わないはずだ。
「あら、大丈夫ですわ!」
爽やかにもほどがある笑顔で、テレーゼ嬢はあっさりと言い切る。
「わたくし、絵を描くのが少々得意ですの。筋肉を題材にした画集を出しておりまして、それなりに収入もございますのよ」
「は?」
「おかげさまで、少数ながら熱心なファンの方々もいらっしゃいますし。自分のお小遣いくらいでしたら、十分に賄えますわ」
もはや何を言っているのか、さっぱりわからない。
絵。筋肉。画集。収入。ファン。
どれも知っているはずの言葉なのに、並べられた途端、ひとつも頭に入ってこなかった。
俺は力なく顔を上げた。
(……終わった)




