2 オシドリ
一連の話し合いが終わった後、僕らは少し早めの昼食をとった。
たしか献立は手軽にパスタで済ませたはずなのだけど、正直なところ自分がカルボナーラを食べていたのか、それともボロネーゼを食べていたのかすらも、今となってはよく覚えていない。
気がつくと、時刻は午後四時。
僕は自室のベッドに腰かけて、夕焼けに色づいた中庭を呆然と眺めていた。
「……なにやっているんだ」
窓の外の夕焼けを眺めていると、ひさしく覚えることのなかった感情が、激しい怒りとなってふつふつと心の奥底から湧き上がってくるのを感じた。
もう半日も経ってしまった。
もう、半日も経ってしまったんだ。
アリス様に残された最後の時間を、半日も、無為に使い捨ててしまったんだ。
「なにをやっているんだっ! 僕はっ!」
――怒れ、怒れ。心を無にするな。
世界を憎め、人を憎め、身の不幸を憎め。
なんでもいい、感情の灯火だけは絶やすな。
心を無にした瞬間、時間は堰を切って流れ落ちてしまう。
この一分一秒を決して無駄にしてはいけないと、繰り返し心に刻みつけろ。
「……よしっ」
勢いよく立ち上がった僕は、そのまま鏡を覗き込んだ。
もう何日も前から、僕の右目は真っ黒な眼帯で覆われている。
特殊な金属繊維で編み上げられたこの眼帯は、非常に機能的ではあるけれど本来は戦闘時にのみ着用するべき代物である。戦場の空気を日常空間にまで持ち込むのはマナー違反だ。
そんな気遣いすらできないほどに、僕の精神は摩滅していたのだろう。
「今日は、これにしよう」
机の上の収納ケースから別の眼帯を取り出して、着用中の黒い眼帯と付け替えた。
鮮やかな群青色――ウルトラマリンブルーのその眼帯は、いつか特別な日にこそ、身に着けようと心に決めていたものだった。
本当は、こういう形でこの眼帯を着用したくはなかったのだけど、すでにそう悠長に構えてもいられない。残された時間はあまりにも短いのである。だから今日という一日を無駄にしないためにも、今こそこれを身に着けるべきだと決心した。
「んっ」
こうしてはいられない。
あとは行動するのみだ。
お風呂場を掃除、洗濯、夕食の仕込み、やるべきことがいっぱいある。
アリス様に少しでも快適な時間を過ごしてもらうためにも、溜まっている家事を早急に片づけてしまわなくては――。
「あ、小春」
「!」
廊下に出た途端、偶然にもアリス様と鉢合わせした。
「大丈夫? さっきは気分が悪そうだったから気になって様子を見に来たんだけど」
「もう大丈夫です。ひと休みしたら元気になりました」
「そう、よかった」
ぬぼーっとした上目遣いのアリス様は、口元で穏やかな微笑を浮かべていた。
本音を言えば、このままリビングでのんびりとお茶とお菓子を楽しみたいのだけど、残念ながら僕にはやるべきことが山積みだ。
あ、そうだ。マコトにも手伝ってもらおう。そうすれば半分の時間で終わるから、それだけ早くアリス様と一緒にお茶が楽しめるじゃないか。
「アリス様、マコトはどこにいますか?」
「もう鶺鴒館にはいない。お使いに行ってもらったから」
「え? お使い?」
はぁ、いつもこうだ。僕の目論見はじつにあっけなく破綻した。
「ついさっき、賽原基地まで書類の配達をお願いした。書類には極めて重量な数式が記されている。機密保持の観点から、手の空いているマコトにしか配達を頼めなかった」
……書類。それって今日の午前中に、アリス様が大切に抱えていた紐付き封筒の中身ではないだろうか。
「私がキメラになったことが広く知られてしまえば、賽原基地の士気に関わる。だからマコトにも、書類の出どころを尋ねられた際には〝遺品整理を行っていたら偶然発見した〟と伝えるように言い含めてある。とにかくそういうわけでマコトはいない。急ぎの用事があるのなら、すぐに呼び戻すけど……」
「いえ、違います! とっても個人的な用事ですから。マコトには、そちらの任務を最優先で当たらせてください」
「わかった」
「あの、それじゃあ僕はこれで……。お風呂場の掃除をしないといけませんから」
「ん。小春、いつもありがとう」
「はいっ、行ってきます」
こうして声援も貰ったことだし、今はとにかく掃除を頑張ろう!
かつてないくらい僕は張り切っていた。アリス様に向けて笑顔で手を振って、ひと時の別れを惜しみつつも、一分一秒でも長く彼女との大切な時間を過ごすために、駆け足でこの場から立ち去ろうとして――唐突に、立ち止まった。
「?」
そんな挙動不審の僕を無言で眺めながら、アリス様は不思議そうに首をかしげていた。
「…………」
「小春?」
何度言わせるんだ!
なぜ同じミスを繰り返す!
もう一分一秒だって無駄にはできないんだ!
「アリス様、そのまま、そのままそこに居てください。すぐに戻りますから」
「? よくわからないけど、わかった」
僕は異常なほどの心臓の高鳴りを感じながら、執拗にここを動かないでくださいとアリス様にお願いすると自室へと飛び込み、大慌てで探し回った。
「どこだ、どこに仕舞い込んだ」
どうしよう、昨日の夜からの記憶が曖昧だ。まったく役に立たない、なんてポンコツな記憶回路なんだっ! 僕は〝あれ〟をどこにやったんだっ!?
仕方がない。こうなれば虱潰しだ。
ベッドの上、枕元のサイドテーブルの上、机の上。……見当たらない。
「落ち着け。捨ててはいないから、絶対にある」
机の引出し、クローゼットの中、軍服のポケット。……ない。
まさか、ベッドの下に……。
「あった!」
ほこり塗れになろうが構いやしない。
体を伏せると、床に顔を押しつつベッドの下に手を伸ばす。
発見したケースを掴んで引き寄せ、床にぺたんと座ったまま恐る恐る蓋を開けると、そこにはちゃんと目的の婚約指輪が入っていた。こぼれ落ちそうになるため息を飲み込んで、急いで鏡の前に立ち、頭髪や衣服に付着したほこりを取り払っていく。
「……断られたらどうしよう」
もしかしたら僕は今、第七次討伐作戦の時よりも緊張しているかもしれない。
心臓の鼓動がより大きく、速くなる。脈拍は百五十を超えていた。
ただ、ここまで忠実に生理現象を再現されても鬱陶しいだけだったので、疑似心臓の脈拍は強制的に三割ほど低下させた。
「いや、違うな。別に断られてもいいんだ。……本当はよくないけど、それでも、断られてもいいんだ」
自分の思いを正直に告白しよう。
うじうじと悩むくらいなら、当たって砕けてしまえばいい。
覚悟なら、とっくにできている。今更なにを悩む必要があるっていうんだ。
僕はケースを握りしめて、部屋を出る。
廊下ではアリス様が待っていてくれていた。いざ彼女の前にすると立ち竦んでしまいそうになるが、当然そんな情けない姿は見せられない。
「…………」
「どうしたの?」
僕は愛する人の目の前で、ゆっくりとケースを開けて、婚約指輪を差し出した。
「結婚してください」
「!」
普段から表情の変化が乏しいアリス様ですら、青い輝きを放つサファイアの指輪を前にして目を丸くしていた。今回ばかりは、その理解しやすいリアクションが有り難かった。
これで無言かつ無表情のまま、どこか不機嫌そうに指輪だけをぼーっと凝視されていたら、僕はきっと泣き出していただろう。
「……小春、それは冗談?」
「決して冗談ではありません。結婚してください」
「…………」
「あなたの時間を僕にください」
真横に切りそろえられた濡れ羽色の前髪、その奥で瑠璃色の瞳が涙に濡れていた。
「だめ」
「どうしてですか?」
「私はもう人間じゃない」
「関係ありません」
「あなたは何もわかっていない。私に残された時間は本当に残りわずか。今後、数日のうちに人間としての意識は失われ、身も心もキメラへと変化していく。化け物になっていく。私は、あのおぞましい人類の敵になる」
「何度でも言います、関係ありませんっ!」
「――っ!」
「アリス様は、アリス様です。あなたのことが、僕は大好きなんです。だから結婚したいんですよ!」
「……だめ」
「アリス様は僕のことが嫌いですか?」
「嫌いなわけないっ!」
自分でも卑怯な質問だと思うけれど、それだけに効果は絶大だった。
声を荒げて否定するアリス様を見て、僕はそれを確信する。
「それなら、この指輪を受け取ってくれますか?」
「だめ、受け取れない」
「どうしてですか?」
「小春は本当にわかってるの? 結婚しても、その生活は長くは続かない。せいぜい数日で終わってしまう」
「はい」
「私はキメラで、もう人間じゃない。……人類の敵、そのもの」
「はい」
「本当にいいの? 後悔しない?」
「後悔はしません。この決断は正しかったと、何年たっても言い続けます」
だから、結婚してください。何度断られようと、ここで僕は諦めるつもりはなかった。
「……っ」
ぎゅっと両目を瞑ったアリス様の頬を、一粒の涙が伝い落ちていく。
「でも、いつか必ず。あなたは私のことを憎んで、軽蔑すると思う」
「まさか。そんなことありえませんよ。僕は絶対に、あなたを軽蔑なんてしません」
「私は、傲慢で嫉妬深い、バカで、人でなしの、外道だから」
「アリス様は素敵な人です」
「違う、私は……」
「違いません!」
「…………」
アリス様は、それ以降なにも言わなかった。
口を固く噤んだまま肩を落とし、その小さな体を震わせている。
流れ落ちた大粒の涙が床を濡らしているのに気づいた時、僕は反射的に彼女を抱きしめようとしたが、結局そうはしなかった。ゆっくりと前方から延びてきた白い指先が、指輪に優しく触れていたのだ。
それは、触れた瞬間に目の前の指輪が消えてしまうのではないかと、心の底から恐れているかのような手つきだった。
「小春」
「はい、アリス様」
「結婚する前に、ひとつだけ、約束してほしいことがある」
「なんですか?」
「――キメラを殺して」
「!」
思わず息を飲んだ。涙に濡れた瑠璃色の瞳の奥に、正も負も合わせた様々な感情が、色鮮やかに蘇っていた。血色が格段に良くなり、その表情からは、死期を悟った猫のような弱々しさが消えていた。
感情の火が灯っていたのだ。
「絶対に、すべてのキメラを殺し尽して。あんなものは存在してはならない」
「…………」
「必ず、全地球上のすべてのキメラを絶滅させる。……そう誓ってくれるのなら、私はあなたと結婚する」
この火を絶やしてはならない。
その一心で、僕は――。
「誓います」
「……ありがとう」
我ながら、無謀極まりない誓いを立てたものだと思う。
でも後悔はしない。誓いを破る気など一切ない。
僕は絶対に、全地球上からキメラを一掃する。どれだけ時間を費やそうとも、必ずやり遂げてみせる。きっとそれが、将来の自分にとっての、数少ない生きがいになるのだから。
「アリス様、左手を前に出してください」
「ん」
遂にケースから取り出した婚約指輪を左手の薬指へと近づける。
指輪を持った自分の指先だけでなく、彼女の指先も自然と震えていた。
「……うう」
「…………」
相手の薬指に指輪を通すだけの単純な動作であるにも関わらず、張り巡らされた十重二十重の敵弾幕をすり抜けるのと同様に神経をすり減らし、驚くほどの集中力を要した。
万が一、サイズが合わなかったらどうしよう。
一瞬、そんな懸念が脳裏をよぎったが、まったくの杞憂に終わった。
指輪はぴったりだった。緩くもなく、きつくもない。
指のサイズは、以前隠れてこっそりと計測した時と寸分も違わない。
室内の明かりだけでも、鮮烈な輝きを放つ最高品質のサファイアが、アリス様の指元を上品に彩っていた。
「……綺麗」
「気に入ってくれましたか?」
「とても。ありがとう、小春。……あなた」
「――っ!」
あ、あなた……。
「変? それなら、……夫?」
「――っ!?」
お、おっと……。
「だめ? でも、これで私たちは夫婦だし、こう呼んでも問題はないはずだけど」
「え、えっと、アリス様の好きなように呼んでくれれば、僕はそれで構いませんから」
「わかった。……小春」
「はい、……あっ」
甘い笑みを浮かべたアリス様は、僕の頬に手を添えると、両足の踵を上げて精一杯の背伸びをする。僕らは自然と身を寄せ合い、唇を重ねていた。
「なんだか、夢みたい」
「僕もです」
ああ。この幸せな時間が、明日も明後日も、いつまでもずーっと続けばいいのに。
それが決して叶うことのない願いだと理解しつつも、もしかしたら、と考えずにはいられない。もしかしたら、このままアリス様がキメラに変容することなく、幸せな生活がいつまでも続いていくのではないか。そういった希望が、どうしても捨て切れない。
僕らに残された時間は、あと数日。
その残酷な現実を、僕は未だに受け入れられていないのかもしれない。




