気高き令嬢は羽を隠す
――くすっ。
背後からの小さな笑い声が俺の耳に届いたのは、テレーゼ嬢がパンケーキを食べ終え、二人で追加の紅茶を飲んでいた時だった。
初めは気にも留めていなかった。この店の妙にほわほわした雰囲気も手伝って、背後の客たちが談笑しているのだろうと、ただそう思っていた。だが、言葉の端々に潜む棘というのは、聞くつもりがなくとも妙に耳につくものらしい。
「……騎士団長様とご結婚なさったと伺いましたけれど」
「では、まさか、あのお向かいの方が?」
「まあ……なんて逞しいお体なのかしら」
「わたくし、殿方にはもう少し繊細で優美であってほしいですわ〜」
「あんなに大きな方と並んで歩くなんて、わたくしにはとても……」
「テレーゼ様は、よほどお気になさらない方なのね」
内緒話の体裁を取ってはいるが、こちらに聞かせる気がないとは到底思えない声量だ。
そっと向かいのテレーゼ嬢を窺う。彼女は穏やかに微笑んだまま、まるで気にしていない様子だが、あれだけはっきりと聞こえるのだから、彼女の耳にも届いているはずだ。
(そうだったな……)
カップの底に残った紅茶をくるくると揺らし、小さな渦をぼんやりと眺める。
(テレーゼ嬢があまりにも俺の体格を褒めてくれるものだから、すっかり忘れかけていた。まあ、これが世間の普通だよな)
俺はそっと声を落とした。
「すまん。俺と一緒にいるせいで、君まで悪く言われる。……出よう」
そう告げると、テレーゼ嬢がすくっと立ち上がった。俺も続いて立ち上がろうとしたが、彼女はそのままスタスタと俺の脇をすり抜け、背後のテーブルへ向かっていく。
(お、おい、何を……!)
慌てて振り返った先には、着飾った令嬢が三人、顔を寄せ合って座っていた。向かってくるテレーゼ嬢に気づいた途端、ぱっと口をつぐみ、そろって気まずそうに視線を逸らす。
「ごきげんよう。どうやら、聞き捨てならないお話を伺ってしまいましたの」
その声は驚くほど穏やかだ。こちらからは後ろ姿しか見えず、テレーゼ嬢の表情までは読み取れない。だが、すっと背筋を伸ばした彼女の纏う空気には、どこか有無を言わせぬ迫力があった。彼女の高貴な出自を、これほど強く意識したのは初めてかもしれない。
テレーゼ嬢は顎を上げ、令嬢たちを順に見据えた。
「先ほどからあなた方が仰っているとおり、ヴォルフ様は素晴らしく逞しいお身体をなさっていますわ。ええ、ですが、その筋肉は決して生まれつきのものではございません。日々の厳しい鍛錬の賜物――いわば、騎士の誇りそのものですの!」
三人の視線が、ちらりとこちらに向けられる。騒ぎに好奇の目を向けていた周囲の客たちまで、つられるように俺を見た。
「先ほど、殿方には繊細で優美であってほしいと仰いましたわね。ですが、好みは人それぞれでしょう? わたくしはヴォルフ様の逞しさを、何より素敵だと思っておりますわ!」
あれほど饒舌だった令嬢たちも、今は目を伏せ、困惑したように黙り込んでいる。だが、テレーゼ嬢はまだ言い足りないらしい。
「ヴォルフ様の筋肉は、もはや芸術品ですのよ! あの見事な隆起、無駄のない引き締まり方……! まさに究極の造形美ですわ!」
「お、おい……」
どうにも雲行きが怪しくなってきた。俺は背後から控えめに声をかけたが、テレーゼ嬢にはまるで届いていないようだった。それどころか、彼女の声には、どこかうっとりとした響きまで交じり始めている。
「先ほど腕を組ませていただいたときなんて、鎧のような硬さに思わず息を呑みましたわ! あれならきっと、空から槍が降ってきたって守っていただけますわね! それなのに、じんわりと温もりまで伝わってきて……ああ、わたくしの理想郷はここにあったのですわっ!」
「テ、テレーゼ嬢……!?」
「それに! 以前ちらりと拝見した、あのお腹の筋肉! あなた方、ご存じですの? 鍛え抜かれたお腹というのは、筋肉が美しく割れておりますのよ! しかもヴォルフ様のは、ほんの一瞬しか見えなかったというのに、それはもう見事な――」
「やめろ!! 恥ずかしいから本当にやめろっ!!」
彼女が腕を褒めれば俺の腕へ、腹筋を語り始めれば腹へ。周囲の視線が律儀に移動するものだから、もう居たたまれない。頼むから、俺の体をいちいち確認しないでくれ。
俺の叫びに、テレーゼ嬢ははっとしたようにこちらを振り返った。俺と目が合うや否や、「聞いていたんですの!?」とばかりにぽっと頬を染める。いや、赤くなりたいのはむしろこっちだ。
「と、とにかく!」
テレーゼ嬢は小さく咳払いをして、くるりと令嬢たちへと向き直った。
「わたくしがよほど気にしない人間ですって? とんでもありません! こんなに素晴らしい方と並んで歩けるのですもの。むしろ、皆様に見せびらかしたくて仕方ありませんわ!」
令嬢たちはぽかんと口を開けたまま、しばらく言葉を失っていた。やがて互いに顔を見合わせると、誰からともなく席を立ち、そそくさと店を出ていく。
とばっちりを受けたのは、店内にいた華奢な美男子たちだ。そのうち何人かは、彼女の熱弁に何やら思うところがあったのか、しきりに自分の細腕を気にしたあと、逃げるように店を出ていってしまった。……そちらに関しては、少々申し訳ない。
店内がしんと静まり返るなか、テレーゼ嬢は乱れてもいない髪を優雅に撫でつけ、悠然と席へ戻ってきた。椅子に腰を下ろし、涼しい顔で俺を見上げる。
「お待たせしましたわ、ヴォルフ様」
「あ、ああ……」
「なんだかまた甘いものが食べたい気分ですわね! ヴォルフ様、わたくし、やっぱり林檎のぷかぷかティーケーキもいただいてよろしいかしら?」
「あ、ああ……」
目の前にいるのは、もうすっかりいつものテレーゼ嬢だった。俺の視線に気付くと、にっこりとこちらへ微笑んでみせる。
遠い東の国には、目も眩むほど美しい飾り羽を持つ鳥がいると、いつか本で読んだことがある。ひとたび羽を広げれば見る者を圧倒し、用が済めば何事もなかったかのように畳んでしまうらしい。彼女は、まさにその鳥のようだった。
ほどなくして、彼女の頼んだケーキが運ばれてくる。新作だというそれは、紅茶のシロップを閉じ込めた林檎の飴細工が飾られた、少し変わったケーキだった。見るなり、彼女が小さく歓声を上げる。
幸せそうにケーキを頬張る彼女を眺めていると、今さらながら照れ臭くなって、つい言い訳めいた言葉が口をついて出た。
「君はああ言ってくれたが、俺は別に、何を言われても構わないんだ。世間ではこの図体が不格好に映ることくらい、十分わかっているからな」
すると、テレーゼ嬢は心外だと言わんばかりに唇をつんと尖らせた。フォークを静かに皿に置き、まっすぐ俺を見つめる。
「まあ! わたくしが素敵だと思っている方を、そんなふうに悪く仰らないでくださいませ! たとえヴォルフ様ご自身でも、嫌ですわ!」
彼女の紫がかった瞳が、すっと色を深めたように見えた。その澄んだ眼差しに、思わず言葉に詰まる。
「…………そうか」
我ながら、気の利かない返事だと思う。頬が熱くなるのを感じながら、そっと視線を逸らした。
いや、もう少し何か言うべきだろう。そう思って頭の中で言葉を探してみるものの、当のテレーゼ嬢はといえば、もうすっかりケーキに夢中だ。
窓から差し込む午後の光が、彼女の髪を透かしてきらめく。例の鳥の飾り羽とやらも、こんなふうに光を受けて輝くのだろうか。
俺は結局、何も言わずにカップを傾けた。




