夫婦(仮)は卒業です
翌朝。俺は朝一番で王宮へ向かい、その足でユリウス殿下の執務室へ駆け込んだ。
「へ? メイドを頼んだつもりだった?」
机に向かって書類に目を通していた殿下が、手を止めて顔を上げる。朝っぱらから、なんでこんなにキラキラしているんだ、この方は。
「だってお前、結婚誓約書にサインしただろ?」
殿下が呆れたようにペン先を俺に向ける。
「そ、それは……っ」
返す言葉もない。ろくに読まずにサインした俺が悪いのなんて、百も承知だ。それでも、もしまだ正式に受理されていないなら、なんとか撤回してもらえないだろうかと、こうして朝一番にやって来たのだ。ここですごすご引き下がるわけにはいかない。
「それは俺が悪いですが、まさかあの場で結婚誓約書が出てくるなんて思わないじゃないですか!」
「だってなあ……お前が『女性を紹介してくれ』なんて言うからだ。しかも『若い子がいい』なんて言われたら、そりゃ、そろそろ独り身が寂しくなったのかと思うだろ」
若い子がいい? そこでようやく、あのときの殿下の妙な質問の意味がわかった。「年の希望は?」って、そういうことだったのか。俺はてっきり、紹介してもらうメイドの年齢を聞かれているのだと思っていた。
「それに、あれは正式な結婚誓約書だぞ? 普通、サインする前に気づくだろ」
「ぐっ……」
痛いところを突かれ、また言葉に詰まる。
「もうっ、俺が悪かったのは十分わかってますから!」
ここまでくると、もはや開き直りに近い。俺は机に両手をつき、殿下に詰め寄った。勢い余って、殿下との距離が思いのほか縮まってしまったが、今さら体裁など気にしていられない。俺は目の前の涼しい顔を、必死の思いで見つめた。
「そこをなんとか! あの結婚、撤回できませんか!?」
「そうは言ってもな〜」
殿下は困ったように頬を掻くと、背後に控えるアルベルトを振り返った。
「なあ、アルベルト。あの書類、今どうなってる?」
「もう役所へ回してありますよ。今ごろは受理されているはずです」
アルベルトが、実にあっさりと答える。
(……最悪だ)
こういう書類はいつも散々待たされるくせに、なんでこれに限ってこんなに仕事が速いんだ。普段からそのくらい迅速に処理してくれれば、こちらだって苦労しないというのに。
「ま、俺が言えば破棄できないこともないけどな?」
殿下が、ちらりとこちらを見る。
「ほ、本当ですか!? ぜひ! ぜひともお願いします、殿下のお力で……!」
沈みきっていた希望が、一気に蘇った。殿下は、ここぞとばかりに食い下がる俺を面白そうに眺めていたが、ふと思いついたように眉を上げる。
「でも、レゼ、可愛かっただろ?」
「なっ……」
いきなり何を聞くんだ、この人は。可愛いだとか可愛くないだとか、そんな問題じゃない! だが、殿下はじっと俺を見上げたまま、答えるまで逃がしてくれそうにない。
「そ、それは……まあ…………可愛らしい方、ではありましたけど……」
「ふーん?」
殿下の口角が、じわりと上がる。
「な、なんですか」
「いや、別に?」
絶対に別にじゃない。殿下はそのまま、何食わぬ顔で続けた。
「で? レゼはどう言ってる?」
「え?」
「今回の結婚。あいつは嫌がってるのか?」
「いえ……その……」
昨日のテレーゼ嬢の様子が脳裏に浮かぶ。嫌がっているどころか、むしろ――。
「……かなり、乗り気でした」
「じゃ、そのままで!」
「は!?」
殿下が満面の笑みで親指を立てた。
「継続、決定〜!」
「ちょっ、殿下! 待ってください!」
何をどうしたら、今の話からそんな結論になるんだ! しかも殿下は、もう用は済んだとばかりにさっさと書類へ視線を戻している。
(くそ、この王子、完全に話を終わらせにかかっている)
「まあ、そういうことだ。諦めろ」
それまで黙って成り行きを見ていたアルベルトが、にやりと笑った。こちらへ歩み寄ると、俺の肩をぽん、と叩く。
「よろしくな、弟よ」
「…………」
終わった。
◇ ◇ ◇
日がすっかり暮れたころ、玄関の扉が開く音がした。
「お帰りになりましたわ!」
待ちかねていた音に、私はすぐさま立ち上がった。
ヴォルフ様は今日、ユリウス様に結婚のことを確認しに行くとおっしゃっていた。つまり、いよいよ私たちが「夫婦(仮)」から、正式な夫婦へ昇格できるのかがわかるのだ。
逸る気持ちのまま廊下を抜け、玄関へと急ぐ。
「ヴォルフ様、おかえりなさいませ」
「なっ……!」
私に続いて、セシル、マチルダさん、ルーディさん、ハロルドさんまで。ずらりと並んだ面々を見て、ヴォルフ様がぎょっと足を止める。
「それで、ユリウス様は、なんと?」
さっそく尋ねると、ヴォルフ様は見るからに気まずそうに視線を逸らした。
「それは……その……」
「坊ちゃま、はっきりお言いなさいまし!」
たまりかねたマチルダさんの声が飛ぶ。ヴォルフ様はしばらく黙っていたが、やがて観念したように肩を落とした。
「……書類は、もう役所に回っていた。それで……け、結婚を継続しろ、と……そうおっしゃっていた」
まるで床にでも話しかけるように、ぼそぼそと告げる。途端に、わっと空気が一変した。
「まぁぁっ! 坊ちゃまが! ついに……っ!」
「うおぉぉぉっ! 奥さま〜〜〜っ!!」
マチルダさんは感極まったように目元を潤ませ、ルーディさんに至っては両手を高々と掲げて大歓声を上げている。玄関ホールが一気にお祭り騒ぎになるなか、当のヴォルフ様だけが、ひとりその場に取り残されたように立ち尽くしていた。
私はそんなヴォルフ様の隣へ近寄り、少し俯いたその顔を覗き込む。
「では、これで私たち、正式な夫婦ですわね?」
「うっ……!」
はいもいいえも言わぬまま、恨めしそうに私を見返す。けれど、すぐに逃げるように顔を背けてしまった。こちらを向いた耳だけが、どんどん赤く染まっていく。
(ふふっ。ようやく初めの一歩……ですわ)
いつの間にか、皆さまがそんな私たちを温かい目で見守っていた。
と思えば、マチルダさんの表情がぱっと変わる。
「あら! こうしちゃおれませんね! 正式にご夫婦になられたのですから、おふたりの寝室をご用意しなければ!」
ぽんっと手を合わせ、そのまま嬉々として踵を返す。
けれど、マチルダさんが一歩踏み出すより早く、ヴォルフ様の腕が目にも止まらぬ速さで伸びてきて、がしっとその肩を掴んだ。先ほどまで赤かった顔は、より一層、真っ赤だ。
「ま、待てっ! マチルダ! いい! ご用意はいい! 大丈夫だ!」
「坊ちゃま、なぜ止めるんですの?」
「な、なにも今すぐ同室にしなくてもいいだろ!? その、俺とテレーゼ嬢は、まだ……」
不服そうなマチルダさんと、額に汗までにじませて必死に訴えるヴォルフ様。そんな二人のやり取りを聞いていると、今度は私まで妙にそわそわしてくる。
(い、いきなり同室は……私も少し緊張しますわ。でも……でも……どうしてもと、おっしゃるなら……きゃっ♡)
思わず両手で頬を押さえ、ひとり身をくねらせた。
ふと視線を感じて顔を上げると、ヴォルフ様がこちらを見ていた。それはもう、しっかりと。その頬が、わずかに引きつっているのは気のせいだろうか。
(いけません。ちょっと浮かれすぎてしまいましたかしら)
すんと背筋を伸ばす。ヴォルフ様も、はっと我に返ったように視線を逸らしたが、すぐに何かを思い直したようにこちらを向き、妙に思い詰めた顔でぽつりと口を開く。
「テレーゼ嬢。あとで少し話をしたいんだが」
「はい! もちろんですわ!」
間髪入れずに答える。なんということでしょう。私もヴォルフ様と一度ゆっくりとお話をしてみたいと思っていたのだ。それをヴォルフ様のほうから切り出してくださるなんて、これが夫婦の以心伝心というものかしら?
「ええ、夫婦は語らいが大事ですものね! 存分に語らいましょう!」
「は? いや、ちがっ……そうじゃなくて……」
ヴォルフ様は何やら言い淀んでいるけれど、きっと照れていらっしゃるのだろう。
(ふふっ。いったい、どんなお話をしてくださるのかしら)
セシルが持ってきた荷物の中に、お気に入りの茶葉もあったはずだ。ハロルドさんに頼んで、お茶を淹れてもらうのもいいかもしれない。
(今夜は素敵な時間になりそうですわ〜♡)




