たまには土産でも
「……ふう」
ようやく書類の山をひとつ片づけ、椅子の背にもたれかかった。
昼を知らせる鐘が鳴ってから、もうしばらく経つ。食堂へ向かう団員たちの賑やかな足音もすっかり途絶え、団長室の内も外も静まり返っていた。
静かじゃないのは、さっきから盛大に抗議を続けている俺の腹くらいだ。
(まったく、ギルバートが休みの日に限って、どうしてこう仕事が重なるんだ……)
机の上には、まだ手つかずの書類が積まれている。だが、さすがに腹が減った。これ以上は集中力も続きそうにない。
「……飯にするか」
普段はギルバートや部隊長たちと、打ち合わせを兼ねて団長室で昼食を済ませることも多いが、たまには食堂で団員たちと飯を食うのも悪くないだろう。
食堂に足を踏み入れた途端、むっとした熱気と喧騒に包まれた。長卓には屈強な男たちが肩を並べ、山盛りの飯を豪快にかき込んでいる。食器のぶつかる音、野太い笑い声、あちこちから飛び交う怒鳴り声じみた冗談。どうにも騒がしいが、この雰囲気は嫌いじゃない。
「団長、こっち空いてますよ!」
盆を手に席を探していると、こちらに気づいた団員が片手を挙げた。
「珍しいっすね。今日は食堂ですか?」
「ああ。ギルバートが休みだし、たまには、と思ってな」
「ついてますね! 今日のポークステーキ、うまいっすよ」
「そうか。それは楽しみだな」
騎士団の食堂は、安くて量が多い上に味も悪くない。今日のポークステーキもなかなかの厚切りで、食べ応えは十分だ。一切れ口に運ぶと、ほどよい塩気と香ばしい脂の旨みが広がり、確かにうまかった。黙々と食べ進めながら、何とはなしに団員たちの会話に耳を傾ける。
「だから、あそこで駆け落ちすりゃよかったんだって!」
「人妻と駆け落ちって、それ不倫じゃねえか!」
駆け落ちだの不倫だのと、穏やかでない単語が飛び出してきてぎょっとしたが、どうやら今流行りの恋愛小説について話しているらしい。
「結局、エミリアが選んだのはダミアンじゃなくてハンメルだろ? 俺はダミアンとくっついてほしかったなぁ」
「まあな。でもさ、結局ダミアンもハンメルも線の細い美男子なんだよな。たまには俺たちみたいな男が出てきてもいいと思わねえ?」
「お前みたいなのが主人公じゃ、誰も買わねえだろ」
「ははっ! 違いねえ! って、クソー!」
どっと笑いが起こる。まったく、気持ちのいい連中だ。こんなふうに自分たちを笑いの種にこそすれ、誰ひとり卑屈になどなっていない。日々の鍛錬で培った身体に、それぞれ誇りを持っているのだ。もっとも、筋肉男がモテない今の風潮には、不満タラタラのようだが。
「あ、団長はもう『薔薇は二度咲く』読みました?」
「いや、そんな本があることすら知らなかったな」
「マジっすか! 今、王都じゃ相当流行ってますよ。俺たちとは縁遠い世界の話ですけど、これがなかなか面白くて。奥さんにも買っていってあげたらどうです?」
「……そうだな」
そう返事はしたものの、内心苦笑する。華奢な美男子が二人も出てくる恋愛小説か。テレーゼ嬢なら、きっと表紙を見ただけで興味を失いそうだ。
だが、マチルダなら話は別だ。ああいうドロドロした恋愛模様が大好物だからな。きっと喜ぶだろう。
(帰りに一冊、買っていってやるか)
◇
仕事を終え、帰りがけに立ち寄った書店で、目当ての『薔薇は二度咲く』はすぐに見つかった。入口近くの目立つ場所に山積みになっていたからだ。なるほど、かなりの人気らしい。
だが、見つけたからといって、すんなり買えるわけではなかった。俺は先ほどから、少し離れた棚の陰に身を潜め、こそこそとその本の山をうかがっている。
(な、なんだあの近寄りがたい空間は!?)
困ったことに、売り場全体が真っ赤なのだ。床には赤い絨毯が敷かれ、棚まで赤く飾り立てられている。そこかしこに薔薇の花びらが散らされ、頭上には『あなたはどちらの愛を選ぶ?』の文字。その両脇には、薔薇を咥えた等身大の美男子二人の立て看板が、これでもかと甘い微笑みを振りまいていた。
だが、さらに問題なのはそこに集まっている客たちだ。若い女性が何人も、楽しそうに本を手に取っている。さすがにあの中へ割って入る勇気はない。
(どうする。また日を改めるか?)
諦め半分でため息をつき、ふと目の前の棚に視線をやった。ここは画集を扱う一角らしく、風景画や人物画を収めた本がずらりと並んでいる。何気なく背表紙を眺めていると、ある文字が目に留まった。
(オルテンシア出版?)
つい最近、うちの応接室で耳にしたばかりの名前だ。細眼鏡をかけたあの男の顔が、頭をよぎる。
(もしかして……)
端から端までざっと背表紙を見渡してみたが、それらしき名前はない。だが、その中に気になる一冊を見つけた。ひときわ飾り気のない背表紙に記されている作者名は、ただ「R」の一文字だけ。
(……R……)
そっと手に取りページを開いてみると、そこには隆々と盛り上がる筋肉が、実に生き生きと描かれていた。
(まさか、ここで出会うとはな……)
ちょうど若い女性が二人、こちらに向かってくる。俺はとっさに画集を棚に戻し、棚の奥へと移動した。
「Rさんの新作、まだ出ていないのかしら?」
「ええ、まだみたいですわ。ああ、待ち遠しいったら!」
どうやら二人とも、テレーゼ嬢の画集の愛読者らしい。先ほどまで俺が手に取っていた一冊を前に、楽しそうに言葉を交わしている。
「何度見ても素敵ですわね。この腕の筋肉なんて、今にも動き出しそう!」
「ええ、本当に! わたくし、Rさんの描く背中が大好きですの。あなたはどの部位が一番お好き?」
「しっ! 声が大きいですわ!」
片方の令嬢が慌てて周囲を見回す。もう一人もはっとしたように口元を押さえ、二人は顔を寄せ合って声を潜めた。
「ご、ごめんなさい。つい夢中になってしまって……」
「ふふっ、気持ちはわかりますけれど。こんなところを知り合いに見られたら大変ですもの」
「そうですわね。筋肉が好きだなんて知られたら、何を言われることか……。先日のお茶会でも、皆さん『薔薇は二度咲く』の殿方のお話ばかりで。わたくし、話を合わせるのに苦労いたしましたわ」
「わかりますわ。わたくしも、ああいう華奢な殿方より、もっと逞しい方が好みなのですけれど。お父様が持っていらっしゃる縁談は、線の細い令息ばかりなんですの」
「それはお気の毒ですわね」
「はあ……。こんなときは、この素晴らしい大臀筋を眺めて癒されるに限りますわ」
「うふふ、わたくしはこの広背筋がおすすめですわよ」
「まあ! それも素敵ですわ!」
令嬢たちはまだ画集を手に話を弾ませていたが、俺は二人に気づかれぬよう、そっとその場を離れた。
◇
「おい! なんで隣に座るんだ!」
「あら、だってヴォルフ様からお茶に誘っていただけたんですもの。嬉しくて、つい! それに、以前お隣に座るのは許してくださったじゃありませんか」
「だからって! 飲みにくいだろ!」
まったく、向かいのソファが空いているだろうに。
本屋で令嬢たちの会話を耳にしたから、というわけでもないが、何となく思うところがあって、夕食後にテレーゼ嬢を茶に誘ってみた。その喜びようといったら。満面の笑みで俺の後をついてくる彼女の後ろに、ぱたぱたと動く尻尾が見えたかと思ったほどだ。
自分から誘った手前、何か話さなければとは思うのだが、何を話せばいいのかわからない。結局、さっきから茶ばかり飲んでいた。
「ところでヴォルフ様、今日はわたくしに何かお話でしたか?」
「あ、いや……話ってほどでも……」
「もしかして、先日の画集の件を気にしてくださっているんですの?」
「べっ、別にそういうわけじゃ……」
とは言ったものの、あれだけきっぱり断ったのだから、少しくらいは気にもなる。そんな俺の返事がおかしかったのか、テレーゼ嬢は小さく肩を揺らした。
「どうぞお気になさらないでくださいませ! わたくし、ちゃんと納得しておりますから。ヴォルフ様のお気持ちが何より大切ですもの」
どうやら強がりでも負け惜しみでもないらしい。あれほど熱心に頼み込んできたというのに、テレーゼ嬢は実にあっけらかんとしていた。
「今日……本屋で君の画集を見つけた」
「えっ!? わたくしの画集を?」
「ああ。別に探していたわけじゃなくて、偶然目に入ってな。オルテンシア出版の棚にあったんだ。『R』とだけ書かれていたが……あれは君のだろう?」
「ええ! そうですわ!」
テレーゼ嬢は目を丸くしたまま、俺の顔をじっと見つめている。まあ、俺が彼女の画集を手に取るとは、夢にも思っていなかったんだろう。
「ずいぶん飾り気のない表紙なんだな。いや、悪いって意味じゃないんだ。てっきり君はこの間のカフェみたいな、華やかな雰囲気が好きなのかと思っていたから」
「ふふっ。実は、わざとそうしているんですの」
「わざと?」
「ええ。わたくしたちのような筋肉好きは、まだまだ少数派でしょう? 好きだと思っていても、周りの目が気になって、なかなか口に出せない方もいらっしゃると思うんです」
テレーゼ嬢は少しだけ表情を和らげ、言葉を続けた。
「ですから、せめて画集を買うときくらいは、人目を気にせずに済むようにしたくて。表紙を見ただけでは、筋肉の画集だとわからないようにしてありますの」
「……なるほど」
「せっかく手に取ってくださったのですもの。誰にも遠慮せず、心ゆくまで楽しんでいただきたいですわ」
テレーゼ嬢はくるりと俺のほうへ顔を向け、茶目っ気たっぷりに笑った。ふと、本屋で出会った二人の令嬢が頭に浮かぶ。そういえば彼女たちも、周囲を気にしながら声を潜めて画集を眺めていた。
「……君自身は、あまり人目を気にしないようだが」
「ええ! だって、好きなものは好きなんですもの!」
テレーゼ嬢は迷いなく言い切る。
「もちろん、変わり者だと言われたこともありますわ。でも、だからといって、好きなものを好きだと言えないなんて、つまらないでしょう?」
「まあ……そうかもな」
「ただ、誰もがわたくしのように平気でいられるわけではありませんもの。でも、わたくしの画集を見て、同じものを好きな人がほかにもいるのだと知って、嬉しく思っていただけたら……。そんなふうに、皆様の『好き』を応援したいんですの」
少しだけ遠くを見つめて、彼女は柔らかく微笑んだ。
正直、少し意外だった。てっきり自分の好きなものを好きなように描いているのだと思っていたが、そこには彼女なりの思いもあったらしい。
しばらくぼんやりとその横顔を眺めていると、彼女がこちらを向く気配がして、俺はそっと目を逸らした。
「ヴォルフ様、わたくし、いつか筋肉好きの皆様を集めて、お茶会を開くのが夢なんです!」
「お茶会?」
「ええ! 美味しいお茶とお菓子を楽しみながら、好きな筋肉について思う存分語り合うんです。きっと、とても楽しいと思いません? 考えただけでわくわくしてしまいますわ!」
ふっと笑みがこぼれた。テレーゼ嬢の語る夢は、なんというか彼女らしくて突拍子もない。だが、不思議と彼女ならいつか実現させてしまうような気がした。
「いいな。そこにうちの団員たちも呼んでやってくれ」
「まあ! それはもう筋肉鑑賞会ではありませんか! お茶会どころではなくなってしまいますわ!」
とうとう堪えきれず、声を立てて笑ってしまった。まったく、この令嬢には敵わない。
「あら、お茶がもうなくなりましたわね。ハロルドさんにお代わりをいただいてまいりますわ」
そう言って、テレーゼ嬢がいそいそとソファから腰を浮かせた。
「……いいぞ」
「え?」
立ち上がりかけた彼女が、きょとんとした顔で振り返る。
「画集に俺の絵を入れたいんだろ。考えが変わった」
テレーゼ嬢はぽかんと口を開けたまま、ぴたりと固まってしまった。じわり、じわりと、その大きな瞳に喜びの色が広がっていく。やがて、桃色の小さな唇がふるふると震え始めた。
「……い……いいんですの……?」
「ああ」
「ヴォルフ様っ!!」
テレーゼ嬢はとたんにきらきらとした笑みを顔いっぱいに浮かべ、両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。
「抱きついてもよろしいですかっ!?」
「だっ……! 駄目に決まってるだろ!」
「ええっ!? では、この湧き上がる想いをどうしたらよろしいんですのっ!?」
「知らんっ!!」
なおもうるうると未練がましくこちらを見つめるテレーゼ嬢を前に、ふと、マチルダに本を買って帰るのをすっかり忘れていたことを思い出した。
(まあ、いい)
どうせまた行ったところで、俺一人ではあそこで買える自信がない。
(次は……テレーゼ嬢でも誘ってみようか)




