百見は一触にしかず
ヴォルフ様はソファに腰掛けたまま、虚空を見つめていらっしゃる。
(ふふっ、ちょっとした誤解があったようですけれど……)
ふと、テーブルに置き去りにされたままの誓約書に目が留まった。そこに寄り添うように並ぶ、私とヴォルフ様の署名。これからは私たちも、こんなふうに肩を並べて歩いていくのだと思うと、なんだか胸がくすぐったい。
(でも、安心してくださいませ、ヴォルフ様!)
なぜか屍のようになってしまったヴォルフ様に向かって、私は大きく一度、頷いた。
(わたくし、きっと! ヴォルフ様に『嫁にもらってよかった』と心から言っていただけるように、頑張りますわっ!)
ヴォルフ様は、まだどこかぼんやりとしたままだ。ならば今のうちに、少しだけ。ええ、ほんの少しだけ、そのお身体を観察させていただくことにした。
(それにしても……なんて素晴らしい筋肉……!)
シャツ越しにもわかる分厚い胸板に、逞しい肩まわり。いったいどれほどの鍛錬を重ねれば、こんな立派な身体になるのだろう。
しかも、お顔立ちだってとても整っていらっしゃる。目つきは少し鋭いけれど、それがまた騎士団長らしくて凛々しい。短く整えられたアッシュブラウンの髪も、その精悍な顔立ちによく似合っていた。
(はぁ……こんな方が、わたくしの夫だなんて……)
もう少し近くで見てみたい。そんな欲がむくむくと湧いてきて、私はそっと立ち上がった。ヴォルフ様のもとへ近寄り、その傍らにしゃがみ込む。
「ヴォルフ様?」
小さく名前を呼んでみたけれど、返事はない。
(まだ混乱していらっしゃるのかしら?)
お顔を見上げてみても、その視線は相変わらず宙の一点に注がれたまま。すぐそばにいる私のことなど、まるで目に入っていないようだ。
(ということはつまり……)
ちらりと、無造作にまくられたシャツの袖へ目を向ける。
(今ならこの腕を好きなだけ見放題ということでは!?)
そう思った途端、なんだか胸がドキドキしてきた。そうと決まれば、さっそく目の前の腕をじっくりと。
間近で見ると、それは想像以上だった。肘から手首にかけて、力強く盛り上がる筋の美しいこと! しかも、その太さときたら、私の両手で包み込めるかどうかも怪しい。
こんなものを目の前に差し出されて、ただ眺めているだけでいられるだろうか。百聞は一見にしかず。ならば、百見は一触にしかずというものだ。
(ちょっとだけ……触っても、バチは当たりませんわよね?)
「ヴォルフ様、失礼いたしますわね!」
そう声をかけながら、控えめに、ツンと腕に触れる。
「テ、テレーゼ嬢っ!?」
ヴォルフ様の体がびくりと跳ねた。あれほど反応がなかったというのに、それはもう見事な跳ねっぷりだった。私が触れたところを隠すように押さえ、まるで雷にでも打たれたかのような顔でこちらを見ている。
「ダ、ダメだっ! そういうのは、簡単にしてはいけない! たしかに紙面上では夫婦かもしれないが、君と俺は初対面だ!」
(……っっ!!)
思わず声を上げそうになって、咄嗟に両手で口を覆う。
いけない。これはいけない。
何事にも動じなさそうな見た目をしておいて、ほんのちょっと腕を触られただけで、こんなふうに耳まで真っ赤になるなんて。女性慣れしていないとは聞いていたけれど、どうやらそれも本当だったらしい。
(なんて……かわいらしい……)
「では、初対面でなくなったら、触ってもいいんですの?」
「なっ……」
ヴォルフ様はとうとう絶句してしまわれた。だけどそこはどうしても確認しておかなければいけない。これほどの筋肉を前にして触るななんて、まるで拷問ではないか。
そこへ、先ほどの女性がゆっくりと歩み寄ってきて、くすりと笑った。
「テレーゼ様、坊ちゃまは女性にまるで慣れておりませんので、あまりからかわないでやってください」
「あら、からかったのではなくて、本気で言いましたのよ?」
念のためそう訂正しておくと、ヴォルフ様は、ますます困ったように眉間を押さえた。女性はそんなヴォルフ様をおかしそうに眺めていたが、ふと思い出したように手を合わせる。
「そうそう、申し遅れましたね。わたくし、マチルダと申します。坊ちゃまが幼い頃からお仕えしております。どうぞよろしくお願いいたします」
「まあ、そんなに昔から! こちらこそ、よろしくお願いいたします、マチルダさん」
私は立ち上がり、ふっくらとした頬に笑い皺を浮かべたマチルダさんへ、ぺこりと頭を下げた。
なるほど、それでヴォルフ様にもあれほど遠慮がないのだろう。先ほどから見ている限り、ヴォルフ様もマチルダさんにはどうにも頭が上がらないらしい。
(こんな方がいてくださるなら、私も心強いわ)
そのあと、マチルダさんは執事のハロルドさんと料理人のルーディさんも紹介してくれて、改めてそれぞれと挨拶を交わした。
「ところで、テレーゼ様は好き嫌いはございませんか?」
「ええ。私、食べることが大好きですの。何でもおいしくいただきますわ」
「それはよかったです。実はこのルーディ、坊ちゃまの筋肉のためにあれこれ料理を考えるのが趣味でしてね。よろしければ今度、筋肉増強メニューも召し上がってみてくださいな」
そう言って、マチルダさんはルーディさんの肩をぽんと叩く。
「まあっ! ヴォルフ様の筋肉のために!?」
思わずルーディさんを見た。なんてことでしょう。まだ少年っぽさの残るこの青年が、人知れずヴォルフ様の筋肉を育てていたなんて。いますぐルーディさんにお礼を言いたいくらいだ。
「では、この素晴らしい筋肉には、ルーディさんのお料理も一役買っているのですね!」
「ちょっと、マチルダさん! それ、いつも怒るじゃないですか! 『これ以上坊っちゃんの筋肉を育てるな』って!」
「お黙りなさいっ!」
マチルダさんがぴしゃりと一喝する。
「テレーゼ様が筋肉好きだとわかった以上、話は別です。これからは坊ちゃまの筋肉を全力で育てなければなりません!」
「お、おぉ……っ! そういうことなら、筋肉育成、全力でやらせていただきますっ!」
まるで重要な任務でも任されたかのように、ルーディさんがぴしりと踵を揃える。その隣では、マチルダさんが満足そうに頷いていた。
(ふふっ……みなさん、とても良い方たちだわ。ここなら、仲良くやっていけそう)
「あ、あのっ……!」
ルーディさんがおずおずと、顔の横で小さく手を挙げる。
「お、お奥さまってお呼びしてもいいですかっ!?」
「ま、まあっ! もちろんですわ」
(ヴォルフ様の……お、奥さま……)
いざそう呼ばれるとなると、なんだか少し照れてしまう。ふと見れば、マチルダさんもハロルドさんも、揃ってにこにことこちらを見ているではないか。ますます恥ずかしくなって、頬が熱くなった。
「それではみなさま、これからどうぞよろしくお願いいたします」
「待てっ! 待ってくれっ!」
突然、ヴォルフ様がソファから勢いよく立ち上がった。
「い、いや……待て。そもそも俺たちの結婚は、本当に成立しているのか? あの書類だって、まだ正式に受理されたとは限らないだろう。一度ちゃんと確認を――」
「坊ちゃま。ご自分でサインなさったくせに、往生際の悪い」
「いや、だって! 俺はメイドの契約書だと……!」
「『女性を紹介してほしい』なんておっしゃるからですよ」
「ぐっ……」
ぴしゃりと言い返され、ヴォルフ様は返す言葉もないようだった。私はそんなヴォルフ様を見上げ、ふと首をかしげる。
「あら、それほどまでおっしゃるのなら、ユリウス様に確認していただいても構いませんわよ? でも……もし正式に受理されていたら、私との結婚を受け入れてくださるんですの?」
「そ、それは……」
「まったく、坊ちゃま! そこは迷わず頷くところでしょう!」
マチルダさんが、すかさず声を上げる。
「テレーゼ様、ご安心くださいませ。そのときは、この私が坊ちゃまをきっちり説得いたしますから!」
「マチルダ! 勝手に話を進めるな!」
「では、坊ちゃまご自身でお返事なさいますか?」
「うっ……」
ヴォルフ様はなんとも気まずそうにこちらの様子を窺っていたが、やがてがっくりと肩を落とし、ソファに腰を下ろしてしまわれた。
どうやら、私たちの結婚については、ユリウス様に確認していただいてから、ということになりそうだ。
(だけど……)
ふと、マチルダさんと目が合う。彼女は丸みのある目を優しげに細め、私に向かってそっと頷いてくれた。
(ふふ……なんだか、心強い味方ができてしまいましたわね!)




