嫁入り初日の大収穫
「では、テレーゼ様はこちらの客間をお使いくださいませ」
マチルダさんに案内され、私は二階の客間へと足を踏み入れた。
大きな窓からやわらかな陽の光が差し込む明るい部屋には淡いブルーの絨毯が敷かれ、磨き込まれた木の家具が品よく並んでいる。どれも上質ではあるけれど、華美な装飾はほとんどなく、すっきりと整えられている。
(素敵だわ!)
貴族の邸にしてはずいぶん飾り気がない。でも、不思議と物足りなさは感じなかった。むしろ、落ち着いていて居心地がいい。
「ありがとうございます。とても気に入りましたわ」
そう告げると、マチルダさんはほっとしたように微笑んだ。
「お荷物は、あとから侍女の方がお持ちになるのでしたね?」
「ええ。着くのは夜になるかもしれませんが」
「わかりました。ハロルドにも伝えておきますね。お食事は、侍女の方が到着されてからになさいますか?」
「いえ、お構いなく。せっかくですもの、ヴォルフ様が普段どんなお食事を召し上がっているのか、ぜひ拝見してみたいですわ」
「あらあら、そう仰っていただけると、ルーディも張り切りますわね」
和やかなやり取りのあと、マチルダさんは「それでは失礼します」と丁寧に一礼して、部屋を出て行った。
と思えば、またすぐに扉が少しだけ開いて、ひょいと顔を覗かせる。
「ユリウス殿下のご確認が取れて坊っちゃまが腹を括った際には、改めてご夫婦の寝室をご用意いたしますからね」
そう言って、マチルダさんはパチリと片目をつぶってみせた。そして今度こそ、扉が静かに閉じられる。
(ふ、夫婦の寝室……!?)
ひとりきりになった途端、今しがた聞いた言葉がじわじわと頭の中に広がっていく。夫婦なのだから、いずれは同じ寝室で過ごすことになる。そんなこと、もちろんわかっていた。わかっていたけれど! かあっと顔が熱くなり、思わず両手で頬を覆った。
(まったく、マチルダさんったら!)
ぶんぶんと頭を振って、頭に浮かんだあれこれを慌てて追い出す。
それでもどうにも頬の熱は引かなくて、私は近くの椅子へそっと腰を下ろした。ふかり、と受け止めてくれた座面は、いつも自室で使っている椅子よりも少しだけ硬い。
(こんな嫁入り、そうそうありませんわよね……)
少しばかり――いえ、かなりの行き違いはあったけれど、ユリウス様に確認が取れるまで、私はひとまずこの邸でお世話になることになった。
(つまり今は、夫婦(仮)といったところかしら)
くすり、と笑みがこぼれる。我ながら、なかなか上手い言い回しではないか。
もっともそれだからといって、ただの客でいるつもりはない。せっかくこうして同じ屋根の下で過ごすのだ。少しでも、お互いのことを知る努力は必要だろう。
(あとでいろいろお話ししてみようかしら。それとも、お茶にお誘いしてみるとか……)
そんなことを考えていると、どこからか聞き慣れない音が聞こえてきた。何かが風を切るような鋭い音が、何度も規則正しく響いてくる。
「何かしら?」
気になってカーテンの隙間から外を覗く。どうやら音の出所は、窓下に広がる中庭のようだった。
実家の侯爵邸とは違い、色とりどりの花壇も、趣向を凝らした植木もない。きれいに刈られた芝と低木、その合間に申し訳程度の花が咲いているくらいの、ずいぶんとさっぱりした庭だ。
何気なく視線を巡らせ――庭の中央に立つ人影を見つけた瞬間、弾かれたように窓に張りつく。
(ヴォ、ヴォルフ様が……剣を振ってらっしゃる!?)
ヴォルフ様は一人、木剣を手に素振りをしていた。
遠目にも、その動きには一切の無駄がない。剣を振り上げ、踏み込み、振り下ろす。そのたびに逞しい身体がしなやかに躍動し、一連の動作が流れるように繋がっていく。
(なんて美しい……)
額をぐっとガラスに押しつけ、食い入るようにその姿を追う。だが、肝心の筋肉の動きまではよく見えなかった。
(ああもうっ、じれったいですわ! もう少し近くで見たい! でも、こっそり見に行くなんて、覗きみたいで……)
行きたい。ものすごく、行きたい。
しばしの葛藤の末、私はひとつの結論に辿り着いた。
(いいえ! これは覗きではありません!)
先ほど決めたばかりではないか。これから夫婦になるかもしれないのだから、少しでもヴォルフ様のことを知る努力は必要だ。
(そう、これは必要なことですもの)
そうと決まれば話は早い。私はさっそく鞄から紙と鉛筆を取り出し、いそいそと部屋をあとにした。
足音を忍ばせて邸の裏手へ回り、中庭を見渡せる植え込みの陰にそっと身を潜める。
(あ、見えましたわ)
窓から眺めていたときとは、迫力がまるで違った。
額には汗が滲み、木剣を振るたびに胸元が大きく上下する。張り詰めた肩から二の腕にかけては、力が込められるたび、くっきりと形を変えていた。
(ち、近い……! 筋肉が……動いてますわっ!)
私は夢中で紙に鉛筆を走らせた。剣を振り上げるたび、踏み込むたびに変わる筋肉の形を、ひとつたりとも見逃すまいと目で追っていく。
(これは……次の画集、とんでもないものができてしまうのでは!?)
◇ ◇ ◇
(見られてる……?)
中庭で剣を振る俺の視界の端に、ふわりと揺れるプラチナブロンドが入り込んだ。
(あれは……テレーゼ嬢。なんであんなところに)
さりげなく横目で確認すると、彼女は植え込みの陰にしゃがみ込み、何やら紙に鉛筆を走らせている。何か書いているのか。いや、描いている?
(まさか、俺を!?)
思わず手が止まりかけ、慌てて木剣を振り下ろした。ここで急にやめるほうが、かえって不自然だ。
(しかし、なぜ俺なんかを……)
意識した途端、鼓動が妙に速くなる。
(集中しろ。いつも通りの鍛錬だ。ただの素振り。そう、これは日課だ)
俺は何事もなかったかのように、黙々と剣を振り続けた。
百回。
五百回。
千回。
(いつまでいるんだ! やめどきがわからん!)
結局、俺はそれからも振って、振って、振り続け――渾身の三千回目を力任せに振り下ろした。
そして、その日の夕食時。
「坊ちゃま、今日はなんだか、やけに疲れていませんか?」
マチルダが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「……なんでもない。放っといてくれ」
(くそ。なんなんだ、ほんとに)




