3 ブレイクスルー
六月二日。
翌日になってもマコトは帰って来なかった。
現在の時刻は、午前十一時。そろそろ心配になってきたので、こちらから連絡を入れてみることにする。
「あ、マコト?」
《よう、小春。いったいどうしたんだ?》
「それはこっちのセリフですよ。マコトの方こそ、いったいどうしたんですか? 昨日帰って来なかったじゃないですか」
《ごめん。すっかり忘れてた。あははっ》
「もう、笑いごとじゃありませんからね」
《ごめんなさい》
声を聞く限り、どうやらマコトは元気そうだ。
とりあえず一安心と言ってよかったが、ひとつだけ気になることがある。
先ほどから音声に交じって、特徴的な駆動音が微かに聞こえているのである。
たしか、この音は……。
「マコト、もしかして渡り鳥を装備していませんか?」
《……あれ? 音声だけの通信でよくわかったじゃん。ああ、そっか。このモーターの駆動音を聞けば一発でわかるな。特に手足を動作させた時の音は、静かで綺麗な感じだけど、なんか独特だし》
「もしかして訓練中ですか?」
《訓練っていうか、実験の最中。小春は、特殊兵器開発室って知ってる?》
特殊兵器開発室……。たしかそれは、渡り鳥に搭載する兵装全般の開発を主目的とする研究者の集まりだった思う。戦略機動部隊と同じく、他の研究開発部門から独立した司令部直属の特殊な集団である。
「はい、知ってます。電磁流体装甲とか荷電粒子推進機構とかの装備面で、僕らが大変お世話になっている人たちが所属しているところですよね?」
《そうそう。昨日からぶっとうしで、そいつらの実験に付き合ってるんだ。飽きはしないけど徹夜だから眠くなってきた》
「それはなんというか、お疲れ様です。でも、どうして今更そんなに実験を?」
《ほら、俺がアリスから賽原基地に直接届けるように頼まれた書類があっただろ? あれには数百種類の数式が記されていて、そのどれもが、賽原基地で行われている重要度の高い研究を大きく前進させるものばかりだったらしい》
「そんなに凄いものだったのですか……」
《特殊兵器開発室の連中が言うには、あの数式のおかげで、人類の科学技術は一世紀ほど前進することになるんだと。室温での超電導や、人工的に特異点を生成することすら可能になるらしい》
「…………」
《おかげで賽原基地の各研究部門は、天地をひっくり返したみたいに大騒ぎになって、案の定もみくちゃにされて質問攻め。その質問には全部、来栖野有栖の遺品の中から見つけたって、何度も言い続けた。開放されるまでに、半日もかかったよ》
そう言いながらマコトは苦笑する。
まさに夢のような話だ。
室温での超電導が可能になれば、渡り鳥の遠距離武装である荷電粒子砲〝雷鳥〟を取り巻く諸問題が一挙に解決する。超電導により、電力損失がゼロになるためだ。つまり、荷電粒子砲の充放電によって、機体が異常に発熱する問題が完全に解消される。
最大出力での雷鳥の連続発射すらも可能となるだろう。
「室温超電導に、人工の特異点、もしそれを実現することができたら」
《ああ。ここから人類は逆転できるかもしれない。それがどんなに低い確率であったとしても少なくとも可能性はゼロじゃない。アリスから託されたあの数式が、俺たちの勝利する可能性をゼロパーセントから、ほんの少しだけ引き上げてくれたんだ。それがどれだけ凄いことか、小春にはわかるだろ?》
「もちろんですよ。あの人は、不可能を可能にしてくれたんです。本当の意味で人類を救った英雄は、アリス様ですよ」
もしも実際に、アリス様の数式によって人工的に特異点を生成することができるのならば、ついに異界への侵攻作戦が現実味を帯びてくる。いよいよ人類の反攻が開始されようとしていた。
「ところで話は変わりますけど、マコトは――」
いつ頃帰ってくる予定ですか? 僕がそう尋ねようとした矢先だった。
「小春ーっ。そろそろ時間、出発しよーっ」
「あ、はいっ! 今行きます」
ピクニック用の大きなバスケットを両手で重そうに抱えたアリス様が、エントランスの方から僕を呼んでいた。
《ん? 今のアリスの声だよな? 二人してどこかに出かけるのか?》
「これからピクニックに行くつもりです。今朝急に決まりまして、さっきまでずっとその準備をしていたんですよ」
《そっか、今日は天気もいいしな。……まあとにかく、アリスのことは任せたからな》
「任されました。また連絡します」
《ああ、またな》
マコトとの音声通信を終えると、途端に周囲が静まり返ったように感じられる。
鳥の声と、そよ風が木々を揺らす微かな音だけが、午前中の柔らかな日差しと共に鶺鴒館を包み込んでいた。




