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5 夜明けの鶴




 鶺鴒館にたどり着いた頃には、外はすっかり暗くなってしまっていた。

 昼間のうちに仕込んでおいたクリームシチューで夕食を済ませてから、リビングでゆったりと寛いでいると、あっという間に時刻は深夜を回っていた。


 明日のことを考えるのならば、もうとっくに寝ていなければいけない時間だったが、アリス様との時間を一分一秒でも無駄にしたくないという強い思いが睡眠を妨げていた。


 しかし、そうした僕の感情とは裏腹に、事態は急激にその深刻さを増していく。


「小春、いつもありがとう」

「急にどうしたんですか?」

「えへへ」

「……?」


 彼女の様子がおかしい。

 僕が異変に気づいたのは、キッチンで明日の料理の仕込みをしている最中のことだった。


 リビングからとことこ歩いてきたアリス様は、僕の真横に立つと、メイド服の裾を何度か引っ張りながら、柔和な笑みを浮かべていたのである。感じ取った違和感を言葉で表現するのは難しいのだけど、なんというか言動が幼いのだ。


「アリス様、そろそろ寝る準備をしましょう。お風呂の準備はできてますから、先に入っちゃってください」

「うん、わかった」


 ほら、まただ。こう言ってはなんだけど、あの無邪気な緩み切った笑顔は、まったくもってアリス様らしくない。いったい、どうしてしまったんだ。


「あれ?」

 粗方の仕込み調理を終えてリビングに戻ると、床の上で小さな物体がきらりと輝いているのを発見する。近寄るまでもなく、僕にはそれが何かわかっていた。だからこそ、それを手に取らずにはいられない。


「……どうして、これが」

 昨日から肌身離さず身に着けていて、いついかなる時も手放すことのなかった婚約指輪が、あまりにも無造作に転がっていたのである。


 指から外して、そのまま落としてしまったのかもしれない。

 けれどアリス様に限って、そんなことがあり得るのだろうか。


「…………」

 肉体のキメラ化が進行しているのではないか、そんな考えが脳裏を過る。


 いや、それは違う。

 単純に、お風呂に入るから一時的に外しただけだ。


 僕は無理やりそう納得して、指輪を発見しやすいテーブルの上に置いた。

 これからは否定的な考えを極力排除して、物事は明るく肯定的にとらえて行こう。

 そもそも、よくわからないことが多すぎるんだ。


 異界でキメラに造り替えられたにも関わらず、なぜアリス様が、それまでと変わらない豊かな人間性を保持できているのか、それすらもよく分かっていないんだ。


 だから大切にしていた指輪を置き忘れていたとしても、それだけで自我や記憶の消失、つまりキメラ化の進行を決定づけるには圧倒的に情報がたりていない。


「…………」

 けれどもそうした理屈を並べ立て、自らを律する行為は、本音を隠すための建前に過ぎなかった。

 時間がない。なにもかもが早すぎる。


 いくら理性的であろうとしても、結局それが僕の偽らざる本音だった。


「だって、……まだ一日しか経ってないじゃないか。たったの一日。これじゃ短い、短すぎるよ」


 常に楽観的でありたいという感情と、常に最悪の事態を想定する理性が、心のうちで激しくせめぎ合う。精神状況の急激な悪化から、視界が酩酊したみたいにぐにゃりと歪んで、もう立ってすらいられずに、ソファへと座り込む。


「小春」

 しばらく立ち上がることもできずに、ただただ足元に視線を落としていると、急に名前を呼ばれていた。


「アリス様?」

 顔を上げると、そこにはぽつんとアリス様が佇んでいた。


 その様子から察するに、入浴を終えたわけではなさそうだ。


 髪の毛は濡れていないし、パジャマにも着替えられていない。昼間に着ていたカジュアルな服装のまま、バスタオルの端だけをしっかりと掴んで、まるでそれが大きなぬいぐるみであるかのように、床の上を引きずっている。


 疲弊していた僕がその行動の意味を尋ねるよりも早く、彼女は口を開いた。


「お風呂場ってどこにあるの?」

「――――」

 彼女の笑顔は、どこまでも無邪気だった。


 この先には絶望しかない。

 それをこのひと言で理解させられた。

 ああ、なんてひどい世界なんだ。


「アリス様……」

「?」


「愛しています。ずっと、いつまでも」

「……?」


 僕がその小さな体を少々強引に抱きしめても、たいした反応は返ってこなかった。

 恥ずかしそうにうつむくことも、耳の先まで赤面することもない。


 彼女はもう、僕の知っているアリス様ではなかった。

 それを痛いほどに理解させられた。




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