深淵からの脅威
黒い池の水面が、盛り上がった。
いや、盛り上がったなんて生易しいものではない。
池そのものが内側から押し広げられるように膨れ、次の瞬間、黒い水を割って巨大な影が現れた。
「……嘘だろ」
誰かが呟いた。
その声は、たぶん俺のものだったかもしれない。
現れたのは、巨大な蛇。
いや、蛇ではない。
胴体だけでも馬車より太く、黒い鱗は濡れた岩みたいに光っている。そこから伸びる首は一本ではなかった。
二本、三本、四本。
数えるのが嫌になるほどの首が、水面からぬらぬらと持ち上がる。
九本。
九本の首が、それぞれ別々の方向を睨んでいた。
「アビス……ヒュドラ……」
ミラが、かすれた声で言った。
その名前を聞いただけで、周囲の冒険者たちの顔色が変わる。
ナーガクイーンを倒した直後だ。
みんな傷だらけで、魔力も体力も削られている。毒を受けた者もいる。第三王子のホーリーレインだって、もう撃てるような状態ではない。
そんな時に出て来ていい相手ではない。
絶望。
その二文字が、空洞の中に重く沈んだ。
「コケェェェェェッ!」
だが、コッコは怯まなかった。
俺たちが動けないでいる間に、真っ先に地面を蹴っていた。
「コッコ!」
止める間もない。
コッコは濡れた岩場を駆け、アビスヒュドラの一本の首へ飛びかかった。
ほぼ同時に、セルティのフェンリルも動いた。
白い影が、黒い巨体へ向かって走る。
あの二体だけが、まだ戦う意思を失っていなかった。
「くそっ、俺だって!」
俺は慌てて杖を向けた。
「アイスボルト!」
放った氷の矢が、ヒュドラの胴へ突き刺さる。
突き刺さった。
……ように見えただけだった。
氷は鱗の表面で砕け散り、薄い白い跡を残しただけで終わる。
「マジかよ」
俺のアイスボルトが、蚊に刺された程度の扱いだった。
いや、蚊に刺された方がまだ気にするかもしれない。
「陣形を立て直せ! 前衛は無理に踏み込むな!」
ヴィクトル、第三王子が声を張り上げる。
さすがに王族というか、こういう時の判断は早い。冒険者たちも我に返り、慌てて隊列を組み直す。
セルティもフェンリルを援護するように杖を構えた。
ミラたちも傷ついた仲間を下げながら、なんとか戦線を作る。
だが、相手が悪かった。
コッコの爪が、ヒュドラの首の一本を抉る。
フェンリルの牙が、別の首へ食らいつく。
それでも、ヒュドラは倒れない。
血は出ている。
傷はついている。
だが、それだけだ。
巨大な九つの頭のうち、たった二つが少し嫌そうに身じろぎしただけである。
次の瞬間、残りの首が一斉に口を開いた。
「下がれ!」
誰かが叫んだ。
間に合わない。
九本の首から、それぞれ色の違うブレスが放たれた。
紫の毒。
灰色の麻痺。
黒い呪い。
青白い冷気。
赤黒い熱風。
見ただけで嫌になるような、何種類もの状態異常ブレスが、空洞いっぱいに撒き散らされる。
「ぐあああっ!」
「動けな……!」
「目が、目が見えん!」
冒険者たちが次々と倒れた。
前衛の盾持ちは麻痺で膝をつき、後衛の魔法使いは毒を吸って咳き込む。ミラのパーティーも例外ではなく、一人が足をもつれさせて倒れた。
コッコも直撃を受けた。
「コケッ……!」
大きな身体がぐらつく。
それでも踏ん張った。
フェンリルも片足を引きずりながら、セルティの前へ戻ろうとする。
「フェンリル!」
セルティの悲鳴が響く。
アビスヒュドラの一本の首が、満身創痍のコッコへ狙いを定めた。
大口が開く。
牙の奥に、黒い魔力が集まっている。
やばい。
あれは駄目だ。
俺はインベントリを開いた。
中に残っていた上級魔法スクロールを掴み出す。
アイスジャベリン。
以前、いざという時のために取っておいた一本。
それを、今使わないでどうする。
「こっちだ、化け物!」
俺はスクロールを破った。
魔力の文字が空中へほどけ、巨大な氷の槍が生まれる。
「アイスジャベリン!」
氷槍が轟音とともに飛んだ。
コッコへ噛みつこうとしていた首の横っ面に、真正面から突き刺さる。
さすがに効いた。
ヒュドラの首が弾かれ、黒い血が飛び散る。
「よしっ!」
だが、喜べたのは一瞬だけだった。
アビスヒュドラは怒ったように九つの目をこちらへ向ける。
俺は背筋が凍った。
そして同時に、もっと嫌な事実を思い出す。
スクロールは、今ので最後だ。
普段なら、ショップで買えばいい。
が、目の前に冷たい現実が立ちはだかる。
戦闘中はショップを開けない。
分かっていたはずだ。
分かっていたのに。
俺は、金をケチった。
使うかどうか分からないから。
高いから。
あとで買えばいいから。
そう思って、買わなかった。
「馬鹿か、俺は……!」
こんな時のための金だろうが。
こんな時のための課金アイテムだろうが。
何を節約生活みたいなことをしているんだ、異世界で。
俺が歯噛みしている間にも、状況は悪くなっていく。
ミラが剣を杖代わりにして立っていた。
ノノも今にも倒れそうだ。
冒険者たちは半数近くが状態異常でまともに動けない。
ヴィクトルも杖を構えていたが、顔色が悪い。
「もう一発、強いのは……!」
「無理だ! 魔力が足りん!」
ヴィクトルの声に、余裕はなかった。
第三王子ですら、膝に手をついて息を荒げている。
フェンリルが吠えた。
傷だらけの身体で、またヒュドラへ飛びかかる。
だが、次の瞬間、別の首が横から叩きつけた。
白い巨体が地面を転がる。
「フェンリル!」
セルティが駆け寄る。
フェンリルは立とうとした。
だが、立てなかった。
セルティは唇を噛みしめ、震える手で召喚陣を描く。
「戻って……!」
光がフェンリルを包み、その姿が消えた。
送還。
死なせなかった。
それだけは良かった。
セルティはすぐに次の召喚を行おうとした。
けれど、魔法陣は途中で崩れた。
「……っ」
セルティが膝をつく。
魔力切れだ。
もう、呼べない。
もう、戦える召喚獣はいない。
残っているのは、コッコだけだった。
「コケ……」
コッコは立っていた。
毒を受け、麻痺を受け、燐に焼かれ、羽根を乱しながら、それでもアビスヒュドラの前に立っていた。
俺の大事なコッコが。
ただのペットのコカトリスだったはずのコッコが。
みんなを守るように、巨大な怪物の前に立ちはだかっていた。
「もういい、戻れ……!」
俺は叫んだ。
だが、コッコは振り返らない。
小さく、けれど確かに鳴いた。
任せろ、とでも言うように。
次の瞬間、ヒュドラの尾が横殴りに振るわれた。
コッコの身体が吹っ飛ぶ。
壁に叩きつけられ、ずるりと地面に落ちた。
「コッコ!」
動かない。
いや、生きている。
生きてはいる。
でも、もう立てない。
アビスヒュドラの首の一本が、ゆっくりとコッコへ近づいていく。
俺は前に出た。
勝てるわけがない。
アイスボルトなんて効かない。
シールドも、あの状態異常ブレスを全部防ぎきれるとは思えない。
魔法スクロールもない。
ショップも開けない。
それでも、前に出た。
ゴンベエの姿のまま。
狼仮面の下で、歯を食いしばりながら。
「やめろ」
俺は剣を構えた。
「そいつに、手を出すな」
声は震えていた。
足も震えていた。
格好良くなんてない。
怖い。
ものすごく怖い。
だけど、コッコを見捨てて下がる方が、もっと怖かった。
その時だった。
「リョウマさん……!」
セルティの声が聞こえた。
俺は息を呑む。
セルティは、ゴンベエを見ていなかった。
狼仮面を見ていた。
その奥にいる俺を、見ていた。
「あの日、私たちを助けてくれた……リョウマさん!」
胸の奥が、跳ねた。
隠していた名前。
隠していた姿。
それを、セルティが呼んだ。
「お願い……助けて!」
その瞬間。
俺の足元に、光が広がった。
見覚えのある文様。
召喚の魔法陣。
だが、セルティにはもう魔力がないはずだ。
なのに、魔法陣はどんどん輝きを増していく。
アビスヒュドラの九つの首が、一斉にこちらを向いた。
俺の身体が、光に包まれる。
「な、なんだこれ……?」
魔法陣が唸る。
空気が震える。
セルティの瞳が、大きく見開かれる。
そして、俺の視界が白く弾けた。
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