乳母の耳は聞いた
「お帰りなさいませ、ヴォルフ様」
玄関の扉をくぐると、数歩先でハロルドが恭しく頭を下げた。玄関ホールに敷かれた青い絨毯の左端。まるでそこに目印でもあるかのように、この老執事は三百六十五日、同じ場所で俺を出迎える。立ち位置が寸分たりともずれないのだから、もはや感心を通り越して不思議ですらある。
「ああ、ただいま」
こちらが何かを言うより先に、すっと差し出された手に外套を預ける。このあと何か報告があればハロルドが手短に伝え、なければそのまま自室へ向かう。長年の付き合いで自然とできあがった、俺たちの暗黙の了解だ。
どうやら今日は特に報告もないらしい。ならば俺は、いつもどおり自室へ向かえばいい。
ところが、たったひと月で、俺たちのルールは変わってしまっていたらしい。
「……テレーゼ嬢は?」
別に出迎えがないのを不満に思っているわけではない。ただ、毎日欠かさず顔を見せていたから、少し気になっただけだ。
「テレーゼ様でしたら、ただいまお客様をお迎えしております」
「客?」
「はい。応接室にいらっしゃいます」
普段はほとんど飾り同然の部屋の名前が出てきて、何とはなしに廊下の奥へ視線をやる。
「ただ、マチルダから、ヴォルフ様へのご報告は少し待つようにと言われておりまして」
「マチルダが?」
テレーゼ嬢がこの屋敷に来てから、客が訪ねてくるのは初めてだ。だが彼女にだって親しい友人の一人や二人はいるだろう。なぜマチルダが報告を止める必要があるのか。
(……まあ、あれが何を考えているのかは、昔からよくわからん)
「そうか」
テレーゼ嬢に何かあったわけではないのなら、それでいい。俺はそのまま自室へと足を向けた。
廊下を進み、応接室の前を通りかかったところで、ちょうど扉が開いた。出てきたのは、空になった盆を手にしたマチルダだ。俺の顔を見るなり、ぐいっと腕を掴み、廊下の隅へ引っ張っていく。
「お、おい、何だ?」
「お帰りなさいませ、坊ちゃま。ちょっとこちらへ!」
妙に声を落としたマチルダに、俺は眉をひそめた。隅まで来ると、マチルダは念入りに辺りを見回し、それから何やら重大な秘密を打ち明けるような顔で、ぐっと身を寄せてくる。
「坊ちゃま……落ち着いてお聞きくださいませ。実は、テレーゼ様のお客様なのですが……」
「何だ」
「……殿方なのです」
「は?」
何を言い出すかと思えば。まさかそれだけのために、わざわざこんなところまで俺を連れてきたのか。
「それがどうした?」
「それがどうした、ではございませんよ! 殿方ですよ? 殿方!」
念を押されても、聞こえていなかったわけではない。
「いえね、怪しい方ではないと思うのです。テレーゼ様ともずいぶん親しげにお話しされていましたし、お茶をお出ししたときも、それはもう丁寧にお礼をおっしゃって」
「それなら結構なことじゃないか」
「ですが坊ちゃま! これがまた、たいそう見目麗しい殿方でして!」
「……はあ」
そんな「これならどうだ」と言わんばかりの顔をされても、俺にとっては心底どうでもいい情報だ。テレーゼ嬢の客が美男子だったからといって、何がいけないんだ。
「今流行りの、ほら、すらりとしたお身体に、儚さの滲むお顔立ち。お召し物も洒落ていらして、どこからどう見ても立派な美男子でございました。身につけていらした腕時計もずいぶん高価そうなものでしたし、相応のお立場の方なのかと」
ひとつひとつ挙げるたびに、マチルダの眉間の皺が深くなる。まったく、この乳母は。茶を出すわずか数十秒ほどの間に、そこまで見てきたのか。うちの斥候にでも欲しいくらいだ。
「それに、お二人ともずいぶん楽しそうで。わたくし、てっきり昔からのお知り合いかと思ったのですが……それだけとも限りませんでしょう? ですから、もう少し様子を見てから坊ちゃまにご報告しようと……」
「それでハロルドに口止めしたのか」
「口止めだなんて! ほんの少し、ご報告を待っていただいただけでございます!」
そこに何の違いがあるのかは知らないが、マチルダはよほど心外だったらしく、ふんっと小鼻を膨らませる。
やれやれ。変な小説の読みすぎだろう。仮にテレーゼ嬢とその客がマチルダの邪推するような仲だったとしても、わざわざ俺の邸へのこのこと訪ねてくるはずがない。
「そうは申しましても、わたくしだってテレーゼ様を疑っているわけではございません。あの殿方はどう見てもテレーゼ様のお好みとは違いますし、何より、テレーゼ様は坊ちゃま一筋ですから! それに、あのテレーゼ様がそんな不義理をなさるはずがございませんもの!」
マチルダは最後には胸を張り、まるで自分のことのように誇らしげに言い切った。さっきから言っていることがめちゃくちゃだ。二人の仲を疑ってみたり、そんなことはあり得ないと言い切ってみたり。
「なら、何も問題ないだろう」
いい加減、このくだらない話を切り上げようと、掴まれていた腕をそっと外そうとした。ところが、マチルダは逃がすまいとばかりに、今度は俺の両手をがしりと掴んでくるではないか。なぜ拘束が強化される。
「ですが、坊ちゃま! わたくし、先ほど聞いてしまったのでございます!」
「何を?」
マチルダは目だけをキョロキョロと左右に動かし、側に誰もいないことを確かめると、そっと俺の耳元へ顔を寄せる。その表情たるや、王国の存亡に関わる秘密でも握ってしまったかのようだ。
「実は、あの殿方がテレーゼ様に……『次はぜひ、上半身は裸で』とおっしゃるのを!」
「……」
しん、と長い沈黙が落ちる。人気のない廊下の隅。目と鼻の先には、こちらをじっと見つめるマチルダの真剣な顔。相手がマチルダでなければ、こちらの方が大問題だ。
「それが気になって気になって……。というわけで、坊ちゃま」
マチルダはぱっと体を離すと、それまでの深刻な顔が嘘のように、にっこりと微笑んだ。
「さっさと中へ入って、真相を確かめてきてくださいな」
「俺が!?」
「ええ。実はお二人から、坊ちゃまがお帰りになったらお呼びするようにと頼まれておりまして」
「それを先に言え!」
呆れている間にも、マチルダはすたすたと応接室の扉へ向かい、こちらを振り返って手招きしている。それにしても、上半身は裸で、とは。テレーゼ嬢はいったい何の話をしているんだ。釈然としない思いを抱えたまま、俺は応接室の扉を開けた。




