10 いくじなし
「……実験?」
「キメラを操って統合軍を組織し、核兵器を廃絶させた上で、原生人類の行動を詳細に観察する。言ってしまえば、これはそういう実験。そして最終的な目標は、世界平和を最小の労力で安定的に実現し、観測可能な全並行世界を、全人類を救う、究極かつ無謬の方程式を導き出すことにある」
聞き違いであることを藁にも縋る思いで祈った。けれど神様は僕の願いを聞き届けてはくれない。当然だ。だって神様なんて存在しないのだから。
「ゆえに一度開始した実験は最後まで必ずやり遂げる。その後で、一連のアプローチを近似した並行世界で再度試し、時間をかけて各種データを比較検証する。どうせ似たような結果になるだろうけど、今後十万年ほどは、最終目標のための確度の高い統計データの収集に努めていきたい」
恐怖のあまり体が震え始める。
作り物めいた感情の乏しい仏頂面が、冷徹な瑠璃色の眼光と共に浮かんでいた。
「同じことを繰り返すつもりですか、また別の世界で、何度も、何度も!」
「もちろん。なぜならこれは実験だから。試行回数は、多ければ多いほどいい。具体的な数字を出すなら、二千回以上が望ましい」
つまりそれは二千個の並行世界が、アリスの指揮するキメラの軍団によって無差別な殺戮を受けるという意味だ。荒廃する以前の地球の全人口は、それこそ十九世紀末まで時代を遡ろうとも十数億人を下回ることはない。
それを二千回以上も根絶やしにする? ありえない、正気じゃない。
「あ、ああっ」
ようやくわかった。理解するのが遅すぎた。彼女は狂っている。発狂しているのだ。
外見上の変化はなくとも、心が変容している。もはやこれを人と呼ぶことすら憚られる。
「やめてください! こんなのはもう、たくさんだっ」
意図せずして口から飛び出した絶叫が閑静な山林に木霊した。
一息に相州鬼正をランチャーから抜き放ち、震える切っ先を突きつける。
アリスの視線はまっすぐ、突きつけられた刃の先端へと注がれていた。
「小春、私を殺すの?」
「殺します。あの殺戮を続けると言うのなら、殺してでも止めてみせます」
つまらない映画を眺めるような表情がそこにあった。
そこには自らの生命に対する執着がまるで感じられない。
「私が死ねば、ネスト最深部のメインサーバーが自動的にオーバーロードして、自壊するように設定してある。そうなったら最後、ストレージに保存されている二十億人の記憶と人格情報が消滅し、二十億個の魂のエミュレートが停止する。その結果、キメラは完全に死に絶える。これまでの道中で見て触れてきたこの平穏な世界は、一瞬にして崩壊する」
「……ッ」
鉄の味がする。
平衡感覚が鈍り、手のひらの感覚が遠のく。
切っ先の揺れ幅が増した。
「異界の総人口は、約二十億人。小春の世界の総人口は、すでに一億人を割っている。絶望に満ちた終末を意地汚く生き抜いた一億人と、この世界で豊かな日常を享受する心穏やかな二十億人。小春は、どちらを隣人に選びたい?」
「どちらかなんて選ぶ必要はないじゃないですか! 全キメラを指揮するあなたが戦闘行為をやめさせ、お互いの世界に対する一切の干渉をやめてしまえばいい!」
「何度でも言う。私は実験を途中で投げ出すことはしない。どうしてもそれが許せないのであれば、私を強引に排除してしまえばいい。小春には、その力がある。これまで存分に振るってきた刃がある」
アリスは静かに笑った。
「私は不死の怪物ではない。キメラですらない。私は、培養液が充填された義体の中に浮かぶ脳髄でしかない。卵の殻を叩き割って内容物を掻き出せば、私は死ぬ。記憶のバックアップも残してはいない」
穏やかな表情を湛えたアリスは、突きつけられた鋭利な切っ先と、それに纏わりつく冷酷な死を抱きしめるように両手を広げて、無防備に一歩前へと踏み出した。刃の先端が首筋の薄皮をぷつりと斬り裂く。
真っ赤な雫がとめどなく流れ落ちた。
「私を殺し、あの壊れかけの世界を救いたいのであれば、急いだほうがいい。たった今、残りの人口が九千万人を下回った。もうまもなく、あちら側は滅亡する」
「……ぁ」
魂が引き裂かれるほどの、おぞましい嫌悪感が全身を貫く。
できない。
やっぱりできない。
彼女を殺すことなんて、僕にはできない。
「いくじなし」
動揺が切っ先へと瞬く間に伝播する。
それを切り口から感じ取ったアリスの表情は、冷淡な失望によって彩られた。
「前進も、後退もせず、ただその場に呆然と立ち止まる。もっとも低い。もっとも愚かしい。果断さに欠ける指導者など愚物にも劣る」
赤い雫が刃の先端を伝って柄へと流れ込む。血潮の香りにえずき、僕は戦場に投げ出された新兵さながらに身を震わせることしかできない。
その様子を一瞥したアリスは、目を伏して小さく息を吐く。
再度上向いた彼女の瞳から機械的な青い燐光が迸った。
「手荒な行いは極力避けておきたかった。しかし、それがあなたの苦悩を取り除く助けとなるのであれば是非もない」
「――!」
《警告。極超音速飛翔体、急速接近》
渡り鳥の人工知能が警告を発するのと同時に、視界内にマップデータが立ち上がる。
僕は最悪の未来を予見し、ほどなくそれは現実のものとなる。
「さすが、戦略機動部隊。さすがは、あなたの腹心。身体を失って、すべてがデジタル空間にインポートされても、彼女は信じられないほどに強情だった。最後の最後まで抵抗され、説得にだいぶ手間を取らされた」
空が嘶き、大地が震えた。鶺鴒館の南西から飛来する物体が大気を斬り裂き、賽原市の静謐な青空に雷鳴さながらの爆音を轟かせた。衝撃波をまき散らし、純青の火炎が尾を引く一条の流れ星が鋭角な空中機動を描き上げる。
「人類の英知の結実たる、我々の愛しき鳥たちよ。現時点で観測可能な八兆五千億の並行世界に息づく人類社会、その存亡を賭けた最後の戦いを心ゆくまで楽しむがいい」
ハチドリの如き身軽さで、連続した急旋回を披露しつつ速度を殺し、やがて鶺鴒館の直上で静止したそれは、腰部に装着された機械仕掛けの鞘へと片腕を伸ばす。内部より自動的に押し出された柄を握りしめ、涼やかな擦過音を響かせ、軽やかに抜き放つ。
露わになった真新しい浅黒い刀身が、その身に浴びた陽光を捕らえて離さない。
挑戦的な琥珀色の暗い眼。ざっくばらんに切られた黒髪。やや色濃い健康的な素肌。
線の細い、十代中頃の少年を思わせる風貌。滑らかな曲線を描く純白の装甲によって幾重にも縁取られ、浮き彫りとなるのは、野生動物を想起させる細くしなやかな肢体であった。
「……まこと」




