5 とても苦いコーヒー
賽原基地に帰還してから十五時間が経過した。
現在は、六月五日の午前三時。
闇夜に浮かぶ大きな白い月が、人口減少によって電光の灯りが一掃された地上を眩く照らす一方で、夜を徹しての復旧作業が続く賽原基地では、天井の白い照明が施設内をまばらに照らしていた。
以前、アリス様が使っていた地下五階の執務室は、もう完全に雪風小春という新しい司令官のための仕事部屋に生まれ変わっていた。
高級そうな黒革の椅子の座高も、すでに自分の体格に合わせて調節してある。机の上のペン立て、モニターやキーボードも、こちらの好みに合わせて配置を少しだけ変更した。
手を加えるたびに、アリス様の気配が室内からだんだんと消えていってしまう。
そんな寂しさを紛らわせるために、いつか飲んだ代用コーヒーを淹れてみた。
その鳥柄のマグカップに並々と注がれた褐色の熱い液体を、さっそく一口飲んでみる。
「やっぱり、まずいや」
美味しくない、土臭い。うま味もなにもあったものではない。
もう一口飲んでみる。
単純に凄まじく苦かった。マグカップのふちを掴み、電気ポッドが置かれた壁際の戸棚から室内をとことこと横断して、軽やかに自分の椅子へと腰を下ろした。
さらにもう一口飲んでから、足を投げ出して、背もたれに深く寄りかかった。
「……はー」
アリス様がどうしてこれを飲んでいたのか、その理由がわかったような気がした。
この強烈な苦みを口の中で感じている間だけ、思考が極端に鈍る。
結果として、早急な対処が求められる諸問題から一時的に解放され、恐怖や不安といった負の感情が、ほんの少しだけ薄らぐのだ。
もちろん、代用コーヒーは薬品なんかじゃない。
多少香りが上等な、褐色の苦い液体だ。効果は、その激烈な苦みによって、ちょっぴり思考が鈍るだけである。
カフェインすら含まれていないので、本当に無害な飲み物なのだ。
でもだからこそ、もう一口、もう一口と、何度もこれを飲んでしまうのだろう。
そしてこの機械の体は、大抵の有害な化学物質は即座に分解してしまう。
つまり酔えない。お酒に逃げることもできない。
どうやら僕は、このマズイ飲み物と、これから長く付き合っていくことになりそうだ。
鼻を鳴らし、息を長く吐き出してから、まだ温かい空っぽのマグカップを机の端っこに置いた。異様に広く感じてしまう静かな執務室で、僕は再び椅子に力なくよりかかり、下を向いて両目をそっと閉じる。
およそ二十秒後、代用コーヒーの効果が切れ始めた。
「…………」
十五時間の稼働で捻出できた休憩時間は、午前三時から午前五時までの二時間。
この二時間を、どう有効活用すべきか。
「さて、どうしようか」
そんな言葉とは裏腹に、意識は明瞭で、思考は研ぎ澄まされていた。
人類復興への道筋、そこへ至るための着想が次々と浮かんでくる。
精神も体も、双方のコンディションは過去最高の状態にある。制限が解除された思考力は、人類の限界域を悠々と飛び越えて、一つ上の領域へとシフトしていた。
これも、僕に搭載されているモズ型バリアブル人工知能とやらの機能だろうか。
けれど、そうしたリミッターが解除されるにつれて、メッキがはがれて、機械人形としての本性が顔を出す。冷徹な合理主義に根差した万能感が頭の中で膨れ上がり、感情や人格や個性といった、非合理的な、それまで雪風小春という個人を形作っていた要素が少しずつ欠落していく感覚があった。
となると自然、ある疑問が生じる。
全人類の指導者として造り上げたはずの雪風小春を、なぜ最初から完璧にしておかなかったのか。なぜ開発者である来栖野有栖は、完全無欠の性能を誇る機械人形にあえて不完全な人格をインストールしたのか。なぜ機能の一部を制限したのか。
それらの疑問に対して、おそらく彼女はこう答えるはずだ。
そのほうが可愛いから、と。
「アリス様」
彼女は、究極の理想を体現した存在が、ただの無機質な機械になることを望まなかった。
だから、不完全な個性を持つ雪風小春という人格を創り出したのだ。
全知全能の神の如き権能を有する存在ではなく、あくまでも人間的な感性を備えた個人。
少数の天才に利害関係で歩み寄るのではなく、社会を構成する大多数の一般人に心から寄り添い、その心情をよりよく理解できる、平凡な人格を持った人間を創り出そうとしたのだ。
「あなたの生み出した究極が、どこまでやれるのか、どうか見ていてください」
意識が浮上した。
両目を見開き、上体を起こす。
さあ、はじめよう。
頭蓋に格納された質量三千カラットの人工脳、ダイヤモンド製の光量子汎用プロセッサが、その稼働率を急激に高めていった。極めて淡い金色の髪が、頭蓋内部から熱を吸い上げて発散し、わずかに室温が上昇する。
五感が遠退き、視界が明滅を繰り返す。
人工脳が未来の予測を開始し、現在までに入手した情報から、今後七十二時間以内に発生し得る可能性を網羅することで、もっとも発生確率の高い未来を算出した。
所要時間は、およそ二十一分。この地球上から賽原基地以外のすべての軍事組織が消滅し、人類の総人口が数万人規模にまで減少したからこそ可能となった力業である。
だが、そうして算出された未来は、ある意味でこちらの想像を超えていた。
あまりにも愚かしいのだ。
耳元でささやく誰かの声を、僕は自分の声でかき消した。
「賽原基地の軍警察と法務局がクーデターを画策。雪風小春を拘束し、軍法会議にかける。判決は、死刑。雪風小春は即刻解体され、人工脳以外は焼却処分される。その場合、一年以内に全人類が絶滅する可能性は九十八パーセント」
ここが分水嶺だ。
これからの数日が、地球上に残された全人類の趨勢を大きく左右すると考えて間違いない。
では、その結末を回避する手段はあるだろうか。
「……っ」
最良の未来を求め、より多くの可能性を拾い上げようと試みた瞬間、失われた右目の奥に痛みが走る。
ダメだ。演算性能が一桁はたりない。メモリ容量も、時間もたりない。
果てしなく遠いあと一歩が踏み出せず、最良の未来に手が届かない。
「…………」
ならば、計算手法を変更し、異なるアルゴリズムを適用しよう。
自分に対して死刑判決が下されるという最悪の未来を回避するために、絶対に欠かすことのできない構成要素を特定し、順不同でピックアップする。
右目の奥が連続して激しく痛み、額に汗が浮かぶ。
「軍警察、法務局、地対地ミサイル、合成肉、甲型配給食、乙型配給食、百五十五ミリ砲弾、民間人、ベル・ボーマン、フォート・プライマル、妻子、鶺鴒館、元帥」
構成要素を表すプロンプトはこれでいいはずだ。
あとは未来を出力するだけ。
……いや、違うな。
これまでの演算処理によって、今後七十二時間以内に発生し得る最良の未来をおおよそ推定できたはずなのだが、言語化できない直感が、なにかが決定的に欠けていると強く警告していた。
最終確認のつもりで、入力するプロンプトをもう一度確認する。
「ん、合成肉?」
その単語が引っかかる。合成肉とは、どういうものなのか。いったいなにを原料にして、どのように製造されるものなのか。今一度、詳しく確認する必要を感じた。
さっそく席を立ち、執務室の壁一面に立ち並ぶ、最先端の研究資料がぎっちりと詰め込まれたキャビネットを一つずつ見てまわった。
「あった。これだ」
やけに重たいガラス戸を開けて、一冊の分厚いファイルを手に取る。
題名は――乙型配給食を原料とした合成肉の製造研究に関する情報。二〇一八年。
それは、製本はおろか、研究論文としての最低限の体裁すら整っていない走り書きであり、膨大な研究試作によって取得した情報が、ただひたすらに列挙された、おそらくこの地球上でもっとも貴重なコピー用紙の束であった。
「全部で九一二ページ」
そのスパゲッティ状に絡まり合った情報の塊を、どこまでも丹念に読み込んでいく。
紙の束をぺらぺらと連続してめくり、視界内の情報を余さず脳内に焼きつける。
この報告書を書き記した研究者の絶望、身を焼くような焦燥感が、無機質な文章の節々から痛いほどに伝わってくる。
ほどなく最後のページをめくり終えた。
本文を読み解き、取得した情報を噛み砕いて知識とするまでに要した時間は、およそ九分。
ファイルの裏表紙には、これを書き記した人物の所属と官姓名が、克明に記されてあった。
「人類統合軍賽原基地・兵站部主席研究員、鬼道かおる大尉」




