その筋肉に、白旗を
レヴェラン侯爵家の応接間は、かつて「王都のファッションリーダー」の異名を取った侯爵夫人――つまり、俺とレゼの母が、こだわり抜いて設えた空間だ。
家具はすべて一流の職人による特注品で、中でも特筆すべきは金銀の糸が織り込まれたワイン色のソファ。母の自慢の品であり、レゼも「座るだけでお姫様気分ですわ」などと言って、ことのほか気に入っていた。
だが今、そのソファにふんぞり返るレゼの表情は、まったく姫らしくない。腕を組み、頬をぷくりと膨らませて、俺とユリウスを交互に睨みつけている。
まあ、無理もない。本人の了承もなく、いきなり「嫁ぎ先が決まったぞ」などと告げられたのだから。
「レゼ? そんな怖い顔するなって〜。まじでいい話なんだって!」
そんなレゼを前に、ユリウスは金山でも掘り当ててきたかのように、鼻高々でこの結婚話を語っている。さすがは火に油を注ぐ天才だ。
「まあ、ユリウス様。いいお話、ですって?」
レゼの口元に、淑女のお手本のような微笑みが浮かぶ。だが、目はまったく笑っていない。笑顔の皮をかぶった怒りの権化。あの可憐な妹も、こうなると本当に手に負えない。
(これはしばらく不機嫌コースだな……)
俺が内心でため息をついているというのに、ユリウスのやつ、そこへさらに油を注ぎ込みやがる。
「いやー、あいつがまさか嫁を探してるなんて思ってもみなかったからさ! まさに灯台下暗しってやつだな。しかもあいつ、あんな硬派な顔して『若い子がいい』なんて言うんだぜ? 意外すぎるだろ!」
先日のヴォルフとの会話を思い出したのか、ユリウスは面白くて堪らないとばかりに、バシバシと自分の膝を叩いている。
「……あいつ、とは?」
レゼの眉がぴくりと跳ねた。
「ああ、あいつな! 伯爵家の次男で、家柄は問題なし。本人は当主にはなれないけど、辺境で武功を上げて称号ももらってるし、十分な生活はできるだろう。真面目で、信頼も厚くて……」
「伯爵家の方、ですのね?」
レゼは念を押すようにそう言うと、うんざりした様子で視線を床へ落とす。
「どうせまた、華奢で頼りないお体をなさっているんでしょう? はあ……全然ダメですわね」
もう結構、とでも言いたげに片手をひらりと振った。
「は? いやいやいやいや! 待て待て待て!」
それまで夢中でヴォルフの経歴を語っていたユリウスだったが、すっかり見切りをつけた様子のレゼに、ぎょっと目を見開く。
「ヴォルフはすごいからな? 見た目こそちょっと無愛想だけど、筋肉が! 筋肉が! もはや芸術!」
きっぱりと言い切るユリウスを、レゼがじっと見つめる。やがてふっと上品な微笑みを浮かべて、わずかに首をかしげた。
「ヴォルフ様とおっしゃるのですね? でも、おかしいですわね。それほど素晴らしい筋肉の持ち主でしたら、王都筋肉番付の上位に入っていてもおかしくないはずですのに。この私が、これまで存じ上げませんでしたわよ」
(筋肉番付!? そんなものがあるのかよ……)
しかも、レゼは当然のように把握しているらしい。兄としては色々問い詰めたいところだが、今はそれどころではない。レゼのその口ぶりは、暗に「本当にそれほどの筋肉ですの?」とでも言いたげだったからだ。
「それはな! あいつ最近まで辺境にいたんだよ! こっちに戻ってきたの、ごく最近! だからまだ番付に載ってないだけでさ!」
案の定、ユリウスが必死に弁解している。
「ほんとにすごいんだって! 俺、この目であいつの筋肉を確かめてきたからな!」
そう言うなり、勢いよく立ち上がった。
「まず、胸筋がすごい! あの厚みと盛り上がり、ちょっとやそっと鍛えたくらいじゃ、ああはならないぞ!」
身振りまで交えながら、ユリウスは持ち前の観察力を武器に熱弁を振るう。
レゼは先ほどと変わらず、澄ました顔でそれを聞いていた。だが、「厚み」と「盛り上がり」という言葉が出たあたりで、その長いまつげがぴくりと揺れたのは、気のせいだろうか。
「そして二の腕! 力こぶの隆起はまるで、神々の住まう山脈!」
「さらに、あの太もも! 馬にも負けない太さと迫力!」
ふと見れば、紅茶を口へ運びかけていたレゼの手が、ぴたりと止まっている。
(まさか。落ちかけてるのか?)
「極めつけは背中だ! あの広さと厚みは、もう鉄壁を通り越して城塞だな! 人型の要塞と言ってもいい!」
ユリウスの口から「人型の要塞」という言葉が飛び出した瞬間、レゼの頬がさっと赤く染まった。おまけに、心なしか目まで潤んでいる。
(……嘘だろ)
あれだけ頑なに縁談を退けてきたレゼが、今まさにぐらぐらと揺らいでいる。
そして当然、ユリウスがそれを見逃すはずもない。
「考えてみろよ、レゼ。結婚したらお前、毎日あの筋肉を好きなだけ眺められるんだぞ?」
――それがとどめだった。
「ま、まあ、そこまでおっしゃるのでしたら?」
先ほどまでふんぞり返っていたレゼは、いつの間にか身体を起こし、ちょこんと両手を膝の上に重ねている。
「嫁いでも……いいですけど?」
難攻不落だったレゼの城に、ついに白旗が上がった。




