誤解の火種
朝靄の残る中庭に、剣が風を切る音が響く。
空気は身が引き締まるほどに冷えているが、最後の一振りを終えるころには、額にうっすらと汗が滲んでいた。いつもの時間、いつもの鍛錬。騎士団長になったからといって、この習慣を変えるつもりはなかった。
王都の北東、貴族街の外れに建つこの邸は、俺が辺境から王都へ戻る際、褒賞として与えられたものだ。一人で暮らすにはいささか広すぎる。だが、この中庭だけは気に入っていた。
屋敷も家具も、必要なものだけあればそれでいい。贅沢な暮らしに興味はない。俺にとっては、こうして誰にも邪魔されず剣を振れる場所があることのほうが、よほどありがたかった。
(そろそろ戻るか)
そう思ったところで、裏手から呆れたような声が飛んできた。
「毎朝毎朝、よくもまあ飽きませんねぇ! それ以上鍛えてどうするんです、坊ちゃま。そんなに筋肉ばかりじゃ、お嫁さんが寄りつきませんよ」
声の主は乳母上がりの使用人、マチルダだ。五十を過ぎた今も働き者で、口うるさいところは昔から変わらない。俺が伯爵家を出てこの屋敷に移るときも、「坊ちゃまの世話があるから」と当然のような顔でついてきた。
「朝から元気だな、マチルダ」
いったいどこから見ているのか知らないが、この乳母はいつも、こちらが鍛錬を終えるのとほとんど同時に温かい茶を持って現れるのだ。
「世間では華奢な男性がもてるんですよ。まったく、自ら正反対を行ってどうするんですか」
差し出されたタオルを、いつものように受け取る。
「別に嫁はいらない。一生独り身でも構わん。兄さんが家を継いでるんだ。俺が跡継ぎを考える必要もないだろう」
「そういう問題じゃありませんよ、坊ちゃま! 嫁の一人も迎えられないようじゃ、立派な騎士団長が聞いて呆れます。世間体というものがあるんです!」
「世間体を気にするような性格だったか、俺が?」
「少しは気にしていただかないと困ります!」
マチルダは腰に手を当て、ぴしゃりと言い切る。まるで年端もいかぬ子どもを叱るような口調だ。この乳母は、いったい俺をいくつだと思ってるんだか。
「だいたい、こんな立派なお屋敷があるというのに、いつまでも女主人がいないなんて格好がつきません」
「誰に格好をつける必要がある」
「……はぁ」
マチルダはがっくりと肩を落とし、これ見よがしに大きなため息をついた。
「そういうところですよ! 騎士団長になった今こそ、坊ちゃまは見られる立場なんです。王太子殿下の近衛騎士を務めていた頃とは訳が違います」
またずいぶん古い話を引き合いに出してくる。王太子の護衛をしていたのなんて、もう何年も前だ。その後は辺境で軍を率い、王都に戻されて今は騎士団長。それが、俺――ヴォルフ・グランツのここ十年の歩みだ。
もっとも、嫁だのなんだの口うるさく言われるのなら、ずっと辺境にいた方がマシだった気もするが。
「さ、お茶が冷める前にさっさと飲んでください。それに、もっとちゃんと汗を拭かないと! 風邪を引きますよ」
「鍛えてるから風邪は引かん」
「ええもう、そう言ってる人ほど寝込むんですから。今度風邪を引いても、看病しませんからね!」
マチルダはぶつぶつ言いながら俺の手からタオルをひったくると、遠慮もなくごしごしと顔をこすってきた。まったく、世話焼きな乳母だ。
ふと、マチルダの動きが目に留まった。さっきから、何度も拳で腰を叩いているのだ。
「マチルダ。腰でも痛めたのか?」
「ええ、まあ。坊ちゃまの屋敷が立派すぎるせいですよ。毎朝毎晩、隅々まで掃除してたら、そりゃ腰もやられますとも」
マチルダは腰をさすりながら、つらそうに顔をしかめた。
「お願いですから、若いメイドをひとり雇ってくださいませんかね。私だってもういい年なんですよ? このままじゃ、背中がくの字になってしまいます」
その言いぐさに、思わず笑いが漏れた。マチルダのことだ。たとえ若いメイドを雇ったところで、結局は自分で掃除をやり直すのが目に見えている。それでも、まあ確かに、この広い邸を一人で掃除するのは大変だろう。
「ふむ。明日ちょうど、王太子殿下に会う用事がある。良い娘がいないか、紹介してもらうか」
「本当ですか? ああもう、お優しい! さすが坊ちゃま!」
先ほどまで散々小言を言っていたくせに、急にこれだ。
だが、紹介してもらうにしても、すぐに来られる若い娘なんて、そうそういるものだろうか。
まあ、そのときは掃除くらい俺が手伝えばいいだけだ。重しでも背負ってやれば、案外いい鍛錬になるかもしれん。
そんなことを考えながら、すっかり温くなってしまった茶を一息に飲み干した。




