嫁いでまいりました
そのまま応接室の前まで連れてこられると、今度はルーディだった。扉にぴたりと張りつき、ほんのわずかな隙間に片目を押し当て、どうにか中を覗こうとしている。マチルダといいルーディといい、さっきからいったいなんなんだ。
「おい、ルーディ。何してるんだ」
ルーディは俺に気づくと、あたふたと口の前に指を立てる。
「しーっ! ヴォルフ様っ! 中、すごいです! まじで、すごいですから!」
声を潜めてはいるものの、今朝食べたトマトのように赤い顔をして、興奮を隠しきれていない。
(中に何があるんだ?)
そこまで言われると、さすがに気になってきた。だが、あれこれ考える前に、痺れを切らしたマチルダが俺の肩をぐいぐいと押し始める。
「さあ坊ちゃま! 早くお入りくださいませ!」
「待て。だから何が」
「いいから、ほらっ!」
問答無用で扉の前まで押しやられ、半ば無理やりドアノブを握らされる。振り返っても、マチルダは早く開けろと言わんばかりに何度も頷くだけだ。仕方なく、俺は扉を開いた。
そして――そのまま、また扉を閉める。
いや、正確には扉は閉まらなかった。マチルダが見たこともない速さで扉と俺の間に身体をねじ込み、全身でそれを阻止したからだ。目を剥き、「なぜ閉めるんです!」とでも言いたげに、池の鯉よろしく口をぱくぱくさせている。
「いや、だって……」
俺は無言の圧に押し戻されるように首を回し、開いたままの扉の向こうへ、もう一度目をやった。
(……やっぱりいる)
見間違いかとも思ったが、どうやらそうではなかったらしい。見慣れた応接室のソファに、ひとりの令嬢が腰かけている。
透けるようなプラチナブロンドの髪に、繊細な刺繍が施された上質なドレス。背筋をすっと伸ばして座る姿には白ゆりのような気品があり、伏せられた横顔は、まるで名のある画家が美というものを余すところなく描き上げた、一枚の肖像画のようだった。
俺もマチルダもルーディも、あまりに現実味のないその光景に、言葉も忘れてしばらく見入っていた。やがてマチルダが震える声で呟く。
「坊ちゃま……やっぱり……あのソファはお捨てにならなくていいかもしれません……」
(ソファ?)
一瞬、マチルダがどうかしてしまったのかと思った。だが、その視線につられてソファへ目をやって――思わず声をあげそうになる。
この部屋はマチルダに言わせれば、「地味の極み」らしい。中でも、部屋の真ん中に鎮座する年季の入ったソファは、ことのほか目の敵にされている。
「早く捨ててくださいな」と何度言われたことか。そのたびに「まだ使える」と俺が突っぱねてきた代物だ。
そんな、捨てられるかどうかの瀬戸際にあったソファが、あの令嬢が腰かけているだけで、まるで王宮の広間に置かれた華やかな調度品のように見えるではないか。
あれを捨てるなんてとんでもない。なんなら、金を積んででも欲しがるやつが出てくるんじゃないか、とすら思える。
(ほらな……俺は間違ってなかっただろ……)
そんなことをぼんやりと考えていると、令嬢が俺に気づいて立ち上がった。俺も慌てて令嬢のほうへ歩み寄る。
小さな顔がこちらを向いた瞬間、マチルダが「ほおっ」とため息を漏らした。後ろからは、ルーディが息を呑む気配がする。
透き通るように白い肌はまるで陶器のように艶やかだ。長い睫毛に縁取られた大きな瞳。すっと通った鼻筋に、薄く色づいた小さな唇。どれもひとつひとつが恐ろしく整っているのに、不思議と冷たい印象はなかった。華奢な身体も相まって、どこか儚げで、それでいて妙に愛らしい。
(妖精……だろうか)
令嬢が俺を見てふわっと大きな目を見開いた。口元に手を当て、わずかに肩を震わせている。そのまま視線が、俺の顔から肩、胸、腕、そして太ももへ、さっと走る。
(俺の身体に驚いたのか?)
思わず姿勢を正した。線の細い男が好まれるこの国で、俺のような大男はただでさえ目立つ。ましてや、こんな華奢な令嬢からすれば、威圧的に見えてもおかしくない。
そう考えた途端、さっきまでどこかふわふわしていた頭が、すっと現実に戻ってきた。怯えさせるつもりはない。慎重に話したほうがよさそうだ。
「あー。失礼ですが、もしかして……新しく来る予定の、メイドの方ですか?」
俺が口を開いた瞬間、ドンッと横腹に痛みが走る。
「いっ……」
横を向くと、マチルダが「信じられない」とでも言いたげな顔で、俺の脇腹に肘をこれでもかとめり込ませていた。
「坊ちゃまっ! そのお姿をご覧になって、まだそんなことが言えますの!?」
本人は小声のつもりなのかもしれないが、きっと隣の部屋にいても聞こえているに違いない。
目の前の令嬢はそんなやり取りに気を悪くした様子もなく、穏やかに微笑んで首をかしげる。
「メイド? すみません、それはよくわかりませんが……」
それから俺を見上げると、スカートの裾をつまみ、優雅に一礼した。
「初めまして。テレーゼ・レヴェランと申します」
「……はぁ」
思わず間の抜けた声が漏れる。いや、名乗られても困るのだが。
「で、テレーゼ嬢がなぜうちに?」
自分でもずいぶんぶっきらぼうな聞き方だとは思ったが、他にどう聞けばいいのかわからない。案の定、ちらりと見れば、マチルダが般若のような目でこちらを睨んでいた。
だが、そんな俺の物言いにも彼女は怒るどころか、きょとんと長いまつ毛を瞬かせ、それから花が開くように顔を綻ばせた。
「え? まあ、ユリウス様ったら。私の名前を伝えていらっしゃらなかったのかしら。相変わらず抜けてるんだから」
彼女の口から殿下の名前が出てきて、ひとまず安心する。だが、それならなおさらメイドではないのか?
「ユリウス殿下のご紹介で?」
思わず問い返すと、彼女は、はにかんだように頷く。
「ええ、わたくし、本日よりこちらに嫁いでまいりました」
一瞬、とんでもない言葉が聞こえた気がした。だが、まあ、聞き間違いだろう。
(いかん。耳の調子がおかしくなったか? 任務に支障が出る前に、一度医者に相談しておくか……)
「あー。すみません、うまく聞き取れなかったので、今のもう一度お願いできますか」
そう聞き返すと、彼女は何でもないことのようにさらりと答えた。
「ええ。嫁いできた、と申しましたわ」
「…………は?」
今度は、はっきり聞こえた。どうやら俺の耳がおかしくなったわけではないらしい。
「嫁いで……き……た?」
口に出してみても、いまひとつ現実味がなかった。
嫁いできた? この令嬢が、うちに? 急に頭が真っ白になる。
隣でガシャンと、派手な音がした。ちょうど茶と菓子を乗せたワゴンを押して部屋に入ってきたハロルドが、珍しく盛大につんのめったらしい。ワゴンの上で、ポットの蓋がカタカタと揺れている。
部屋の入り口に目をやれば、ルーディが腹の中まで見えそうなほど口をあんぐりと開け、置物みたいに固まっている。
マチルダにいたっては、目を白黒させ、今にもひっくり返りそうな顔でわなわなと震えている。
「とっ……とっ……」
何か言おうとしているらしいが、口から漏れるのは言葉にならない声ばかりだ。しばらく、にわとりみたいになっていたが、やがてまともに喋れる程度には落ち着いたらしい。
「嫁いできたですってええええっ!?」
悲鳴にも似たマチルダの叫びが、邸中に響き渡った。
「まあっ。そんなに驚かれると……ちょっと照れますわ」
恥ずかしそうに身をくねらせる彼女だけが、俺たちとはまるで別世界にいた。




