心配ご無用、ですわよね?
「テレーゼ様、そろそろですよ」
「は、はいっ! では本日も行ってまいりますわ!」
マチルダさんの声に、私は慌ててお盆を持ち上げる。朝の鍛錬を終えたヴォルフ様にお茶をお届けするのは、今ではすっかり私の日課となっていた。
もっとも、いまだにマチルダさんのお力を借りていることがひとつだけある。それがこの、ヴォルフ様にお茶をお持ちするタイミングだ。
なんでも、ヴォルフ様は鍛錬の終盤になると、剣を振るう音がほんのわずかに変わるのだという。長年ヴォルフ様のお世話をしてきたマチルダさんには、その違いが手に取るようにわかるらしい。私にはどう聞いても同じ音にしか聞こえないのだから、なんとも悔しい話である。
(筋肉の動きなら、どんな些細な違いも見逃しませんのに……!)
いつかは私もマチルダさんの域に達するべく、中庭へ向かいながら、剣の音にじっと耳を澄ませた。
「おはようございます、ヴォルフ様」
「ああ、おはよう」
ちょうど剣を収めたヴォルフ様が、こちらを振り返った。今日もマチルダさんのタイミングは完璧だ。
ヴォルフ様は差し出したタオルでささっと顔を拭くと、それを私に返し、代わりにお茶を受け取られる。
(こ、これが阿吽の呼吸というものですわよねっ! きゃっ、私たち、ずいぶん夫婦らしくなってきたのではありませんこと!?)
もちろん、捲り上げられた袖から覗く腕をさっと観察することも忘れない。本日もヴォルフ様の前腕屈筋群はすこぶる調子が良いとみた。
そんな私の浮かれた気持ちなど知る由もなく、ヴォルフ様は受け取ったお茶をゆっくりと口に運んだ。そのまま、何かを探すように庭の周囲へと視線を巡らせる。
「今日は……いつも来るリスが二匹に増えてたぞ」
「まあ! 本当ですか? わたくしが毎日こっそり置いているナッツを気に入って、お友達を呼んできたのかしら」
「……そんなことしてたのか」
「ええ!」
ヴォルフ様が呆れた目で私を見下ろす。
(ふふっ。ご覧のとおり、最近は会話もすっかり弾んでいますの!)
「そういえば、今日から隣国の親善使節団が王都入りするんだが、今回は姫殿下も同行されるそうだ」
「まあ、そうなのですか?」
「ああ。俺も何度かしかお目にかかったことはないが、たしか、テレーゼ嬢と同じくらいの年齢だったはずだ。滞在中は、俺が姫殿下の案内と護衛を任されている」
(わたくしと同年代のお姫様……。どんな方なのかしら?)
隣国は音楽もファッションも、この辺りの国々では一歩先を行くと聞いている。姫殿下も、きっと洗練された素敵な方なのだろう。
「しばらくは朝早く出ることになるし、邸に戻るのも遅くなるかもしれない。日中もほとんど王宮に詰めることになるだろうな」
「まあ、それは大変ですわね。朝の鍛錬はどうなさるのです?」
「使節団の滞在中はできないだろうな」
「そうですのね……」
しばらく朝のお茶をご一緒できないのは寂しいけれど、国賓としていらっしゃる姫殿下の護衛だなんて、それはもう大切なお役目だ。
「どうかご無理はなさらないでくださいませ。でも、そんな大役を任されるなんて、さすがはヴォルフ様ですわ!」
ありったけの尊敬の念を込めて見つめたのに、ヴォルフ様はさっと足元に視線を落としてしまわれた。
「……仕事だからな。別に、大したことじゃない」
またずいぶんとつれない。けれど、ちらりとヴォルフ様の耳に目をやり、私は思わず胸をきゅんとさせる。案の定、耳が赤い。最近、ヴォルフ様のことが少しずつわかってきたのだ。
嬉しさを隠そうとすると、かえって声が低くなること。困ったときには、無意識に首の後ろをさすること。私のヴォルフ様チェック項目は増える一方だ。
(もうっ! わたくしってば、今ではヴォルフ様のお気持ちまで、こんなにわかるようになりましたのよ!)
◇
「えっ、でもそれって、奥さまとしては、ちょっと心配なんじゃないんですか?」
焼き菓子を取り分けていたルーディさんが、にやりと意地悪そうな笑みを浮かべる。この邸で私を「奥さま」と呼ぶのは、ルーディさんだけだ。最初はくすぐったかったけれど、今ではすっかり慣れてしまった。
「心配? 何がですの?」
今日は美味しそうなお菓子をいただいたので、さっそく皆さんと楽しもうと、食堂に集まっていた。お茶の支度をする間にも、話題は隣国の姫殿下のことで持ちきりだ。
「だって、ヴォルフ様がお姫様の護衛ってことは、四六時中一緒にいるわけでしょう? しかも相手は若くて美しいお姫様。何が起こるかわかりませんよ。暴漢から姫を守ったヴォルフ様に、うっかりお姫様がフォーリンラブ♡ なーんて展開も、あるかもしれないじゃないですかぁ。って、いてっ!!」
「これ、ルーディ! とんでもないこと言うんじゃありませんよ!」
いつの間にか背後に回っていたマチルダさんが、ルーディさんの頭をぴしゃりとはたく。
「坊ちゃまに限って、そんなことがあるはずございません! それに、坊ちゃまとテレーゼ様は相思相愛なのですから!」
「じょ、冗談ですってばぁ……」
ルーディさんが頭をさすりながら、情けない声を上げた。そんなお二人のやり取りを笑って見ていたけれど、言われてみれば、あり得なくもないかもしれない。だってヴォルフ様はあんなに素敵なのだから。
(もしも……ですわよ?)
私の頭の中にぽっと浮かんだのは、騎士服に身を包んだ精悍なヴォルフ様と、美しいお姫様だ。
姫殿下が暴漢に襲われたりしたら?
そしてヴォルフ様があの逞しい腕で姫殿下をさっと抱き寄せ、危険から守ったりなんかしたら……?
(ど、どど、どうしましょう!?)
むむむ、と眉間に皺を寄せていると、ルーディさんがぎょっとした顔でこちらを見た。
「わわっ! 奥さま! すみません! ないない! ないですからねっ!」
「まったく、余計なことを……!」
セシルがルーディさんをぎろりと睨みつけたかと思うと、今度は私に向き直り、優しく微笑んだ。
「安心してくださいね、テレーゼ様。ヴォルフ様が姫殿下に好意を寄せられるなど、まずあり得ませんから」
「そ、そうかしら……?」
「ええ。あの愛想のなさに、女性への気遣いのなさ。おまけに、真面目にもほどがあるあの言動。姫殿下がお心を寄せるとは到底思えません」
「セ、セシル……?」
あまりにきっぱりと言い切るものだから、今度は私のほうがヴォルフ様を庇いたくなってしまった。
「ええ、ええ。それに、坊ちゃまはあのご体格ですからねえ。テレーゼ様のようにお喜びになる方は、そうそういらっしゃいませんでしょう」
マチルダさんまで、しみじみと頷いた。
「で、でも……他国の事情まではわかりませんわ! 他国ではヴォルフ様のようなお身体がもてはやされる風潮だったとしたら……!」
ことりと、目の前に空のティーカップが置かれた。顔を上げると、ハロルドさんがポットから紅茶を注いでくれる。
「ご安心ください、テレーゼ様。少なくとも近隣諸国では、好まれる男性の体格は我が国とさほど変わりません」
「そ、そうなのですね……」
ハロルドさんがそう言うなら、そうなのだろう。ヴォルフ様のお身体が好まれないと聞いて喜ぶのもおかしな話だけれど、今ばかりはちょっとだけよかったと思ってしまった。
「ささっ、奥さま! そんなことより、美味しいお菓子でもいただきましょう! これ、新しくできた店ので、今めちゃくちゃ人気らしいですよ!」
ルーディさんが、焼き菓子の載った皿を次々とテーブルに並べていく。
鮮やかな青い小花が散りばめられたその皿は、この邸に来てすぐに私のお気に入りになったものだ。今日はその上に、こんがりと焼き色のついた、小さなお菓子が三つずつ並んでいる。
(まあ、かわいらしい!)
どれから食べようか目移りしてしまうけれど、まずは真ん中に赤いジャムののった、お花の形のクッキーを選んだ。舌の上でほろりと崩れるクッキーの優しい甘さに、ねっとりとしたジャムの酸味がよく合う。
(そうですわよね。ヴォルフ様は大切なお仕事をなさっているんですもの。変な想像をして、勝手に心配するなんて、失礼というものです!)
「んんっ! とっても美味しいですわ!」
そんな私を見て、ルーディさんがほっとしたように自分の皿に手を伸ばした。




