4 ピクニック
「アリス」
「はい、あなた」
「…………」
「…………」
お互いに赤面したまま、言葉も忘れて見つめ合っていた。それが、ただただ幸せだった。
静寂に包まれた鶺鴒館の庭先を爽やかな風が吹き抜けていく。
「……えっと、アリス様、忘れ物はありませんか?」
「大丈夫、何度も確認したから」
「じゃあ、出発しましょう」
「おー!」
僕らは庭先のロータリーを抜けて、元気よく正門を出た。
すぐさま右折すると、視界の左右に樹木が生い茂るなだらかな山道を、鶺鴒館を見下ろしながらゆっくりと登っていく。このまま山道を道なりに登り進めていくと、三十分ほどで山頂にたどり着く予定になっていた。
「今日は晴れてよかったですね」
「うん。風も気持ちよくて、言うことなし」
旧賽原市を一望できる山頂で、のんびり昼食を楽しむのが今日の目的だった。
ただそうなると、これはピクニックというよりも、正確には登山、もしくはハイキングなのではないかと思うのだけど、まぁそこまで細かいことは気にしても仕方がない。
幸い山道は、僕のようなメイド服姿の男性が、やや踵の高い靴を履いていても、歩行に支障がないくらいには整備されている。近所を散歩するくらいの気持ちで、このピクニックを楽しめば、なにも問題はないはずだ。
「この山って、来栖野家が所有しているのですよね?」
「書類上ではそうなってる。ただ、日本国政府が形骸化した今となっては、その書類も紙切れ同然だけど」
「日本円と同じくですか?」
「同じく。……でもだからと言って誰彼構わず侵入されても迷惑だから、鶺鴒館を中心とした半径二キロメートルを実験場という名目で、軍事施設として登録してある。山中に張り巡らされたセンサーが侵入者を検知すると、賽原基地に通報される仕組みになってる」
「へー」
ほとんど雲の浮かんでいない青空は、見事なまでに快晴だったが、それでいて日差しは柔らかく、気温と湿度は落ち着いている。とても六月とは思えないほど快適で、麗らかな気候だった。
昼食のサンドイッチ、冷たい紅茶が入った水筒、それからマグカップなどの食器。
それらの荷物をすべてバスケットに詰め込んで、僕が手に持って運んでいた。
当初アリス様は、どうしてもそれを自分で持ちたいと言っていたけれど、あれこれと詰め込んだバスケットは、かなりの重量になってしまっている。
衝撃吸収用のクッションを使用しているけれど、割れ物も入っているので、万が一にも道中で転んだりしたら大参事は免れない。だからここは任せてほしいと何度も説得して、どうにか納得してもらったのである。
「小春、荷物重くない?」
僕の数歩前を歩いていたアリス様が、坂道の折り返し地点で立ち止まって振り向いた。
「へっちゃらです。アリス様こそ大丈夫ですか? 体調の変化とかは……」
「平気。今、すごく気分がいいから」
「よかった」
「…………」
鶺鴒館を出発して、ちょうど三十分。
僕らは予定通り、山頂に到着した。
「アリス様、山頂が見えました!」
「うん。あと、もう少し」
雑木林の立ち並ぶ山道を抜けると、そこは深緑の草原だった。
吹き抜ける爽やかな風を受けて、山の頂に青々と生い茂る草花が身を揺らし、涼しげな音色を奏でている。
山頂の外縁部には簡素な展望台が設けられ、そこから賽原市を一望することができた。
南の方角には相模湾が、南東の方角には賽原基地が存在し、鉄さびと瓦礫だらけの赤茶けた旧市街地が、眼下にどこまでも続いている。
「アリス様、あそこで休憩しませんか」
展望台から少し歩いたところには、白く塗装された西洋風のあずまやがあり、頑丈なベンチとテーブルが涼しげな日陰の中に備えつけられていた。
「そうしよう。お腹空いた」
「早めに食べてしまいましょうか?」
「うん」
風雨にさらされて少し汚れているけれど、こんなこともあろうかと、ウェットティッシュは携行している。これで汚れを拭き取れば、食事をする分には支障はないだろう。
ひと通りの拭き掃除を終えたテーブルの上に、バスケットから取り出したサンドイッチ入りのお弁当箱、水筒、食器類を順々に並べていく。
サンドイッチの具材は、王道のタマゴとハムだ。新鮮な生野菜が手に入れば、間にレタスとかトマトとかを挟んでもよかったかもしれないけれど、残念ながらそれは叶わなかった。
冷凍野菜でなら常備してあるけど、あれは解凍するとぐずぐずになってしまうし、生食には適していないのである。
「はい、どうぞ」
ちゃんと手を拭いてから、アリス様にサンドイッチを手渡した。
「いただきます。……小春、とってもおいしい」
最愛の人においしいと言ってもらえる。ただそれだけで、僕は満足だった。
穏やかな時間はゆったりと、しかしどこまでも残酷に過ぎ去っていく。
何気ない会話を続けつつ、山頂の風景を心行くまで堪能していると、いつの間にか日が大きく傾いていた。
どうやら、少しのんびりしすぎたかもしれない。
周囲が完全に暗くなる前には、鶺鴒館にたどり着いていなければならないので、実のところ時間的な余裕はすでにあまりない。僕らはやや慌てながら、空っぽの水筒や使い終わった食器類を片づけていった。
「小春」
「どうしました?」
「あれを見て」
軽くなったお弁当箱をバスケットに詰め込んでいると、アリス様は僕の背中をちょんちょんとつつき、それから南東の方角を指差した。
「?」
疑問に思いつつも、彼女の指差す方角に視線を向けた直後、眩い雷光が地上を一閃する。
おそらく賽原基地の敷地内において放たれたと思われるその光線は、青白く瞬きながら瞬時にして大空を串刺しにすると、大気圏外へと飛び去っていった。
「アリス様、あれは……」
「あの青白い閃光は、荷電した人工重金属粒子――KSP粒子特有の可視光線。地上から発射された荷電粒子ビームが、大気圏内においても完璧に直進し、減衰されることなく、宇宙空間にまで到達している」
「荷電粒子砲が使用されているということですか?」
「そういうことになる。かなり出力を上げないと、荷電粒子ビームは地磁気の影響を受けて、あのようには直進してくれない」
その時、僕の脳裏において、荷電粒子砲〝雷鳥〟を初めて実戦で使用した際の光景が、熱波と爆炎に彩られた鮮烈な記憶と共に再生された。
「雷鳥の出力は、どの程度になりますか?」
「チャージなしの通常発射でも、前世代の最大出力を二百パーセント上回る」
「二百……」
鉄筋コンクリート造の廃工場、違法改造の強力な銃火器で武装した犯罪者集団が立てこもる巨大な施設は、大幅に出力の制限された雷鳥の一撃によって、木っ端みじんに粉砕され、蒸発し、消滅した。
その何倍も強力な荷電粒子ビームが、賽原基地から上空に向けて投射されているのである。
基地周辺の大気が燃え尽きてしまわないか本気で心配だ。
「発射実験、ですかね?」
「まず間違いなく」
直後、青白い光の柱が再び大空を貫いた。
第二射、第三射と続き、そう間をおかずに第四射目が放たれた。
そのどれもが、大気圏内を地磁気の影響を諸共せずに直進している。
排熱機構に重篤な問題を抱え、連続発射が不可能だったはずの荷電粒子砲〝雷鳥〟が、最大出力に近い荷電粒子ビームを事もなげに乱射している。
それはつまり、従来の欠点がすべて克服されたことを意味していた。
アリス様が異界から持ち帰った室温超電導に関する技術が、電力損失をゼロにしたことで、膨大な電力を扱う際には必ず立ちはだかる排熱の問題を解決へと導いたのだろう。
この室温超電導技術の確立によって、来栖野式特二十型装甲義体〝アマツバメ〟は、本当の意味で完成したと言える。
ムクドリ型永久発電機構を搭載し、無尽蔵の電気エネルギーを扱えるにも関わらず、発熱の問題によってその機能を十分に生かせなかったアマツバメが、ついに長射程、高威力、そして広範囲を一度に攻撃可能な主砲を手にしたのである。
「…………」
僕は無意識にアリス様の手を握っていた。
あれがもっと早くを実用化されていれば、彼女を守り通すことができたのではないか?
今となっては取り返しのつかないことだと理解しつつも、あの日の自分の行動に雷鳥の性能を当てはめながら、どうにかしてアリス様を救う手立てはないものかと、無駄な思考実験を繰り返す。
しかし、賽原基地に潜入したキメラを事前にすべて見抜く手立てがない以上、アリス様を救う方法はなかったのだと結論が出た段階で、僕の頬を一筋の涙が流れ落ちていった。
「小春、大丈夫?」
「なんでもありません」
涙を強引に拭うと、これ以上彼女を心配させないために、今できる精一杯の笑顔を浮かべてみせた。
「帰りましょう、アリス様」
「……うん、帰ろう」




