平和な朝にご用心
焼きたての黒パンをちぎり、スープと一緒に口へ運ぶ。ふんわりとしたスクランブルエッグに、厚切りのハム。それに、たっぷりの野菜を盛ったサラダ。いつもと変わらない、簡素だが栄養のことを考えた朝食だ。
「ヴォルフ様! 今日のドレッシングはレモンと玉ねぎがベースです! 疲労回復と筋肉修復に、ばっちり効きますよ!」
ルーディが得意げに片目をつぶってみせる。朝からよくもまあこれだけ張り切れるものだ。料理の腕だけは確かだから、文句はないが。
「お前な。毎朝毎晩、筋肉を育てる食材ばかり……。俺は別に、筋肉バカを目指してるわけじゃないぞ。騎士として当然の鍛錬をしているだけで、筋肉がついたのは結果だ。目的じゃない」
「わかってますって! でもその、意図せずこの筋肉、という事実が、また尊いんですよ!」
ルーディは俺の腕へ視線を落とし、うっとりと目を細める。
「俺の夢はね、ヴォルフ様の筋肉に合う最強のメニューを作ることなんです。朝昼晩、完璧に!」
胸の前でぐっと両拳を握りしめるルーディを横目に、艶々とうまそうなトマトにフォークを突き刺した。
「ほどほどにしとけ。またマチルダに怒られるぞ」
その言葉を待ち構えていたかのように、食堂の扉が勢いよく開く。
「ええ、ええ。怒ってますとも。昨日の『たんぱく質五種入りスープ』の時点で、とっくに!」
拭き上げたカップを山ほど載せた銀盆を抱え、マチルダがずかずかと入ってきた。その目は当然のようにルーディへ向けられている。
「私はね、これ以上坊ちゃまに筋肉がついて、ますますモテなくなるのが心配なんです」
「えっ、でもヴォルフ様の筋肉、めちゃくちゃ理想的じゃないですか」
「時代は華奢なんです! 華奢な男がモテるんです! この国では!」
マチルダの一喝に、ルーディは「ひぃっ」と声を漏らして肩をすくめた。
そのすぐ横では、ハロルドが淡々と紅茶を注いでいる。銀糸の混じった髪をきっちりと撫でつけた老執事は、口数こそ少ないが、この屋敷のことなら俺よりよほどよく把握していた。
「ところでヴォルフ様、例の新しいメイドが来るのは今日でございましたね」
「ああ。昼前には着くそうだ」
「お部屋の支度もすっかり整っておりますよ」
そう口を挟みながら、マチルダが俺の皿の脇に落ちた卵のひとかけを、すかさず布巾で拭き取る。たった今まで、棚にカップを並べていたはずなのに。ほんとにこの乳母は、目が五つくらいあるんじゃないか。
「かわいい子だといいですねぇ」
ルーディがにやりと口角を上げ、こちらの反応を窺うような目を向けてくる。まあ、こいつは無視でいい。
「メイドの対応はマチルダに任せる。ハロルドとルーディは、いつも通りの仕事をしていてくれ」
ハロルドが静かに一礼する。その隣でルーディも「了解ですっ!」と威勢よく敬礼した。が、すぐにマチルダにじろりと睨まれ、すごすごと腕を下ろした。
「ルーディ! 変な目で見たら承知しませんよ?」
「み、見ませんってばーっ!」
どうやら今日も、平和な一日になりそうだ。
◇ ◇ ◇
ヒュッ…………ヒュッ…………
木剣が鋭く空を切る音が、中庭に響いていた。
朝食を済ませたあと、すっかり手持ち無沙汰になった俺は、中庭に出て素振りを始めた。普段、休暇など滅多に取らないせいか、こうして休みになると逆に困る。
今日は新しいメイドが来る予定だったから、念のため邸にいることにしたのだが、よく考えればハロルドもマチルダもいるんだ。俺が出るまでもない。こんなことなら、いつも通り仕事に行けばよかった。
とはいえ、いざ剣を振り始めれば、雑念はすっと消えていく。ひたすら振り続け、そろそろ腕にも疲れを感じ始めたころ、邸の前に一台の馬車が停まった。
(例のメイドが到着したのか?)
いや、メイドが馬車で来るだろうか。それなら客かもしれないな。まあ、別にどっちでもいい。
俺は再び剣を構えた。あと五百回ほどと決めたものの、二、三度振ったところで、邸の入り口が何やら騒がしくなる。おまけに、マチルダの叫び声まで聞こえてきた。
「な、なんですってえぇぇぇぇ!? ちょ、ちょっと、こちらへ!」
(なんだ?)
素振りの手を止め、額の汗を袖で拭いながら声のしたほうへ目をやると、ほどなくして顔を真っ赤にしたマチルダが、こちらへ向かってものすごい勢いで駆けてきた。腰が痛いと言っていたはずなのに、なんだ、走れるじゃないか。
だがその必死の形相は、どうにも尋常じゃない。マチルダは俺の前まで来ると、前かがみになって膝に手をつき、はぁはぁと肩で息をしている。まったく、いい年をしてそんなに走るからだ。
「ぼ、坊ちゃまっ……! メ、メ、メイドじゃございませんっ……! あれは……っ! お嬢様ですっ! それも、とびきり上等なやつですっ!」
「は?」
何を言っているのかさっぱりわからない。お嬢様だの、とびきり上等だの、いったい何の話だ?
「とにかく! とにかく一度、いらしてくださいませっ!」
マチルダは俺の返事も待たず、がしりと腕を掴んだ。どこにそんな力が残っていたのか、そのまま俺をぐいぐいと引っ張っていく。
「ちょっと待て。説明くらい――」
「いいから来てください、坊ちゃまっ! 見ればわかりますからっ!」
そんなに慌てていったい何を見ろというのだか。だが、こうなったマチルダに何を聞いても無駄なことだけはわかる。諦めて、引かれるままに足を動かした。




