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9 おかえりなさい




 喉がひどくかわく。

 鉄の味が舌の上に広がった。

 名も知らぬ鳥が幾重にも鳴いている。

 重苦しい沈黙が続いていた。


 トンネルを抜けた途端に突き刺さる日光が、曲がりくねった見通しの悪い坂道を照らして、亀裂だらけのアスファルトを焼いていた。


 灼熱の路面を土臭い温風が吹き抜け、背の高い木々が行く手に暗い影を落とす。


 日陰にうず高くそびえる苔むしたのり面にそって延々と歩いていると、山肌に密集する痩せた針葉樹の隙間から、遠くの深緑の山々が見え隠れしていた。


 ひと気のない山道に、押しボタン式の信号機が忽然と現れる。


 アリスはそのボタンを律儀に押して信号が青になるのを待ってから、白線の消えかかった横断歩道を歩いて道の反対側へと渡っていった。


「ほら、もう少しだから」

 道の先に、周囲の暗い色調から浮いた金属質な人工物が目に留まる。

 木漏れ日を浴びて銀白色に輝くそれは、つがいの鳥の意匠で装飾された立派な埋め込み式の立て看板だった。


 私有地につき立ち入り禁止と記された看板の手前には、大型車も右左折できるほどに拡幅された車道が整備され、急こう配な分かれ道が緩やかな弧を描きながら、鬱蒼とした山林の奥へと続いている。


「あっ」

「小春、こっち」


 気づいてしまった。

 気づいてしまわないように、できるだけ考えないようにしていたのに。

 アリスに手を引かれ、立ち止まることもできずに最後の坂道を上っていく。


 いやだ。

 行きたくない。

 この先に進んだら僕は――。


「……!」

 よく観れば神経質なほどに手入れの行き届いた庭木、その木々の一本一本に至るまで、記憶の中の情景を丸ごと現実に移植したかのように寸分も違わない。


 深い森の中、開かれた門扉の奥で静かに佇む一軒の邸宅。

 大富豪のお屋敷にしてはいささか控えめな、けれど上品な造りの洋館。

 もう二度と生きては帰れないと覚悟していた場所。


 鶺鴒館。

 僕にとっての平穏と安息の象徴。


「おかえりなさい」


 正門をゆっくりと潜り、玄関前のロータリーで立ち止まる。アリスはそこで軽やかに振り返ると、穏やかな窓明かりに彩られた鶺鴒館を背にして、少しだけ笑った。その柔らかな笑みが僕を際限なく苦しめる。


 耐え難い虚脱感に全身が苛まれ、息苦しく、手足の震えが止まらない。


「ここが、僕を、連れてきたかった場所ですか?」

 呼吸が乱れ、声すらも震えていた。


「そう。大量のキメラに指示を送りながらだと、転移を行うための演算リソースが不足していて、だいぶ遠回りになってしまった。時間はかかってしまったけど、あなたにこちら側の世界をじっくりと見せることができたから結果的にはよかった」


「…………」


「小春は責任感が強いから、納得できないこととか、うまく飲み込めないものが、きっと多いと思う。でもそれは、こちら側でおいしいお菓子を食べて、本物のコーヒーを飲みながらゆっくりと考えればいい。要望はある? お菓子も、飲み物も、いくらでも用意できるから」


「……僕は」


「でも、私個人としては、小春の作ったクッキーを一度食べてみたい。昔からあなたの作ったお菓子をずっと食べてみたかったから、いつか焼いてくれると、すごくうれしい」

 色素の薄い頬を桜色に染めて、アリスは気恥ずかしそうにはにかんだ。


「…………」

「もしかして、お腹が空いた? それともお風呂に入りたい? どっちもすぐに用意できる。遠慮しないで」


 小さな白い手が伸びてきて優しく頬にふれる。

 しばらくするとその手は、いくらかの熱を蓄えた僕の髪の毛をすくい上げて、指先に絡ませもてあそんだ。


「お疲れさま。小春はとてもよく頑張った。料理を作っていた時も、寝室で洗濯物を畳んでいた時も、お風呂に入っていた時も、戦っていた時も、ずっとずっと、あなたを見てきた私が、他の誰よりもそれを保証する。本当に、お疲れさま。そろそろ、なかに入ろう?」


 終わったのだろうか。全部やり終えたのだろうか。思考がまとまらない。頭がどうにかなりそうだった。今この瞬間に発狂して、意識と正気を同時に手放せたなら、どれほど気が楽だろうか。


「…………」

 しかし天才科学者が創り上げた究極のアンドロイドは、気が狂うことすら許されない。

 絡まっていた思考の糸が自動的に解けていくのを実感する。


「アリス。もうやめましょう」

 直後、僕の横髪を楽しげに梳いていた彼女の指先が停止する。


「どういう意味?」


「キメラが……二十億の人間が暮らすこの世界は、誰も飢えず、誰も病ない、究極の世界平和が約束されているのですよね? まさに理想郷だ。あなたはそれを実現したんだ。もう十分じゃないですか」


 瑠璃色の瞳の奥底で燦然と輝いていた感情の灯火が、急速に弱まっていくのがはっきりと見て取れた。アリスはワンピースの裾を両手で握りしめると、目を見開き、口元を歪めて、数歩後ろへと下がる。


「…………」

「破壊も殺戮も必要ない、もう見たくないんです。やめましょうよ、こんなことは」


「やめる気はない」

 短い言葉、感情の消えた顔、苛立ちの仕草。

 それらから強烈な拒絶の意志が伝わってくる。

 だが今さらそんなもので引き下がるわけにはいかない。


「どうかお願いします。僕らの世界から手を引いてください。戦いを終わらせてください」

 ただひたすらに彼女の冷たい瞳を凝視する。


「僕の、この身がどうなろうと構いません。煮るなり焼くなり好きにしてください。一生服従します。あなたが死ねと命じるのなら、この場で死んでみせます。身も心もすべて捧げます。だから、どうか――」


 どこまでも冷たくて硬質な視線が、僕の真正面から淡々と向けられている。まるで手ごたえがなかった。耳が痛くなるほどの静寂の中、永遠にも思える十数秒が経過していく。


 返答は無慈悲だった。


「断る。結果が出るまで、実験は絶対に中断しない」




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