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勘違いで嫁ぎましたが、相手が理想の筋肉でした【改稿版】  作者: エス
第一章 理想の筋肉、現る

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百見は一触にしかず

 ヴォルフ様はソファに腰掛けたまま、虚空を見つめていらっしゃる。


(ふふっ、ちょっとした誤解があったようですけれど……)


 ふと、テーブルに置き去りにされたままの誓約書に目が留まった。そこに寄り添うように並ぶ、私とヴォルフ様の署名。これからは私たちも、こんなふうに肩を並べて歩いていくのだと思うと、なんだか胸がくすぐったい。


(でも、安心してくださいませ、ヴォルフ様!)


 なぜか屍のようになってしまったヴォルフ様に向かって、私は大きく一度、頷いた。


(わたくし、きっと! ヴォルフ様に『嫁にもらってよかった』と心から言っていただけるように、頑張りますわっ!)


 ヴォルフ様は、まだどこかぼんやりとしたままだ。ならば今のうちに、少しだけ。ええ、ほんの少しだけ、そのお身体を観察させていただくことにした。


(それにしても……なんて素晴らしい筋肉……!)


 シャツ越しにもわかる分厚い胸板に、逞しい肩まわり。いったいどれほどの鍛錬を重ねれば、こんな立派な身体になるのだろう。


 しかも、お顔立ちだってとても整っていらっしゃる。目つきは少し鋭いけれど、それがまた騎士団長らしくて凛々しい。短く整えられたアッシュブラウンの髪も、その精悍な顔立ちによく似合っていた。


(はぁ……こんな方が、わたくしの夫だなんて……)


 もう少し近くで見てみたい。そんな欲がむくむくと湧いてきて、私はそっと立ち上がった。ヴォルフ様のもとへ近寄り、その傍らにしゃがみ込む。


「ヴォルフ様?」


 小さく名前を呼んでみたけれど、返事はない。


(まだ混乱していらっしゃるのかしら?)


 お顔を見上げてみても、その視線は相変わらず宙の一点に注がれたまま。すぐそばにいる私のことなど、まるで目に入っていないようだ。


(ということはつまり……)


 ちらりと、無造作にまくられたシャツの袖へ目を向ける。


(今ならこの腕を好きなだけ見放題ということでは!?)


 そう思った途端、なんだか胸がドキドキしてきた。そうと決まれば、さっそく目の前の腕をじっくりと。


 間近で見ると、それは想像以上だった。肘から手首にかけて、力強く盛り上がる筋の美しいこと! しかも、その太さときたら、私の両手で包み込めるかどうかも怪しい。


 こんなものを目の前に差し出されて、ただ眺めているだけでいられるだろうか。百聞は一見にしかず。ならば、百見は一触にしかずというものだ。


(ちょっとだけ……触っても、バチは当たりませんわよね?)


「ヴォルフ様、失礼いたしますわね!」


 そう声をかけながら、控えめに、ツンと腕に触れる。


「テ、テレーゼ嬢っ!?」


 ヴォルフ様の体がびくりと跳ねた。あれほど反応がなかったというのに、それはもう見事な跳ねっぷりだった。私が触れたところを隠すように押さえ、まるで雷にでも打たれたかのような顔でこちらを見ている。


「ダ、ダメだっ! そういうのは、簡単にしてはいけない! たしかに紙面上では夫婦かもしれないが、君と俺は初対面だ!」


(……っっ!!)


 思わず声を上げそうになって、咄嗟に両手で口を覆う。


 いけない。これはいけない。


 何事にも動じなさそうな見た目をしておいて、ほんのちょっと腕を触られただけで、こんなふうに耳まで真っ赤になるなんて。女性慣れしていないとは聞いていたけれど、どうやらそれも本当だったらしい。


(なんて……かわいらしい……)


「では、初対面でなくなったら、触ってもいいんですの?」


「なっ……」


 ヴォルフ様はとうとう絶句してしまわれた。だけどそこはどうしても確認しておかなければいけない。これほどの筋肉を前にして触るななんて、まるで拷問ではないか。


 そこへ、先ほどの女性がゆっくりと歩み寄ってきて、くすりと笑った。


「テレーゼ様、坊ちゃまは女性にまるで慣れておりませんので、あまりからかわないでやってください」


「あら、からかったのではなくて、本気で言いましたのよ?」


 念のためそう訂正しておくと、ヴォルフ様は、ますます困ったように眉間を押さえた。女性はそんなヴォルフ様をおかしそうに眺めていたが、ふと思い出したように手を合わせる。


「そうそう、申し遅れましたね。わたくし、マチルダと申します。坊ちゃまが幼い頃からお仕えしております。どうぞよろしくお願いいたします」


「まあ、そんなに昔から! こちらこそ、よろしくお願いいたします、マチルダさん」 


 私は立ち上がり、ふっくらとした頬に笑い皺を浮かべたマチルダさんへ、ぺこりと頭を下げた。


 なるほど、それでヴォルフ様にもあれほど遠慮がないのだろう。先ほどから見ている限り、ヴォルフ様もマチルダさんにはどうにも頭が上がらないらしい。


(こんな方がいてくださるなら、私も心強いわ)


 そのあと、マチルダさんは執事のハロルドさんと料理人のルーディさんも紹介してくれて、改めてそれぞれと挨拶を交わした。


「ところで、テレーゼ様は好き嫌いはございませんか?」


「ええ。私、食べることが大好きですの。何でもおいしくいただきますわ」


「それはよかったです。実はこのルーディ、坊ちゃまの筋肉のためにあれこれ料理を考えるのが趣味でしてね。よろしければ今度、筋肉増強メニューも召し上がってみてくださいな」


 そう言って、マチルダさんはルーディさんの肩をぽんと叩く。


「まあっ! ヴォルフ様の筋肉のために!?」


 思わずルーディさんを見た。なんてことでしょう。まだ少年っぽさの残るこの青年が、人知れずヴォルフ様の筋肉を育てていたなんて。いますぐルーディさんにお礼を言いたいくらいだ。


「では、この素晴らしい筋肉には、ルーディさんのお料理も一役買っているのですね!」


「ちょっと、マチルダさん! それ、いつも怒るじゃないですか! 『これ以上坊っちゃんの筋肉を育てるな』って!」


「お黙りなさいっ!」


 マチルダさんがぴしゃりと一喝する。


「テレーゼ様が筋肉好きだとわかった以上、話は別です。これからは坊ちゃまの筋肉を全力で育てなければなりません!」


「お、おぉ……っ! そういうことなら、筋肉育成、全力でやらせていただきますっ!」


 まるで重要な任務でも任されたかのように、ルーディさんがぴしりと踵を揃える。その隣では、マチルダさんが満足そうに頷いていた。


(ふふっ……みなさん、とても良い方たちだわ。ここなら、仲良くやっていけそう)


「あ、あのっ……!」


 ルーディさんがおずおずと、顔の横で小さく手を挙げる。


「お、お奥さまってお呼びしてもいいですかっ!?」


「ま、まあっ! もちろんですわ」


(ヴォルフ様の……お、奥さま……)


 いざそう呼ばれるとなると、なんだか少し照れてしまう。ふと見れば、マチルダさんもハロルドさんも、揃ってにこにことこちらを見ているではないか。ますます恥ずかしくなって、頬が熱くなった。


「それではみなさま、これからどうぞよろしくお願いいたします」


「待てっ! 待ってくれっ!」


 突然、ヴォルフ様がソファから勢いよく立ち上がった。


「い、いや……待て。そもそも俺たちの結婚は、本当に成立しているのか? あの書類だって、まだ正式に受理されたとは限らないだろう。一度ちゃんと確認を――」


「坊ちゃま。ご自分でサインなさったくせに、往生際の悪い」


「いや、だって! 俺はメイドの契約書だと……!」


「『女性を紹介してほしい』なんておっしゃるからですよ」


「ぐっ……」


 ぴしゃりと言い返され、ヴォルフ様は返す言葉もないようだった。私はそんなヴォルフ様を見上げ、ふと首をかしげる。


「あら、それほどまでおっしゃるのなら、ユリウス様に確認していただいても構いませんわよ? でも……もし正式に受理されていたら、私との結婚を受け入れてくださるんですの?」


「そ、それは……」


「まったく、坊ちゃま! そこは迷わず頷くところでしょう!」


 マチルダさんが、すかさず声を上げる。


「テレーゼ様、ご安心くださいませ。そのときは、この私が坊ちゃまをきっちり説得いたしますから!」


「マチルダ! 勝手に話を進めるな!」


「では、坊ちゃまご自身でお返事なさいますか?」


「うっ……」


 ヴォルフ様はなんとも気まずそうにこちらの様子を窺っていたが、やがてがっくりと肩を落とし、ソファに腰を下ろしてしまわれた。


 どうやら、私たちの結婚については、ユリウス様に確認していただいてから、ということになりそうだ。


(だけど……)


 ふと、マチルダさんと目が合う。彼女は丸みのある目を優しげに細め、私に向かってそっと頷いてくれた。


(ふふ……なんだか、心強い味方ができてしまいましたわね!)

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