6 帝位戴冠
六月二日、五時十分。
「……っ!」
夜明け前の薄明に、異様な胸騒ぎを感じて僕は目を覚ます。
起きてみるとそこはリビングのソファの上だった。
僕はいつから眠ってしまったのだろうか。
少しでも冷静さを取り戻すべく、昨夜の記憶を慎重に辿っていく。
「…………」
昨夜は、アリス様とずっと一緒だった。キメラ化が進行して自我が希薄になっていたから、片時も側を離れるわけにはいかなかったのである。
急に甘いお菓子が食べたいと言い始めたアリス様と一緒になって、明日のおやつにするつもりだったカラメルプリンを食べたり、香りの爽やかなアールグレイを飲んだりして時間を過ごしていたのをはっきりと覚えている。
「……アリス様?」
そういえばアリス様は、今どこに……。
やけに重たい体を無理やり引き起こした直後のことだった。
鶺鴒館に銃声が響き渡る。
「!」
銃声はたしかに、アリス様の部屋の方向から聞えた。
「――っ!」
慌てて室内の隅々にまで視線を走らせても、アリス様の姿は見当たらない。
まさか、そんなまさかっ。
僕は即座にリビングを飛び出し、全力で廊下を駆けた。
強烈な悪寒と共に、嫌な汗が背中を伝っていく。
「やめ――っ」
火薬の燃焼する閃光が瞬き、破裂音が再び全身を打つ。
一発目の銃声からわずかに数十秒、二発目の銃声が響き渡ったのは、僕がアリス様の部屋に踏み入った直後のことだった。
銃口を直接口内に押し込んでいたアリス様が、自らの手で引き金を引いた瞬間に、その小さな体は、ボーリングのピンのように一メートルほど後方へと弾き飛ばされた。
「あ、あぁ……」
部屋の壁に後頭部から激突し、そのまま身じろぎもせずに、ずるずると崩れ落ちていく。
鈍い音を立てて足元に転がった拳銃の銃口からは、淡い硝煙が立ち上っていた。
護身用としてベッドサイドの引出しの中に隠していた銃器を使って、アリス様が拳銃自殺を図ったのは明らかだった。彼女の右手の薬指で婚約指輪が青く輝いていた。
「……小春」
「――!?」
ついに幻聴まで聞こえ始めたのかと自分自身を疑ったが、自ら拳銃で頭部を撃ち抜いて自殺したはずのアリス様は、どういうわけかまだ生きていた。
「アリス様っ、アリス様っ!」
「小春、ごめんなさい。あなたから貰った大切な指輪を、私は……」
「いいんです、アリス様。謝らないでください、仕方がなかったんですよ」
「……小春は優しいね」
彼女の瞳には、昨日までと変わらない理性の色が宿っていた。
もしかすると、人はこれを奇跡と呼ぶのかもしれない。キメラ化の進行によって一旦は消滅しかけていたアリス様の自我が蘇っていたのである。
「でも正気に戻ったのなら、どうして自殺なんて」
「キメラにだけは、絶対になりたくなかったから」
「!」
アリス様は、至って冷静だった。けれどその瑠璃色の瞳の奥には、いくら冷静であろうとも隠し切れない恐怖が渦巻いていた。
「私が、私であるうちに、すべてを終わらせてしまいたかった。これがどれだけ身勝手な行いなのかは、自分でもわかってる。小春をどれだけ悲しませるのかもわかってる。けれどやっぱり、私はキメラにはなりたくないっ」
「…………」
「でも、頭を拳銃で撃ち抜いたくらいでは、私はもう死ぬこともできない。再生能力が強すぎて、小さな傷はすぐに塞がってしまう。だから、おねがい。あなたの手で、私を殺して」
それはこの世界で、一番聞きたくない言葉だった。
「私のベッドの上に、対物ブレードが置いてあるから、それを使って」
「…………」
「一応、使えるかと思って裏庭の倉庫から引っ張り出してきたんだけど、さすがに自分で自分の首を切り落とす勇気はなかった。だから拳銃を使ったんだけど、失敗してしまった」
僕はアリス様に指示されるままに、ベッドの上に無造作に転がっていた対物ブレードを手に取った。
静止していた刃が超高速での振動を開始する。
心を無にして、柄を両手で握りしめた。
ゆっくりと立ち上がったアリス様の表情は、いつになく穏やかなものだった。
「結婚する時の約束、小春は覚えてる?」
「キメラを一体残らず殺し尽す。……必ず、全地球上のすべてのキメラを絶滅させる」
そらんじてみせると、彼女は満足そうにうなずいた。
早く斬ってくれと言わんばかりに肩の力を抜いて、静かに目を閉じている。
「どうにも、ならないのですか?」
「…………」
嫌だ、嫌だ、こんなの絶対に嫌だっ。
「まだ助かる方法が残されているはずです! 再生能力は上がってしまいましたけど、キメラ化が進行している割には、外見上の変化は一切ないじゃないですかっ!」
「…………」
「お願いですから、まだ諦めないでくださいよッ! アリス様は異界から凄い技術をたくさん持ち帰ってきたんですよねッ!? 僕も詳しくは知りませんけど、その技術で体を冷凍保存とかすれば可能性はきっと――」
「小春、世界を……救って」
「アリス様?」
アリス様の体を、足元から這い上がった灰色の液体が包み込んでいく。
人体をキメラへと造り替える繭が、床や壁の建材を融解させることで急速に形成されていった。あの鋭く尖った口部や足先が、繭を突き破ってくるまでに、もうそれほど時間的な余裕はない。
いかに軍用サイボーグのアマツバメが高性能であっても、渡り鳥を装備していなければ丸腰も同然であり、キメラとの直接戦闘における勝率は決して高いとは言えない。
しかし、相手が繭になる前の状態であるのなら勝利は確実だ。
「ああ、あ」
「小春、おねがい」
だから今、殺すのだ。
心を砕き、刃を振り下ろすのである。
対象が何者であろうとも例外はない。
キメラは一体残らず殺し尽す。
必ず、絶滅させる。
そう約束したのだから。
「あああぁぁぁぁァァァァ――ッ‼」
ただそれだけを念じ、刃を振り下ろす。
一心不乱に何度も何度も、繰り返し、振り下ろす。
時間の感覚が曖昧だ。おそらく三十秒ほどそうしていただろうか。
彼女の願い通り、キメラ化の進行は寸前のところで停止していた。
かろうじて人としての形を保っている物言わぬ骸と、いくつかの残骸だけが、さながら砕けたイチジクの実となって周囲に散らばっていた。
両手に握りしめた鬼を正すための刃と、僕の全身は、血潮のかおりに塗れていた。
《緊急事態発生。当機の外郭補助システムたる賽原基地メインシステムに対して緊急コネクトを申請――承認されました。エマージェンシー・シーケンス起動。ただちに状況を精査します》
人類統合軍に所属する当機を除いた全将官級職員の死亡、――確認。
地球人類の総人口が最盛期の五パーセント以下に減少、――確認。
製作者たる来栖野有栖の死亡、――目視確認。
《終末期最終段階、カテゴリー〝トリプル・A〟以上と認識しました。第八世代耐熱光量子汎用プロセッサの全リミッターを解除。モズ型バリアブル人工知能の全リミッターを解除。当機はこれより〝わたしだけの世界でいちばんかわいいメイドさん〟モードから、〝永久独裁官〟モードへ移行します。ご注意ください》




