ラベンダーの誘惑
夕陽を受けた黒鹿毛の背に、赤褐色の艶が浮かんでいる。こちらの気も知らず、愛馬はゆったりと首を揺らしながら、いつもと変わらぬ足取りで屋敷への道を進んでいた。
(……疲れた)
首筋を軽く撫でてやると、ぴくりと耳を動かす。慣れ親しんだ毛並みの感触に、少しだけ心がほぐれる気がした。
――あのあと、アメリア姫は何事もなかったかのように俺たちを見回し、茶の誘いを丁重に断って自室へ戻っていった。
そして、部屋に残された俺たちの空気といえば、それはもう最悪だった。
扉が閉まるや否や、アルベルトが目を剥いて「レゼになんて言うんだよ!」と詰め寄ってきた。その隣でユリウス殿下はバツが悪そうに「ヴォルフ、なんか……ごめんね?」だと。だが、そもそも事の発端は十年以上も前の出来事だ。今さらどうこう言ってもしょうがない。
結局、ユリウス殿下から「アメリア姫の件は、当面レゼには伏せておくこと」と命じられ、話はそこで打ち切られた。ただでさえ厄介な状況だ。これ以上話をこじらせたくないし、何よりテレーゼ嬢に余計な心配をかけたくない、ということらしい。
「まあでも……お前と数日一緒に過ごせば、その無骨さに百年の恋も冷めるかもしれないし? 希望はあるよ、うん」
最後にはそんな冗談まで飛ばしていたが、当然、笑えるはずもない。俺とアルベルトが揃って睨みつけると、ユリウス殿下はようやく口をつぐんだ。
とはいえ、殿下の言うこともあながち間違いではない。どうせ姫の中で思い出がずいぶん美化されているだけだろう。だが、ああも堂々と好意を告げられては、やりにくくてしょうがない。
(……はあ)
明日から始まる姫の護衛任務を思うと、すでに胃のあたりがしくしく痛い。
そんな俺の気持ちを察したのか、愛馬が小さく鼻を鳴らした。
屋敷に到着し、愛馬を厩舎へ戻して玄関へ向かう。扉を開けると案の定、今日もテレーゼ嬢がにこにこと俺を出迎えていた。
「お帰りなさいませ! ヴォルフ様」
「……ただいま」
この子は、俺が帰ってくるだけで、どうしてこうも嬉しそうなんだか。外套をハロルドに渡して、自室へ向かう。
「それで、そのいただいたお菓子がものすごく美味しかったんですの! ヴォルフ様の分もちゃんと残してありますわよ!」
夕飯のときにでも話せばいいものを、俺の横をミツバチのようにちょこちょことついてきながら、今日の出来事を次から次へと話して聞かせるのも、すっかり見慣れた光景だ。
「……そうか」
それが嫌なわけではない。むしろ、彼女があまりにも楽しそうに話すものだから、こちらもつい相槌を打ったり、質問をしたりしてしまう。
ただ、今日に限っては、どうにも彼女の笑顔をまっすぐに見られなかった。
◇
眠れなかった。
仕方なく階下へ降り、人気のないキッチンで湯を沸かす。戸棚から適当な茶葉を取り出し、ポットに放り込んだ。
(……こういうのも、久しぶりだな)
ふと、辺境での詰所暮らしを思い出す。ポットとカップをトレイに乗せ、足音を忍ばせて談話室へ向かった。
ほのかな明かりだけが灯る談話室は、しんと静まり返っていた。ソファに腰を下ろし、カップから立ちのぼる湯気をぼんやりと眺めていると、何度目かわからないため息が漏れた。
「ヴォルフ様?」
聞き慣れた声に振り向く。扉からテレーゼ嬢がひょっこりと顔を覗かせていた。
「眠れなくてお水を飲みに来ましたの。灯りがついていたので覗いてみたら……ふふっ、幸運でしたわ! ヴォルフ様がいらっしゃるなんて!」
夜更けだからか声はひそめているものの、その表情には嬉しさが隠しきれていない。
「ご一緒してもよろしいですか?」
「あ、ああ……」
テレーゼ嬢はそっと扉を開け、ぱたぱたと小さく室内履きを鳴らしてこちらへ駆け寄ってくる。少しだけ迷って、一人分ほど端へずれてやった。
てっきり隣に座るものと思っていたが、なぜか彼女は俺の前でぴたりと足を止めた。
「ヴォルフ様? これ、いかがでしょう?」
「ん? 何が……なっ――!?」
彼女の声に顔を上げたものの、弾かれたように上半身ごとそっぽを向き、ぎゅっと目を瞑る。理解が視覚に追いついたとたん、顔がかっと熱くなった。
「そっ、それは……っ! 何か羽織らなくていいのかっ!?」
「え? むしろヴォルフ様に見ていただきたいんですのよ?」
(なんでだよ!)
ほんの一瞬しか見てないが、テレーゼ嬢が着ていたのは、薄紫色のやたらひらひらしたドレスだった。しかも、普段のドレスとは違って、ものすごく頼りないというかなんというか……。胸元もずいぶん……その……開いていたような……。
「このドレス、ヴォルフ様に買っていただいたものですの。すごく気に入ってますのよ! こんなに綺麗なラベンダー色、なかなかありませんもの!」
「俺が買った!?」
「ええ♡」
(ど、どういうことだ!?)
混乱する頭で必死に記憶を辿る。
(……って、あの時か!)
そういえば、王都のあの店で聞かれて、薄紫色の方を指差した覚えがある。いや、でもまさかこんな代物だったとは思わないだろう!?
「ふふっ。セシルが『ヴォルフ様って意外とこういうのがお好きなんですね』なんて驚いていましたけど、わたくしはとっても可愛いと思いますわ!」
(ち、違うっ! 俺が選んだが、そうじゃない!)
「ヴォルフ様は、どう思いますか?」
「ど、どうって……」
顔を背けているというのに、なぜだ。俺の返事を待つテレーゼ嬢の期待が、ひしひしと伝わってくるではないか。
(……ままよ!)
そろそろと顔を戻し、薄目を開けると、テレーゼ嬢は得意げにくるりと回ってみせた。
繊細なレースをふんだんにあしらったそのドレスは、袖も裾もふんわりと広がっていて、確かに可愛らしい。テレーゼ嬢にもよく似合っていた。
(だが、やっぱり胸元が開きすぎじゃないか、それ!?)
「あ、ああ……その……よく、似合っている……と思う」
「まあっ! 本当ですの!? ありがとうございます!」
満足したらしいテレーゼ嬢は、にこにこと俺の隣へ腰を下ろした。
目の前から彼女がいなくなり、ひとまずほっとしたのも束の間。何気なく隣に目をやって、ぎょっとする。
近くで見ると、思っていた以上に生地が薄い。袖なんて白い腕が透けて見えるし、何よりこの角度はまずい! 胸元が!
「ヴォルフ様? また腕を組んでもよろしいですか?」
「いっ……今!?」
「ええ。いけませんか?」
無邪気な目で見上げられ、どっと汗が噴き出した。
(いけないわけじゃない! いけないわけじゃないが……今は状況が違うだろう!?)
たまらず視線を横へ逃がすと、まさに天の助け。ソファの背もたれに掛かったブランケットが目に飛び込んでくる。
「さっ、寒くないか?」
俺はすかさずそれを引っ掴み、テレーゼ嬢の肩に掛けた。だが、それでは俺が一番隠したいところが隠れないことに気づき、さらにぐるぐると巻きつける。
「ヴォルフ様? これでは腕が組めませんわ」
「ぐっ……」
確かにその通りだった。そのうちもぞもぞとテレーゼ嬢の肩が動き出したので、慌ててブランケットの端を押さえ、観念して白状した。
「…………すまん……その……目のやり場に困って……」
我ながら、なんと情けない。
テレーゼ嬢はぱちくりと目を瞬かせていたが、やがてブランケットに包まったまま、ゆっくりと自分の胸元を見下ろす。
「……困るほどありませんわよ?」
「そういう問題じゃないっ!!」
(なんでそんなに無防備なんだ! 勘弁してくれ!)
いっそこのまま、あと百回くらいぐるぐる巻きにしてやりたい。思わず深々とため息が漏れた。
だが、そんな俺の気も知らず、テレーゼ嬢は何やら考えたのち、すぽすぽと両腕だけをブランケットから出して、俺の腕にくっついてきた。
「ふふっ。なら、これで解決ですわね?」
「…………そうだな」
こてん、とテレーゼ嬢が俺の肩に頭を預けてくる。さっきまでの俺なら間違いなく動揺していたところだが、今はもう、そんな気力すら残っていなかった。もはや何が起きようと動じる気がしない。
「ヴォルフ様?」
「ん?」
「その……お姫様は……やっぱりお綺麗な方でしたか?」
(なっ!?)
前言撤回。何が動じる気がしないだ。体はあっさりと俺を裏切り、心臓がバクバクと暴れ出す。なぜ今ここで、よりにもよってその話題を持ち出す? 誰かに何か聞いたのか!?
いや、きっと彼女は深い意味があって聞いているわけではないはずだ。ちらりとテレーゼ嬢の顔を窺ったが、あいにく表情までは読み取れなかった。とりあえず当たり障りのない返事をしておくのが吉だろう。
「……ああ。まあ……綺麗な人だったな」
「そうなんですね……」
テレーゼ嬢の声は、いつになくしゅんと萎んだように聞こえた。
「……ヴォルフ様?」
「……なんだ?」
「もし姫様が暴漢に襲われたとしたら……あまりカッコよくない感じで助けてくださいませ」
「は? 暴漢? いきなり何の話だ?」
「いえ、こちらの話ですわ」
そう言って、彼女は俺の腕をきゅっと抱きしめた。




