強制デート休暇
「はぁ……」
これで何度目のため息だろう。まるで鉄球でもくくりつけられたかのように足が重い。窓から差し込む陽光がやけにまぶしい回廊を、俺は一人歩いていた。
今朝、騎士団の詰所に顔を出した途端、伝令から告げられたのだ。
「ユリウス殿下がお呼びです」
危うく舌打ちするところだった。定例の報告があるわけでもない日に、わざわざ呼び出しとは。まともな話のはずがない。いや、だいたい想像はついているんだが。
そうこうしているうちに、見慣れた執務室の扉まで辿り着いてしまった。神話の一場面だかなんだか知らないが、重厚な扉に彫られた女神のやたら慈悲深そうな微笑みが、今日に限って妙に忌々しい。
ノックをすれば、いつもと変わらぬ殿下の声がする。だが、扉を開けて、思わず白目を剥きそうになった。いつもなら執務机に向かっているはずの殿下が、今日は窓際のソファに腰掛け、こちらに向かってひらひらと手を振っているではないか。隣に立つアルベルトの穏やかな笑みまで、どうにも胡散臭い。
(……帰りたい。今すぐ)
「よく来たな、ヴォルフ。まあ座れ」
殿下が大仰な手招きで、向かいの席を示す。渋々そちらへ向かうと、俺が腰を下ろすのも待たずに、さっそく口を開いた。
「で、レゼとの新婚生活はどうだ?」
(やっぱりその話か)
腰を落ち着けたソファは、尻が埋まりそうなほど柔らかい。ちらりとアルベルトを見ると、殿下ほど露骨ではないものの、こちらに向ける目にはどこか楽しげな色が浮かんでいた。嫁に出した妹を心配している……ようには見えないな、その目は。
「いやぁ、気になるんだよ。お前があのレゼと、いったいどんな顔して暮らしてるのかと思ってな」
殿下は片肘を肘掛けに預け、面白そうにこちらを眺めている。
「……別に、普通ですよ」
俺は努めて平坦な声で返した。というより、そうとしか答えようがない。テレーゼ嬢と俺は書面上では夫婦であるものの、言ってしまえばそれだけのことだ。
「へぇ? 普通、ねぇ」
殿下は俺を上から下までたっぷりと眺めたあと、片眉を上げてにやりと笑った。
「レゼは素直でいい子だろ?」
(……素直?)
思わず返答に詰まる。脳裏に浮かんだのは――植え込みの陰からこっそり俺を覗く眼差しや、机の上に置きっぱなしだった観察日記の中身だ。あれを素直と言っていいものか。いや、少なくとも、自分の興味に正直な方ではあるのだろうが。
「まあ……素直なのは否定しませんが」
少しだけ考えて、俺はそう答えた。
「うわ、お前にそんな顔をさせるとは、さすがレゼだな」
殿下はとうとう堪えきれなくなったらしく、くくっと喉を鳴らした。隣のアルベルトも拳で口元を隠しているが、目元が笑っている。
(は? 俺は普通に答えただけだ)
俺が眉をしかめるのを見て、殿下は口元の笑みをいっそう悪戯っぽく深めた。
「で、お前はちゃんと、その素直でかわいい新妻に、夫らしいことをしてやってるのか?」
「は? 俺たちはそんな仲じゃ――」
「いやいや、そんな仲だろ? きちんと書類も交わして、一緒に住んでる。れっきとした夫婦じゃないか」
「ぐっ……」
「まあ、どうせお前のことだ。『形だけの夫婦だ』とか何とか言って、何もしてないんだろ?」
殿下は「ほら、図星だろ?」とでも言うように目を細めた。かと思えば、これ見よがしにソファの背もたれに身を預け、片手で額を覆う。
「あ〜あ、レゼがかわいそうだなぁ。な、アルベルト?」
その嘆きようときたら、まるで悲劇の主人公にでもなったかのようだ。もっとも、額に当てた手を少し浮かせ、ちゃっかりこちらを覗いているあたり、同情の欠片もなさそうだが。
「はい。兄として、とても心が痛いです」
アルベルトも神妙な面持ちで頷いた。だが、その口元が一瞬、ぴくりと動いたのを俺は見逃さなかった。
(こいつら、何を企んでる?)
「そこでだ!」
殿下が突然、ソファから勢いよく身を起こした。嫌な予感がしたのも束の間、びしりと俺に人差し指を突きつけてくる。
「明日、お前は休暇を取れ!」
「はぁ!? なぜ俺が――」
「理由? そんなの決まってるだろ?」
殿下は俺の抗議など聞く耳を持たず、今度は両手を大きく広げた。
「俺の可愛いレゼが! 結婚して半月も経つのに! 夫にデートの一つも連れて行ってもらってないなんて!」
そこで芝居がかった仕草で胸を押さえ、いかにも苦しげに顔をしかめる。
「可哀想で仕事が手につかない!」
「はあああっ!?」
思わず声が裏返った。
(待て待て待て。仕事が手につかないのは、どう考えても俺のせいじゃないだろう!)
しかも、明日だと? そんな話をいきなり決められてたまるか。助けを求めるつもりでアルベルトを見ると、奴は心得たようにゆっくりと頷いた。
「それは困りましたね、殿下。実を申しますと、私もそのせいで最近、書類の数字が頭に入らなくて。どうにも仕事が捗らないんですよ」
「お前まで何言ってんだ!」
「というわけで、これ」
殿下は懐から一枚の書類を取り出すと、ひらりと俺の前に滑らせた。
「休暇願い。お前の名前は書いといたから、あとは副団長のサインもらっといてくれ」
そう言って、あっさりと腰をあげた。
「は?」
「じゃ、よろしくな!」
有無を言わせぬ笑顔を残し、殿下はさっさと執務机へ向かってしまった。アルベルトも涼しい顔でそのあとに続く。
呆然とする俺をよそに、殿下は早くも机上の書類に目を通し始めていた。こちらを見もしないまま、「早く戻れ」とばかりに手を振ってくる。
(またそれかよ!)
恨めしく殿下を睨んでみたところで、当の本人はまるで気づく様子もない。それどころか、ここへ来たときより一段と輝いて見えるのが、なんとも腹立たしい。
(……完全にハメられた気がする)
◇
執務室を出た途端、堪えていた文句が口をついて出た。
「……ったく。あの王太子のやることは! なにが仕事が手につかないだ! いつものことじゃないか! それにアルベルトもアルベルトだ!」
ぶつぶつと文句を垂れながら、俺は詰所へ戻った。
団長室へ向かう途中、控室から楽しげな話し声が聞こえてくる。朝の鍛錬を終えた連中が、ひと息ついているのだろう。普段なら気にも留めずに通り過ぎるところだが、ふと「団長」という言葉が耳に入り、思わず足を止めた。
「なあ、聞いたか? 団長、結婚したらしいぞ」
「は!? あの団長が!?」
「びっくりだよな。そんな素振り、ちっとも見せなかったのに」
「案外、家では『ただいま、ハニー♡』とか言ってたりして」
「ぶはっ! 想像できねえ!」
(言うかっ!)
まったく、どいつもこいつも。呆れながら控室の前を通り過ぎ、先ほど殿下に押し付けられた休暇願いに目を落とす。
「……はあ」
なにも、テレーゼ嬢と出掛けるのが嫌なわけじゃない。ただ、急に休暇を取るとなれば仕事の調整も必要になる。それ以上に、俺は気の利いた店のひとつも知らないし、俺なんかと出掛けたって彼女も別に面白くないだろう。
そのまま、副団長・ギルバートの机へ向かった。
「すまん、急だが明日休むことになった。これにサインを頼む」
書類を差し出すと、ギルバートはペンを止め、怪訝そうに顔を上げる。
「団長が休むなんて珍しいですね。何かあったんですか?」
ギルバートの声には、わずかに気遣うような響きがあった。副団長を務めるこいつは、むさ苦しい男どもの中では珍しく穏やかで、気配りもできる。俺には到底真似できない芸当だ。
「いや、別に大したことじゃない。ちょっとした私用だ」
「そうですか。それならいいんですが……」
そう言って休暇願いに目を通したギルバートが、ぴたりと動きを止めた。
どうしたのかと顔を見れば、ギルバートは書類を見つめたまま、口を真一文字に引き結んでいた。かと思えば、妙に鼻の下を伸ばしたり、唇を噛みしめたり。いったい何をやってるんだ、こいつは。
やがて拳を口元へ当て、何事もなかったかのように表情を取り繕おうとする。が、もう一度書類に目をやった途端、ギルバートの顔がくしゃりと崩れた。
「……ふっ」
「おい?」
「……っ、く……」
しばらくふるふると何かを堪えていたが、とうとう耐えきれなくなったのか、机に突っ伏した。
「ぶはっ!」
「何がおかしい?」
「いえ……この理由……新婚さんで羨ましいです」
ギルバートはまだ笑いを噛み殺しながら、休暇願いをこちらへ差し戻してきた。
何なんだ、いったい。釈然としないまま書類を受け取り、申請理由の欄に目をやる。
『大好きな妻とデートのため』
もう一度読んでみたが、やっぱり同じだった。
『大好きな妻とデートのため』
「はあああああっ!?」
脳裏に、あの王太子の得意満面な顔が浮かんだ。
「あんのクソ王子ぃぃぃっ!!」




