天使に救いを求めても
――早起きして東を向けば、天使に会える。
王城で働く者たちの間には、そんな言い回しがある。城の東側に広がる中庭の美しさを讃えたものらしいが、なるほど、うまく言ったものだ。
朝陽に照らされた花々にはまだ朝露が残り、風に揺られてきらきらと光をこぼす。王宮お抱えの庭師たちが丹精込めて手入れをしているだけあって、この時間の庭園は格別に美しい。
だが、そんな庭園に今朝は、天使も嫉妬しそうなほどの華やかな笑顔が二つ、並んでいた。
「このあたりは昨年整備を終えたばかりで、今は薬草を中心に育てているんですよ」
「まあ、薬草ですか。どんなものを育てていらっしゃるのかしら?」
石畳の小道を歩きながら、ユリウス殿下の説明にアメリア姫が興味深そうに耳を傾ける。俺は姫の斜め後ろを、一定の距離を保って歩いていた。
(よくもまあ、朝っぱらからこんな風に微笑み合えるものだ。俺には到底真似できそうにない)
昨日のこともあり、姫の言動を少しばかり懸念していたが、幸い、ユリウス殿下が終始話し相手を務めてくださっている。おかげで俺は護衛任務に専念できていた。もっとも、安心してばかりもいられないが。
「それは、わたくしの国でも育てられていますわ。でも、こちらでは少し使い方が違うのですね」
(……またか)
アメリア姫は殿下との会話を楽しみつつも、時折、こちらへ視線を向けてくる。目が合いそうになるたび、俺はさりげなく周囲へ視線を移した。
(頼むから、視察に集中してくれ)
俺はあくまで護衛だ。それに、周囲には侍女や騎士たちもいる。妙な誤解を招くようなことは、できる限り避けたかった。
そんな俺の気苦労をよそに、アメリア姫は再びユリウス殿下へと向き直り、にこやかに質問を重ねている。
(このまま何事もなく終わってくれればいいんだが……)
やがて一行は、中庭の奥に設けられたガゼボへと差しかかった。八角形の屋根を支える白い柱には蔓薔薇が絡みつき、どういうわけか、花の盛りでもないというのに真紅の薔薇が見事に咲き誇っている。
「素敵なお庭ですわね。どこを歩いても、よく手入れが行き届いていて」
「ありがとうございます。庭師たちもきっと喜びます」
どうやら、ここでの休憩はあらかじめ予定されていたようだ。侍女たちが手際よく支度を始め、銀の盆に載せられた茶器が運び込まれる。テーブルには、この国の特産である葡萄を使った焼き菓子も並べられていった。
俺はガゼボの柱のそばに立ち、周囲に目を配る。庭園を囲む回廊には警備の騎士たちも配置されており、今のところ、特に異常はない。
「そういえば、ユリウス殿下。午後は王都の街を案内していただけるのでしたわね?」
椅子に腰を下ろしたアメリア姫が、いかにも待ちきれない様子で身を乗り出した。王女としての落ち着いた振る舞いのなかにも、こういう年相応の一面があるらしい。
「ええ。午後は商業区を中心に、いくつかご案内する予定です」
「まあ、楽しみですわ。この国へは幼い頃に来たきりでしたので、王都をもう一度訪れてみたかったのです」
「それは嬉しいですね。王都には歴史のある商店も多いですし、きっと楽しんでもらえると思いますよ」
姫は口元をほころばせ、こくりと頷いた。
「ただ、ひとつお願いがございます。午後の視察では、護衛の方々をできるだけ少なくしていただけませんか?」
「護衛を?」
ユリウス殿下が、わずかに眉を上げる。俺としても、それは聞き捨てならない話だ。
「はい。せっかく街へ出るのですもの。できれば、皆さんが普段どおりに暮らしている様子を見てみたいのです。でも、大勢の騎士の方々を引き連れていては、かえって目立ってしまいますでしょう?」
確かに、姫の言うことにも一理ある。王族の視察ともなれば大勢の護衛が付き従い、市民も自然と道を空ける。普段の街の様子を見たいというのであれば、護衛の人数を抑えるのは有効な方法だろう。だが、それと姫の安全は別の話だ。
「お気持ちはわかりますが、姫の安全を考えると、そう簡単には減らせませんね。何人くらいをお考えですか?」
ユリウス殿下も同じ考えらしい。口調こそ穏やかだが、返答は慎重だった。
「ヴォルフ様おひとりでお願いできればと思いますわ」
「へ?」
思わず声が出かかった。いや、俺は耐えたぞ。となれば、今の間抜けな声はユリウス殿下のものか。
(おい、素が出てるぞ!)
殿下がちらりと背後のアルベルトを振り返る。アルベルトはわずかに眉をひそめ、困ったように殿下を見返した。ほんの一瞬のやり取りだったが、どうやら二人とも姫の意図を察したらしい。そりゃそうか。俺にだってわかるくらいだからな。
「その……ヴォルフひとり、ですか?」
「はい。ヴォルフ様は、この国の騎士団長でいらっしゃるのでしょう? それでしたら、安心してお任せできますもの」
アメリア姫はにっこりと笑い、「そうでしょう?」とでも言いたげな視線を俺に向ける。
(いや、俺にふらないでくれ!)
別に王都の治安が悪いというわけではない。俺ひとりでも姫の護衛は十分に務まるだろう。だからといって姫と二人きりにされてはたまらない。 今日こそは殿下に最後までビシッと言っていただかなければ困る。
「いや、まあ、ヴォルフの腕は確かですけど……そういう問題ではなくてですね……」
ユリウス殿下がそっとこちらをうかがってきたので、思い切り圧を込めた視線を返してやった。「ひぇっ」とばかりに肩をすくめ、殿下が取り繕うように咳払いする。
「姫の安全を考えれば、さすがにひとりというわけにはいきません。万が一のことがあってからでは遅いですから」
「そうですか……」
口では残念そうに言うものの、姫の瞳の奥では、諦めきれない思いがまだぷすぷすと燻っていた。
「ですが、ユリウス殿下。わたくし、今回の親善訪問を形式だけで終わらせたくないのです」
その声に、わずかに力がこもる。アメリア姫は真剣な面持ちで言葉を続けた。
「書面や説明だけではわからないことも、きっとたくさんあると思います。だからこそ、この国で暮らす方々の日常を、自分の目で見て、耳で聞いて、肌で感じてみたいのです」
最後は胸に手を当て、ひときわ熱を込めて言い切った。別の思惑はあるにしろ、今の言葉にもまた、嘘はないのだろう。
「ふむ。それは素晴らしい心掛けだな」
不意に、聞き覚えのある声が割って入る。振り返るまでもない。穏やかでありながら、聞く者を自然と従わせるような威厳。姫と王太子の会話を遮れる人物など、一人しかいない。俺はすぐさま姿勢を正した。
「父上!」
ユリウス殿下が驚いたように声を上げる。いつの間に現れたのか、小道に立つレオポルト陛下が、感心したように姫を見ていた。
「高きところからいくら目を凝らそうとも、見えぬものはある。せっかくの親善訪問だ。姫殿下には、民と同じ目線に立ち、我が国のありのままの姿をその目で確かめていただきたい」
「まあ! 陛下! それでは……?」
「ふむ。幸い、我が国には優秀な騎士団がおるでな。おかげで王都の治安も申し分ない」
陛下がゆったりと俺に視線を移す。その何気ない動きにさえ、一国を治める者ならではの余裕が感じられた。騎士団の働きを褒めていただいているというのに、ちっとも嬉しくない。なにしろ、この先に続く言葉が容易に想像できてしまうのだから。
「そうであろう、ヴォルフ? お前ひとりでも、姫殿下をお守りすることはできるな?」
案の定だ。問いかけの形こそ取っているが、その口調は有無を言わせぬものだった。
「はっ。それはもちろんですが……」
「うむ。ならば問題あるまい」
俺の言葉を遮るように、陛下はあっさりと結論を出す。どうやら、俺の返事は最初の「もちろん」だけで十分だったらしい。
「父上、お待ちください! さすがにそれは……!」
「陛下、護衛の人数を減らすにしても、姫殿下の安全を考えますとせめてヴォルフの他に二、三名は……」
ユリウス殿下とアルベルトが揃って異を唱える。だが、陛下は少しも動じず、鷹揚に笑った。
「お前たちが護衛もつけずに王都へ遊びに出ていることを、わしが知らぬとでも思ったか? 男だからとは言わせぬぞ。その細腕では、姫殿下と大差あるまい」
「ぐっ……」
普段は何かと余裕のある二人も、陛下の前ではまるで赤子同然だ。先ほどまでの勢いはどこへやら、すっかり押し黙ってしまった。
(おまえら! 行くならせめてバレないように行けよ!)
「案ずるな。何も、すべてをヴォルフひとりに任せようというわけではない。念のため、数名の騎士を私服で同行させよう。少し離れたところから見守らせれば、街の者たちも普段どおりに過ごせるだろう」
なるほど。それなら姫の希望を叶えつつ、万が一にも備えられる。いや、待て。そうなると、姫のそばにつく護衛は結局、俺ひとりということではないか。
「どうだ、アメリア姫。これならばご希望に添えると思うが」
「ええ! ええ、陛下! 十分ですわ! ありがとうございます!」
姫は満面の笑みで礼を述べると、そっと俺に目配せしてきた。まるで共犯者にでも向けるようなその視線。いや、俺はそもそも嫌なのだが。
(結局、こうなるのか……)
まったく。天使に会えるというのなら、少しくらい俺にも救いがあっていいものを。俺は心の中で盛大にため息をつき、陛下に向かって深く頭を下げた。
「……謹んで、お引き受けいたします」




