お願いがあるんですの
目に飛び込んできたのは、テーブルに広げた冊子を覗き込みながら顔を寄せ合う、テレーゼ嬢と見知らぬ男の姿だ。何やら熱心に話し込んでいたが、こちらに気づくと、テレーゼ嬢は慌ててそれを閉じた。
「ヴォ、ヴォルフ様! お帰りなさいませ。お出迎えできなくて申し訳ありません」
いつもなら満面の笑みで迎えてくれるところだが、今日はどうも様子が違う。冊子を手に立ち上がると、これから神の審判でも下されるかのような面持ちで、おずおずと男の隣へ移動した。
(……なぜそっちへ行く?)
一方、男は俺を見るなり、まるで新種の生き物でも発見したかのように細眼鏡のつるをくいっと押し上げ、「ほう」と目を細める。妙な空気に首を傾げつつ、俺はテレーゼ嬢が空けた席に腰を下ろした。
「ヴォルフ様、あの、こちらの方は……」
テレーゼ嬢が言いよどむ間に、男がすっと立ち上がる。
「お初にお目にかかります。オルテンシア出版社で編集をしております、フェルナン・グレイと申します」
そう言って、男は丁寧に頭を下げた。なるほど、マチルダが言っていたとおり、いかにも今流行りの美男子といった風貌だ。
そういえば、テレーゼ嬢は以前、画集を出しているとかなんとか言っていたな。出版社の編集者なら、仕事上の付き合いがあってもおかしくない。
「いやあ! お噂のとおり、素晴らしいお身体だ!」
男は感嘆の声を上げると、俺の肩から胸元、腕へと、遠慮なく視線を巡らせる。
(は? なんだ、こいつ)
「……ヴォルフ・グランツだ。それで、俺に何か用があると聞いたが」
俺がそう切り出すと、テレーゼ嬢はちらりと隣の男を見た。男もまた、それに応えるようにひとつ頷く。妙に息の合ったその様子に、ほんの一瞬、先ほどのマチルダの言葉が脳裏をよぎる。
それからテレーゼ嬢は、手にした冊子をぎゅっと握りしめ、意を決したように顔を上げた。
「あ、あのっ! わたくし、ヴォルフ様にお願いがあるんですの」
「お願い?」
「はい。実は……」
まるで俺の返事ひとつで、この世の幸不幸が決まるとでもいうような顔だ。そこまで真剣な眼差しを向けられると、こちらも妙に身構えてしまう。
「ヴォルフ様の絵を次の画集に載せさせていただきたいのです!」
「は? 俺の絵?」
「はい。ヴォルフ様も、わたくしが絵を描くことはご存じでしょう? それに……その、わたくしが時々、ヴォルフ様をこっそり描かせていただいていることも……」
テレーゼ嬢はもじもじと冊子で口元を隠し、その上からそろりと俺を窺った。あれでこっそりのつもりだったことには驚きだが、別に彼女が絵を描くこと自体は気にしていない。
「……ああ」
そう答えると、テレーゼ嬢はぱっと嬉しそうに笑い、少しばかり勢いを取り戻した。
「ヴォルフ様のもとへ嫁いできてから、それはもう筆が進んでおりますの。そろそろ自信作も溜まってきましたので、ぜひ世に出したいと思っているのですが……」
テレーゼ嬢はそこで言葉を濁し、困ったようにフェルナンへ目を向けた。
「フェルナン様から、ヴォルフ様の許可をいただかないと画集には載せられないと言われまして……」
「いやあ、そりゃそうですよ! なんといっても我が社は信用第一ですから。ご本人の許可もなく出版するわけにはいきません!」
それまで黙っていたフェルナンが、ここぞとばかりに口を挟んだ。
「ですがね、ヴォルフ様! 我が社といたしましても、次の画集は何としても世に送り出したいのです! テレーゼ様の作品には、以前から熱烈なファンがついておりましてね。新作を待ちわびる声も、それはもう根強い! しかも、ご結婚されてからというもの、作品の迫力といい、筆の冴えといい、まさに目を見張るものがある! いったい何があったのかと思っておりましたが……いやあ、先ほどヴォルフ様をひと目拝見して、すっかり合点がいきました! なるほど、あれほどの傑作が生まれるわけです!」
細眼鏡の奥の目を輝かせ、フェルナンは熱弁を振るっている。この男、ただの優男に見えたが、どうやら相当の熱血漢らしい。というか、夢中になると周りが見えなくなるあたり、どこかの誰かさんとそっくりだ。
ちらっとテレーゼ嬢に目をやると、案の定。最初こそ神妙な顔で聞いていたものの、作品を褒められ始めたあたりから、だんだんと表情が忙しくなってきた。褒め言葉がひとつ飛び出すたびに、ふにゃりと相好を崩す。そのたびに慌ててすまし顔に戻るのだが、どうにも長続きしない。嬉しいなら素直に喜べばいいものを。お願いをしている手前、浮かれてはいけないとでも思っているのだろうか。
ところが、話が俺の身体に及んだ途端、その努力も怪しくなってきた。小さく、しかし猛烈な勢いで頷き始め、しまいには何やらぷるぷると震えている。そしてついに。
「そっ……そうなんですのっ!」
テレーゼ嬢が弾かれたように立ち上がった。
「これも全てヴォルフ様の素晴らしいお身体のおかげですわ! 自分で言うのもあれですが、神がかり的な作品が次々と生まれてしまいますの! ああ、一刻も早く、筋肉を待ち侘びている全ての方々に捧げたいですわっ!」
あっという間にいつものテレーゼ嬢だ。うっとりと宙を見つめているが、どうやら彼女には俺には見えない何かが見えているらしい。
「ですよね、ですよね! いやあ、あまりにも素晴らしいものですから、次はぜひ上半身は裸で、なんて話もしていたところでして! あれほど見事な筋肉を衣服の下に隠しておくなんて、実にもったいない! まあ、テレーゼ様には顔を真っ赤にして断られてしまいましたがね! はっはっは!」
「上半身……裸……」
腹の底から愉快そうに笑うフェルナンを、テレーゼ嬢が恥ずかしそうに肘で小突いた。どうやらこいつらの頭には、俺が断るという選択肢が存在しないらしい。
(……マチルダ。お前のせいで、俺は一体何を想像させられていたんだ)
どうせ今も扉の前で聞き耳を立てているであろう乳母に、盛大なため息を聞かせてやった。
それをどう受け取ったのか、テレーゼ嬢がはっと居住まいを正し、ソファに座り直した。
「こ、こほんっ。それで……フェルナン様に言われて、わたくしも考えましたの。ヴォルフ様のお姿を世に出すのですから、何よりご本人のお気持ちが大切ですわ。ですから……」
テレーゼ嬢は一度きゅっと唇を結び、ひと呼吸置いてから口を開いた。
「ヴォルフ様! きっとすべての筋肉好きにとって、至福のひとときを約束する一冊になりますわ! どうか、出版をお許しいただけませんか?」
「そうですとも! ですからっ! ヴォルフ様、ぜひともご許可を!」
「断る」
「「えっ!?」」
二人は揃って目を丸くした。いや、なぜそこで驚く。
「当然だろう。俺を描くのは構わんが、画集にして世間に広めるのは勘弁してくれ。騎士団の連中に見つかりでもしたら、何を言われるかわかったものじゃない」
ばっさりと切り捨てたつもりだったが、なぜかテレーゼ嬢は頬をぱっと紅潮させた。澄んだ宝石のような瞳を輝かせ、俄然やる気を出した様子だ。
「まあっ! それならご安心くださいませ。絶対に! ヴォルフ様だとはわかりませんから!」
「は? どういうことだ?」
思わず聞き返すと、テレーゼ嬢はわずかにためらったあと、そろそろと冊子をテーブルの上に滑らせてきた。
「あの……ご本人にお見せするのは少し恥ずかしいのですけれど、こちらを見ていただくのが早いかと。きゃっ♡」
さっきから大事そうに抱えていたのは、スケッチ帳だったのか。そんなに自信満々で言うということは、風景の一部に、よほど遠目で小さく俺を描いているのだろうか。まあ、それなら考えなくもないな。
手に取って、ぱらぱらとページをめくる。
「なっ……!?」
そこには、見まごうことなく俺がいた。
いや、俺の腕がいた。いや、俺の腕の筋肉がいた!!
遠目どころか、まくり上げた袖から露わになった前腕が、紙面いっぱいにでかでかと描かれていたのだ。浮き上がる筋や血管まで、恐ろしく緻密だ。
「な、なんだこれは!」
次のページには、襟元のボタンを二つ外したシャツから、わずかに覗く胸板。鎖骨のくぼみから胸筋へと続く繊細な起伏が、執拗なまでに丁寧に描き込まれている。
さらにめくれば、汗で張り付いたシャツ越しに浮かび上がる肩や背中の筋肉。腹筋なんて、いったいいつ見たんだ!?
めくってもめくっても、これでもかというほど筋肉が迫ってくる。顔はおろか、全身を描いたものすら見当たらない。
確かに、これなら俺だとはわからないだろう。だが、そういう問題じゃない!
そもそも、俺は人前で肌を晒すことに抵抗などない。騎士団では着替えもするし、訓練で上半身裸になることだってある。
(なのに何なんだ、この恥ずかしさは! 裸を見られるよりよっぽど恥ずかしいじゃねーか!)
「……なっ……なっ……」
スケッチ帳を持つ手がわなわなと震える。その俺を前に、テレーゼ嬢はなぜか誇らしげに胸を張った。
「ねっ? これなら絶対にヴォルフ様だとはわからないでしょう? 筋肉しか描いておりませんもの!」
「ええ、実に見事です!」
フェルナンも大きく頷くと、改めて俺の身体をしげしげと眺めた。細眼鏡の奥で、ますます目が熱を帯びていく。
「いやあ、こうしてご本人を目の前にすると、改めて驚かされますね! 筋肉の盛り上がり、躍動感! 実物の魅力を余すところなく捉えている! ほら、ヴォルフ殿も感激されていますよ!」
「まあっ! フェルナン様ったら! 褒めすぎですわ♡」
おい。いったい俺のどこをどう見たら、感激しているように見えるんだ!?
俺は今すぐスケッチ帳を窓から放り投げたい衝動をぐっとこらえ、力いっぱい冊子を閉じた。
「ぜ、絶対に駄目だっ!! こんなもの世に出せるかっ!!」
「えええっ!? で、でも、お顔は描いておりませんわよ!? ヴォルフ様の筋肉は、全ての筋肉女子に捧げるべきですわっ!」
「捧げなくていいっ!!」




