お隣から始めましょう
夕飯を終えると、窓の外はもうすっかり夜の色に沈んでいた。
応接室のテーブルには、ハロルドさんが用意してくださった紅茶が二つ。茶葉は私のお気に入りのものだ。 カップから立ちのぼる湯気に、ふわりとベルガモットの香りが混じる。
(やっぱり、おいしいですわ〜。ハロルドさんの淹れ方もお上手ですし♡)
向かいのヴォルフ様は、先ほどからなにやら百面相に忙しい。何か言いたそうにこちらを見たかと思えば、すぐに視線を逸らし、ぐっと意気込んだと思えば、今度はみるみる萎んで背中を丸める。せっかくこんなに美味しい紅茶だというのに、まだ一度も口をつけていないではないか。
「ヴォルフ様? 紅茶が冷めてしまいますわよ。それで……お話というのは?」
そう問いかけると、ヴォルフ様は「うっ」と短く喉を詰まらせた。
それでもふんぎりがつかないのか、腿の上で組んだ指を忙しなく動かし、苦しそうに顔を歪める。やがてぎゅっと目を瞑ると、カップを取り上げ、そのままぐいっと紅茶を飲み干した。空になったカップをソーサーへ戻し、ようやくこちらに向き直る。
「その……俺たちは……ちゃんと話しておくべきだと思って……その……いろいろと……」
気合いを入れていた割に、やけに歯切れが悪い。ヴォルフ様は、綺麗に整えられた太めの眉をこれでもかと下げ、子犬みたいな顔で私を見ている。
「ユリウス殿下は『結婚を継続しろ』と仰った。ただ、それは……君次第だと思うんだ」
私が何も言わずにいると、ヴォルフ様は膝に置いていた両手にぐっと力を込めた。
「だから……その、君が『やっぱりやめます』って言ってくれれば……すべて丸く収まるんじゃないかと……!」
なるほど。どうやらヴォルフ様は、まだこの結婚に納得していないらしい。この期に及んで往生際が悪いというかなんというか。
けれど、確かにヴォルフ様のおっしゃるとおりかもしれない。あのユリウス様のことだ。私が「嫌だ」と泣きでもすれば、自ら役所まで乗り込んで、どうにか取り消そうとしかねない。
(でも、それは困りますわ……!)
だってわたくしはもう、すっかりその気になってしまっているのだから!
「ヴォルフ様。昨日も申し上げましたけれど、私はこのまま結婚を継続したいと思っておりますの」
きっぱりと言い切ると、ヴォルフ様の肩ががくりと落ちた。
「……そうか……」
まるで最後の望みまで絶たれたような顔で、深々と項垂れる。けれど、すぐさま顔を上げると、こちらに身を乗り出してきた。どうやらヴォルフ様は、相当諦めが悪いようだ。
「で、でも……ほら! 俺たちはまだ、お互いのことを何も知らないだろう? いくらなんでも急すぎないか? な?」
最後の「な?」には、もはや懇願めいた響きすらある。
「あら。急なんてとんでもないですわ。だって私、昨日ヴォルフ様を見て……」
そう話している間も、ヴォルフ様があまりにも真剣にこちらを見つめてくるものだから、頬がぽっと熱を持った。
「ビビッときてしまいましたもの」
「ビ、ビビッと……!?」
「ええ♡」
ヴォルフ様はしばらく何も言わなかった。やがて長い息を吐き、背もたれにどさりと身体を預けてしまう。そして、いかにも辛そうに、こめかみを指でぐりぐりと押し始める。
(……そんなに嫌がらなくてもいいのでは?)
思わず、ほんの少し唇を尖らせた。突然の結婚に戸惑うのは当然だとしても、こうもあからさまだと、さすがに少し胸が痛む。
貴族の結婚なんて、そもそも形から始まるのが当たり前なのに、この方は、その「形」すら嫌だというのだろうか。
「ヴォルフ様は、私と結婚するのが嫌ですの?」
もう少し淑女らしく尋ねたつもりだったけれど、口から出た声はどうにも拗ねていた。ヴォルフ様は弾かれたように顔を上げ、あわてて身を起こす。
「あ、いや……君と結婚するのが嫌ってわけじゃない。ただ俺は、そもそも誰とも結婚するつもりがなかったんだ」
いつになく早口で、ずいぶんと必死だ。私を傷つけたと思ったのだろうか。
「なぜ、結婚するつもりがなかったのです?」
「そっ、それは……兄が家を継いでるから、俺が結婚する必要なんてないと思ってたし……そもそも、恋愛とかよくわからんし……こんな身体じゃ、相手だって困るだろうし……」
もごもごと唇を動かすヴォルフ様はどこか気まずそうで、視線もあちらこちらを彷徨っている。
なるほど。ヴォルフ様なりに、いろいろと思うところはあるらしい。けれど、私に言わせれば、どれも結婚を諦めるほどの理由には思えない。なにより、その中にひとつ、どうしても聞き捨てならない言葉があった。
(こんな身体じゃ、お相手が困る……ですって?)
途端に、胸の内がぱあっと晴れ渡った。
「まあっ! それなら問題ありませんわ!」
「は?」
「お兄様が家を継いでいらっしゃるからといって、ヴォルフ様が結婚してはいけない理由にはなりませんわ! 恋愛だって、これから知っていけばいいのです。なにより! 私は、ヴォルフ様のそのお身体が、ものすごく素敵だと思っておりますもの! 筋肉も骨格もすべて好感しかございませんっ!」
「……」
「つまり、これで全部解決、ではなくて?」
得意げに胸を張る私に、ヴォルフ様は完全に沈黙した。口を半開きにしたまま、わなわなと唇を震わせる。やがてその頬がじわじわと赤く染まりはじめた。
「……お、お前……ほんとに……なんなんだ……」
絞り出すように呟くと、とうとう両手で頭を抱えてしまう。
「もう知らんっ! 好きにしろっ!」
その姿はどこかふてくされた少年のようで、とても騎士団の精鋭たちをまとめあげる団長様には見えなかった。
「で、でも!」
突然、ヴォルフ様ががばりと上体を起こす。
「寝室は別だ! いいな! それから……ふ、触れ合いとか、そういうのもなしだっ!」
「……?」
「そ、そういうのは……お互いの気持ちが……ちゃんと通じてからじゃないとダメだからなっ!」
そこまで矢継ぎ早に捲したて、最後には息まで切らしていた。
(お互いの気持ちが通じてから……?)
あまりの剣幕に、大きく上下するヴォルフ様の肩をぽかんと見つめてしまった。灰緑色の瞳には、どこか達成感めいたものさえ浮かんでいて、まるで敵兵に渾身の一撃を叩き込んでやったと言わんばかりだ。
けれど、たった今のヴォルフ様の言葉を反芻するうち、じわり、じわりと口元が緩んでしまう。
(ということは、気持ちさえ通じればよろしいということではないか!)
「まあ! それなら、ヴォルフ様にも私を好きになっていただけるよう、頑張りますわね!」
「や、やめろその顔っ! そういう意味じゃ……くそっ!」
ヴォルフ様はぐしゃぐしゃと頭をかきむしった。今日もまた、そんな姿が妙に可愛らしく見える。
「ちなみに、ヴォルフ様のおっしゃる『触れ合い』とは、どこからが含まれるのです?」
「なっ……!」
「キスは?」
ヴォルフ様が、のけぞるように身を引いた。テーブルを挟んであちらとこちら。もう十分に距離はあるだろうに、まだ離れようというのか。しかも、そのお顔は真っ赤だ。
「キッ……!? ダメに決まってるだろうがっ!」
「では、抱き合うのは?」
今度は両手をばっと突き出し、ぶんぶんと首を横に振る。
「ダメだっ! ダメだったらダメだっ!」
「じゃあ……手を繋ぐのは?」
ヴォルフ様の目があからさまに泳いだ。少し迷ったあと、両腕で大きなバツ印を作る。
「い、いかんっ! それもまだ早いっ!」
次から次へと却下され、さすがに少し面白くない。私はぷくっと頬を膨らませた。
「……では、お隣に座るのは?」
少しむくれた声で尋ねると、ヴォルフ様は途端に真剣な顔になった。たっぷりと考え込んだ末、おそるおそる口を開く。
「……そ、それくらいなら……」
「ではっ♡」
私はぱっと立ち上がると、ためらうことなくヴォルフ様の隣へ移動した。そのまま、ぽすん、と腰を下ろす。
「ふふっ。ヴォルフ様ったら、お隣に並ぶとやっぱり大きいですわね」
「…………」
隣では、ヴォルフ様が背筋を不自然なまでにぴんと伸ばし、凍りついたように動かなくなっていた。
◇ ◇ ◇
(……なんでだ)
ついさっきまで向かいに座っていた彼女が、気づけば嬉々として俺の隣に収まっている。手を伸ばせば届く、なんてもんじゃない。少し腕を動かしただけで、触れてしまいそうな距離だ。いや、もうすでに何度か腕が触れている。
確かに、隣に座るくらいならいいと言った。言ったが――俺が想像していた「隣」は、もう少し遠かった!
(だ、大丈夫だ。意識しなければいい……)
そう思った矢先、視界の端で淡いプラチナブロンドの髪がさらりと揺れ、ふわりと石鹸のような香りが鼻先をかすめた。
(……っ!)
「ヴォルフ様?」
不意に名前を呼ばれ、つい顔を向けてしまった。思ったよりずっと近いところにテレーゼ嬢の顔があり、危うく声をあげそうになる。
「見てくださいませ! わたくしとヴォルフ様の腕。こんなにも太さが違いますわっ!」
言うが早いか、テレーゼ嬢はするりと袖を捲り、俺の腕に自分の腕をぴたりとくっつけてきた。
「……なっ!」
(隣に座るだけじゃなかったのか!)
ごつごつと筋張った俺の腕に比べ、彼女の腕は驚くほど細い。手首など、俺が片手で掴めばすっぽり収まってしまいそうだ。おまけに肌だって、日に焼けた俺の腕をくっつけているのが申し訳なくなるほど、白くてきめ細かい。
(ううっ……)
なんだか腕が熱くなってきた。もう、離してもいいだろうか。
だがテレーゼ嬢は、並んだ二本の腕にすっかり夢中だ。上から見たり、横から見たり、じっと顔を近づけてみたり。そのたびに大きな瞳がきらきらと輝き、頬までほんのりと色づいていく。
(俺の腕が太くて、何がそんなに嬉しいんだ!)
こんなに楽しそうにされては、引っ込めるに引っ込められない。そうしているうちにも腕はますます熱くなっていき、堪らず顔を背けた。
(……くそっ。俺は何をしてるんだ)
手を握ったわけでもない。抱きしめたわけでもない。ただ隣に座って、身体のほんの一部が触れているだけだ。
それなのに、この有様。敵兵に囲まれた時だって、ここまで動揺した覚えはない。
(これが……結婚生活ってやつなのか?)
俺は顔を背けたまま、ただじっと耐えるしかなかった。




