可愛い店は鬼門だ
(まったく。とんでもない目に遭った)
昼下がりの喧騒に、石畳を鳴らす二人分の靴音が重なる。
女というのは、あんなにレースだのリボンだのをくっつけた服を着て寝るものなのか? 寝返りを打つたびに邪魔になりそうだが。それに、なかにはやたらと透けていたり、布の面積が妙に少なかったりするものまであった。あんなの、まるで……。
(いや、見てない! 俺は見てないぞ!)
テレーゼ嬢にどちらがいいかと尋ねられたときも、ろくに見ずに答えたくらいだ。あんな状況で、まともに品定めなどできるものか。かろうじて目に入った色だけを頼りに薄紫色の方を選んだ気がするが、それ以外はまるで覚えちゃいない。
ちらりと隣に視線を落とすと、彼女の細い腕に掛かった例の店の紙袋が、小さく弧を描いて揺れている。
(その袋だって……)
俺が持つと言っているのに、なぜかこれだけは自分で持つと言って譲らなかった。他の荷物は全部俺が持っているというのに。
そんな俺のボヤキなど知る由もなく、隣を歩くテレーゼ嬢はすこぶるご機嫌だ。俺との外出などすぐに退屈するんじゃないかと思っていたが、意外にも彼女はどこへ行っても楽しそうだった。
雑貨屋では、もっと上等な物などいくらでも持っているだろうに、軸にキラキラした石の詰まったペンに目を輝かせ、本屋では、最近出た小説がどれほど泣ける話なのかと熱弁を振るっていた。てっきり高級な服屋や宝石店にでも連れていかれるものと思っていたが、そういう店には見向きもしない。
そして今度は、彼女のお気に入りのカフェに行くらしい。俺がカフェ? 茶なんぞ家で飲めばいい。同じ金を出すなら腹が膨れるものを食ったほうがいい。そう思って、これまでカフェなど入ったこともなかった。
テレーゼ嬢はさっきから俺の腕に手を添えたまま、そのカフェのパンケーキがいかに美味いかを熱心に語っている。
(くっつきすぎだろ! そんなに近くて逆に歩きにくくないのか!?)
最初は遠慮がちだったその手も、もうすっかりそこが定位置だ。そう思ったそばから彼女の話にまた熱が入り、俺の腕がむぎゅと掴まれる。
(……はぁ。落ち着かん)
辺りに目を向けると、いつの間にか南通りに戻ってきていた。目指すカフェは、この通りを広場へ向かった先にあるらしい。
騎士団に入隊したばかりの頃は、同期の連中とよくこの辺りに来ていたが、ずいぶんと様変わりしたものだ。腹いっぱい食わせてくれた馴染みの食堂は姿を消し、今では小洒落た店が軒を連ねている。
ふと一軒の店が目に留まった。色褪せた赤茶色の日除けに、年季は入っているが綺麗に手入れされた木枠の窓。軒先には小麦の穂をかたどった看板が揺れている。
「……この店」
思わず足を緩めた。周りはすっかり変わってしまったというのに、ここは昔のままだ。
(まだあったのか……)
「あら。パン屋さんですのね? ヴォルフ様の知っているお店ですか?」
「ああ。昔、よく来ていた店だ。ここのクリームパンがうまくてな」
「……クリームパン……」
テレーゼ嬢が、俺を見上げながら小さく繰り返す。
「ああ。今も売っているかはわからんが、よかったら買っていくか?」
「ありがとうございます。でも……実は私、クリームパンだけはちょっぴり苦手なんですの」
そう言って、彼女は少しだけ目を伏せた。
「そうなのか」
「ええ。せっかく勧めてくださったのに、申し訳ありません。でも、ヴォルフ様のお気に入りのお店でしたら、きっと他のパンも美味しいんでしょう? ちょっとだけ覗いてみませんこと?」
「ああ。カレーパンも、ウインナーのやつもうまい」
「まあ! ではぜひ!」
そう勧めたのがまずかったのか、彼女は俺の腕をぐいぐい引っ張って店へと向かい、出てくる頃には俺の手に新たな紙袋が二つ増えていた。
「本当にどれも美味しそうで迷ってしまいましたわ〜♡」
ぱんぱんに膨らんだ紙袋から一番上のカレーパンが落っこちそうになり、慌てて押さえる。どこが「ちょっとだけ」なんだ!
だが、久しぶりに店の親父さんたちにも会えたし、俺としても案外悪くない寄り道だったのかもしれない。
(さて、今度こそカフェだな)
テレーゼ嬢に促されるまま再び歩き出し、ほどなくして俺たちは目当ての店にたどり着いた……らしい。
「ここ……なのか……?」
我ながら情けないほど掠れた声が出た。
そこはもはや異次元だった。外壁も、入口のアーチも、見渡す限りピンク、ピンク、ピンク。ピンク以外の色は禁止でもされているのか? おまけに、恐る恐る覗いた店内には、ハートだの星だの、よくわからないふわふわした何かがそこかしこにぶら下がっている。
頼む、隣の店だと言ってくれ! そんな一縷の望みを抱いてテレーゼ嬢を振り返ったが、彼女の口から飛び出したのは、死刑宣告にも等しい一言だった。
「では、入りましょうか!」
「…………ああ」
入口から席へ案内されるわずかな間にも、あちこちから視線が俺に突き刺さる。そりゃそうだろう。こんな場所に、俺みたいな図体のでかい男がのこのこ入ってきたんだからな。
さりげなく見渡せば、客のほとんどは若い女たちだ。なかには恋人同士らしき男女もいるが、男のほうは揃いも揃って華奢な美男子ばかり。どういうわけか、このふざけた空間にもすんなり馴染んでいる。
(……俺だけ明らかに浮いてる……)
そんな俺とは対照的に、テレーゼ嬢はメニューを眺めるだけでも楽しそうだ。ページをめくっては戻し、悩ましげに眉を寄せる。さっきあれだけパンケーキを語っていたくせに、まだ悩むのか。
「ヴォルフ様はお決まりになりました? 私、恋する乙女のふわとろパンケーキにしようと思っていたのですけれど……見てください! この林檎のぷかぷかティーケーキも美味しそうじゃありませんこと? 新作なんですって!」
「ぷ、ぷかぷか……!? ……いや、俺は紅茶でいい」
「まあ! よろしいんですの? こんなに美味しそうですのに」
「……ああ」
結局、テレーゼ嬢は当初の予定どおり、俺には到底口にできそうもない、小っ恥ずかしい名前のパンケーキを選んだらしい。そして案の定、運ばれてきた代物も、名前に負けず劣らず小っ恥ずかしい見た目をしていた。
たまにルーディがパンケーキを焼くことがあるが、それとはまるで違う。親指ほどの厚みがありそうなパンケーキだ。それが三段も。そこにたっぷりのクリームと、ハート形にくり抜かれた苺がどっさりと添えられていた。
「これ、これですわ〜! なんて可愛らしいんでしょう♡ 前に食べたことがあるのですけれど、すっごく美味しいんですのよ!」
ナイフとフォークでパンケーキの端を小さく切り分け、嬉しそうに口に運んだ。ひと口食べた途端、テレーゼ嬢はとろんと目を細め、口元をほころばせる。
「んんんっ! やっぱりおいしいですわっ!」
(ほんとうまそうに食うな)
とはいえ、じろじろ眺めるのも失礼だろう。俺は紅茶を飲むふりをしながら、カップ越しにそれとなく彼女の様子を窺っていた。
だが、どうやらテレーゼ嬢にはお見通しだったらしい。ふとナイフとフォークを動かす手を止め、顔を上げると、にこりと微笑んだ。
「ヴォルフ様も少し食べてみませんこと?」
「いや……俺は……」
「まあっ! この店に来てパンケーキを食べずに帰るだなんて、敵の城門が開け放たれているのに、攻め込まずに引き返すようなものですわよ!」
テレーゼ嬢はフォークを握ったまま、重大な戦術上の過ちを指摘するかのように、得意げに言い切った。またずいぶんと勇ましい例えを持ち出したものだ。だが、そこまで力説されると、俺もだんだんその味が気になってくる。
それに、さっきマカロンを買ったときも、彼女は美味しいものは皆で分け合ったほうが幸せだとか言っていたじゃないか。なら、ここで断るほうが、かえって悪いんじゃないか?
「……じゃ、じゃあ」
「ええ!」
俺が返事をするや否や、テレーゼ嬢はパンケーキを先ほどより少し大きめに切り分け、クリームと苺をたっぷり乗せる。そして、そのフォークを迷うことなく俺の口元へ差し出してきた。
(待て! た、食べさせる気か!?)
鼻先に、甘い香りが漂う。ちらりとテレーゼ嬢を見れば、こちらの動揺など露知らず、にこにこと俺の口元を見つめていた。
(……くそっ)
俺は腹をくくって口を開け、差し出されたパンケーキをぱくりと頬張った。ふわりと生地が舌の上でほどける。思ったほど甘ったるくもなく、クリームのまろやかさに、苺の酸味がよく合っていた。
想像以上のうまさに思わず真剣に味わっていると、テレーゼ嬢がじっとこちらを見つめていることに気づいた。俺と目が合っても逸らすどころか、ますます期待に満ちた顔になる。どうやら、俺の感想待ちらしい。
「……うまい」
「でしょうっ!?」
テレーゼ嬢はまるで自分が褒められたかのように、ぱっと顔を輝かせた。そこでようやく俺から視線を外すと、今度は自分の番とばかりに、いそいそとパンケーキを切り分け、フォークに刺した。
ところが、口へ運びかけたところでふと彼女の手が止まる。何かに気づいたように目を見開き、フォークの先をじっと見つめているのだ。それから困ったように眉を寄せ、ちらりと俺の口元へ視線を向けた。途端に、白い頬がじわじわと赤く染まっていく。
テレーゼ嬢はしばらくそのまま、何やら一人でもじもじしていたが、やがてぎゅっと目をつぶると、えいやっと口に入れた。そして、なぜか俺から目を逸らしたまま、真っ赤な顔でもぐもぐと口を動かしている。
その一連の不可解な動きを、俺は思わず目で追ってしまっていた。なんだかよくわからなかったが、まあ、いい。
ほんのり甘さの残る口の中に、ぐいと紅茶を流し込む。店の見た目に反して、紅茶は俺好みのやや渋めだ。豊かな香りが鼻に抜ける。だが、口の中の甘さが消えた途端、俺の頭は余計なところで冴えてしまったらしい。
「ごほっ! ……ごほっ、ごほっ!」
慌ててカップをソーサーに戻し、口元を押さえる。
向かいでは、テレーゼ嬢が相変わらず頬を赤くしたまま、妙におとなしくパンケーキを食べていた。




