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槍使いと、黒猫。  作者: 健康


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二千二百十七話 イル・メラフィーラの還りと血脈ノ銘玉


 黒豹(ロロ)がトコトコと歩く。

 漆黒の毛並みを波打たせイルメラの真横で消えかかっている半透明な足に歩み寄った。


「……こちらです、シュウヤ様とロロ様」

「にゃご――」


 四肢の関節を沈み込ませた黒豹(ロロ)は太い前足をそっと差し伸べ、イルメラの今にも霧散しそうな幻影の足首に温かい肉球を重ねるように触れようとした。


「ふふ、止めても無理ですよ、ここはどうやら、私の魂と血肉も使われている罠の世界……<偽鏡血肉核>でしょう。ヴェデルアモボロフが私に仕込んでいた……ですから、神獣ロロ様もついてきてください」

「……にゃ」


 黒豹(ロロ)はそれでも触手を伸ばしたが、橙色の魔力がイルメラの周囲に集まっていた漆黒の魔力を消し飛ばすだけで、体はすり抜ける。


 幻影のイルメラは、「行きます」と、不氣味に歪む肉の回廊の先を進み始めた。

 その案内は決して無傷で済むものではなかった。

 突然、彼女の足下と横の通路が爆発した。仕掛けられたヴェデルアモボロフの罠か。幻影のイルメラの体が一瞬消えるが、復活する。そして、振り向き、会釈し、


「これからの罠解除は大丈夫です。すべては私が行う。あいつもまさか、私がこれを――」


 と、発言し、腕を振るうと、一瞬だけ体が煌めき、斜め前の天井の血肉が爆発し、その爆発が廊下へ地続きに連動していく。

 体が余計に薄まったイルメラは「ふふ!」と楽しそうに振り返り、「さぁ、行きましょう!」と発言し、また振り返り、また先を進む。

 イルメラが身を挺して血肉の回廊に仕掛けられた罠の術式を中和するたび、乾いた硝子が激しく擦れ合うような耳障りなノイズが響き、彼女の幻影の右腕が、そして引きずっていた左足が、細かな光の破片となってパラパラと虚空へ崩れ落ちていく。そのたびに、大氣に焦げ付いた鉄と冷たい魔力の不快な匂いが立ち昇った。


「イルメラ、もういい! これ以上罠に触れれば、お前の魂そのものが削り切られるぞ!」


 左手に握った神槍ガンジスの双月刃から、神魔石の青白い脈動を宿した<縫合・神威糸>をそっと紡ぎ出し、崩れゆく彼女の魂の輪郭を包み込むように這わせた。


 <縫合(アハシュムロン)()(スートラ)>。


「いけません、シュウヤ様! 糸を引いてください!」


 イルメラは残った片腕で俺の糸を拒絶し、振り返りる。

 悲痛だが、確固たる決意に満ちた笑みを浮かべていた。


「……神座のことはまだ分かりませんが、今、こうして光魔ルシヴァル側として魂が保てているのは、シュウヤ様の愛のある行為のおかげです。しかし、それもわずかの間だけと分かる……だから、私を助けてくれるのなら、私を止めないで」

「……分かった」

「にゃ」

「ん、……イルメラの覚悟、痛いほど伝わる。だから、私たちは見届ける」


 エヴァが、紫の瞳に強い決意を宿し魔導車椅子の上で小さく頷いた。

 ユイも無言で剣の柄を握り直し、皆の氣が一つに引き締まる。


「……うん」


 皆も納得。


「ありがとう。私は、あの男に肉体も尊厳もすべて奪われました。ですが、この魂の最後の一欠片だけは……私の意志で使いたいのです。それに、長年、あの男の足元で這いつくばっていた私だからこそ、分かる弱点があります……」

「ヴェデルアモボロフの弱点か……」

「はい。この<偽鏡血肉核>の最深部には、ヴェデルアモボロフがリヴォグラフ様にも隠し持っている『裏の魔力貯蔵庫』――彼自身のスペアの心臓が隠されています。そして……その更に奥に、あの男が真に秘匿していた『核』があります。それを破壊すれば、あの男に致命的な打撃を与えられる……!」

「真に秘匿していた核の破壊か」

「はい……あの男は、闇神リヴォグラフ様にすら隠し持っている、ある『裏の野心』の予備を持ちます。それがその奥に。詳しくは……魂を散らさねば暴けません。ですが、それを破壊できれば、あの男は政治的にも詰みます」


 その言葉と共に彼女の体が更に薄く透けてしまった。


「イルメラ……お前、そのために……」

「さあ、急いで! 私の魂が完全に尽きる前に! ……あ、シュウヤ様。一つだけ、お願いがあります。私の魂が散ったあと、もし何か小さな欠片が残ったなら……どうか、それをコバトトアルの北の片隅の場所へ……」

「分かった。お前の意志、必ず遂げる」


 糸を切らず引き戻さず、ただ彼女の歩みに寄り添うように<縫合・神威糸>を緩めた。<<縫合(アハシュムロン)()(スートラ)>を発動。


 糸は彼女の魂を繋ぎ止めるのではなく、散る瞬間の形を保たせることを意識した。


 最低限の縫合――。

 母上アハシュムロン様の縫合の法、「繋ぐ」と「解く」を同時に行う理が、彼女の覚悟を尊重しながら、最後の役目を果たすまでの猶予だけを与える。


「ご主人様、これは……」

「あぁ。イルメラの意志を消さずに、できるだけ、俺たちの側で受け取る。それが俺が喰らった母上の縫合の法で、光魔ルシヴァルのできる仕事だ」


 ヴィーネが、〝星見の眼帯〟の奥で、悲しげに頷いた。

 エヴァとユイとキュベラスたちも頷いた。

 ラムーはいたるところに霊魔宝箱鑑定杖を翳し鑑定している。

 エトアは<罠鍵解除・極>を使い罠があれば解除をしていった。


 血肉の螺旋状の坂道を下る。

 この異空間ダンジョン、<偽鏡血肉核>は、ヴェデルアモボロフとイルメラの体を元に構成されている?


 イルメラの体に、血肉が引き寄せれ一瞬、体を得るが、それは光魔ルシヴァルの<血魔力>が含んだ<縫合(アハシュムロン)()(スートラ)>によりすぐに蒸発していく。


「にゃおぉ」


 相棒も飛来してきた血肉に触手骨剣を衝突させて、霧散させていく。



 ◇◇◇◇



「着きました。あの心臓と箱です。それを破壊しましょう」


 最深部に鎮座していたのは、数万の魔族の悲鳴を凝縮して固めたかのように、ドクン、ドクンと悍ましい重低音を響かせて脈打つ『深紅の心臓』だった。


 その肉壁の表面には、ヴェデルアモボロフの毒々しい肉腫に似た脈管が這い回っている。影の奥底、光すら吸い込むような絶対的な闇の中に、ひっそりと浮かぶ漆黒の小さな(はこ)があった。それ自体がリヴォグラフの冷酷な神威をかすかに放ちつつも、どこか不協和音を奏でている。


 右手に召喚した無名無礼の魔槍の柄から、梵字『バイ・ベイ』が黄金色に強く煌めき、蜻蛉切的な穂先から墨色の炎が噴出し、その墨色の炎の中から鬼の仮面を模したナナシの意志体の影が出現した。


『主、見ろ。あれは真の主君たるリヴォグラフすら欺いて隠していた「秘匿の核」……極上の魔神具の一つだぞ』


 と、渋い念話を寄越す。


『魔神具か、かなりの代物』

『あぁ、闇神リヴォグラフの神格の写し取り器、あるいは別主君への鞍替え用の供物――裏切りの種だな。あれを失えば、リヴォグラフからも完全に疑われる代物のはず。しかし、あのイルメラ、己の存在すべてをかけて、ここまで俺たちを……想像を絶するぞ……』


 ナナシの低い声に同意した。

 すると、深紅の心臓を守護するようにモンスターが生まれた。


「「グォォォ」」

「「ギュォォォ」」


「鏡面魔獣です、皆様、倒して!」


 イルメラの叫びと同時に、鏡のように滑らかな皮膚を持つ異形の魔獣群が、鋭い爪を光らせて襲いかかってきた。

 <夜行ノ槍業・召喚・八咫角>を送り数十とした魔獣を押しだし、右の魔獣に魔槍杖バルドークを<投擲>、左から飛び掛かってきた魔獣の群れに<神樹ノ領域>を浴びせ、宙空で一度に五体の魔獣を塵状に霧散させた。


「にゃごぉぉ!」

 

 黒豹(ロロ)が橙色の神炎を爪に纏わせて先頭の魔獣を地面へと叩きつけ、強固に縫い止める。

 座にユイが白銀の残像を引くような神速で踏み込み、イギル・ヴァイスナーの双剣を振るい、二頭の首を滑らかに両断した。次の魔獣も横に蹴り跳ばし、そのまま次の魔獣に肉薄し、<白炎一ノ太刀>を繰り出す。冴え渡る剣閃で斜めに魔獣を両断した。

 後方にいたヴィーネは翡翠の蛇弓を引き絞り、位相を揃えた光線の矢を三連射して、残る魔獣の関節部を正確無比に粉砕し、ユイが蹴り飛ばした魔獣を、ガドリセスに零コンマ数秒で持ち替え、逆袈裟で斜め上へと両断して倒す。

 

 フォローに<鎖>で異形の魔獣の片足を貫き、転倒させる。


 エヴァの<霊血導超念力>が起動し、空間に展開された白皇鋼(ホワイトタングーン)の幾何学的な盾の群れが瞬時に組み換わり、絶対質量の螺旋槍となって滑り込み、魔獣の本体を岩盤ごと完璧に縫い止め、圧殺した。


「シュウヤ様……今です、箱ごと中身を破壊して!」


 イルメラの幻影が、最後の力を振り絞って深紅の心臓の防御結界に取り付き、自らの魂を相殺させて結界を中和していく。


 彼女の体が、光の塵となって空間に溶け始めていた。


「了解した」


 <握吸>を強めて魔槍杖バルドークを引く。

 そのまま<雷炎縮地>で加速し、<魔皇・無閃>――。

 ガラ空きになった箱ごと、深紅の心臓を両断した。


 ドッ、鈍い音が響く。

 ヴェデルアモボロフの隠し財産たる魔力が暴走し、偽りの鏡面世界が崩壊を始めた。


 ――だが、まだ終わりではない。

 奥に浮かぶ漆黒の匣――秘匿の核も真っ二つにされているが、されたまま宙空で上下に分かれたまま浮いている。

 

 深紅の心臓の崩壊にも揺らがず、ただ静かに脈打っていた。


「シュウヤ様、大丈夫。最期は私が倒します。ヴェデルアモボロフに一撃を与えたい、お母さん、お父さん、お爺ちゃん、お婆ちゃん、ルルア、モイトス……」


 崩れゆくイルメラが、最後の一歩を踏み出した。


「イルメラ……」

「お止めにならないで、シュウヤ様。あれは、あの男の魂の最も深い場所に繋がっています。光魔の理、複数の神座を得ている中級神に近い貴方様が、触れたら、外側が先に反応し、蒸発してしまう。そうしたらヴェデルアモボロフの内部まで完璧に破壊はできない。触れられない。あいつはそれを見越している……悔しいですが、この<偽鏡血肉核>も、本人たちから外に差し向ける陽動……ですが、今、奴隷だった私の崩れかけた闇をも内包されている魂だからこそ……あの腐っている<闇の血魔力>が匣の中まで届くのです!」


 と強く語ると微笑んだ。

 奴隷ではない、ただの一人の魔族の女としてか……。


「…………私が、あの男の野心を終わらせます。ふふ、今、生きていて……あ、私はもう生きてはいないのでしたね。でも、不思議です。数千年の隷属の果てに、今、こうして自分の意志で魂を散らせることが、最高に愛おしくて、楽しい……。光魔ルシヴァルに、シュウヤ様に出会えて、本当に良かった」


 彼女の幻影の片目から、熱い涙が一条、光の粒子となって零れ落ちる。


「あぁ、俺もだ。お前はもう奴隷じゃない。イル・メラフィーラ、お前は俺の仲間だ。俺たち光魔ルシヴァルの、誇り高き選ばれし眷属だ」

「……ふふ、ありがとう――」


 散りゆく魂の最後の一欠片が、銀色の光となって漆黒の匣に飛び込んだ。

 刹那、匣が内から弾けた。

 膨大な量の漆黒の煙が噴出し、爆発を繰り返していくと、空間ごと塵と化し始めた。

 

 刹那――視界が切り替わる。

 <縫合の理>でイルメラと繋がっていた糸を通じたか――。

 


◇◆◇◆


 

 最初に視えたのは、紅薔薇に囲まれた小さな村。

 ここはどこだろう。ライムランの結晶雲が遠くに見えるから大平原コバトトアルどこかか、北の片隅かな。湧き水が一筋流れ、青い薄霜の苔が地を覆い、七色の小さな魔素霊蝶が舞う、ささやかで美しい風景。


 村の魔族たちは、皆、美しい紅い紋様を肌に纏っていた。

 子供たちが笑い、老人が薔薇の蜜を煮詰め、若者が湧き水を汲んでいた。

 その全員が、イルメラと同じ、切れ上がった双眸と、美しい紅い紋様を持っていた。


『私たちは――紅薔薇紋族(ベニバラモンぞく)

 コバトトアルの片隅に咲いた、ささやかな一族でした』


 イルメラの声が、銀翠の彼方から響いた。

 彼女の魂の最深部に眠っていた記憶が、幻視として全員に共有されているのが分かる。


 幻視が、突然、深紅に染まる。

 ヴェデルアモボロフの巨躯が村を覆った。

 深紅の触手と肉の門が村を呑み込み、紅薔薇は踏み躙られ、湧き水は血で染まり、七色の蝶は灰になって散った。


 子供も、老人も、若者も――一人残らず、屠殺された。


『お前たちの紅い紋様は、美しい。我が標本に欲しい』


 ヴェデルの冷たい声が、虐殺の中に響いていた。


 ただ一人。最も鮮やかな紋様を持ち、最も鋭い知性を持ち、儀式術の素養を備えた少女だけが深紅の手に掬い上げられた。


『お前は……使える。我が、お前の本名を奪う。今日からお前は「イルメラ」だ』


 少女の本名――イル・メラフィーラ(イルメラフィーラ)

「紅薔薇の精」を意味する一族の名は、その日、闇に沈んだ。


 幻視が、長い長い隷属の年月を駆け抜けた数千年。

 その途方もない時間の中で彼女は何度も逃げようとし、何度も折られた。

 手足の腱を切られ、紋様を焼かれ、魂の経絡を歪められ、何度も何度も修復され、また使われた。


 最終的に従うしかないと心が諦めた時、彼女は心の奥底で、ただ一つだけ祈り続けた。


『いつか、せめて……故郷の土に、一握りの薔薇が、咲きますように』


 数千年の祈り。誰にも届かないと思っていた祈り。

 幻視が消える。散り際のイルメラの瞳から、初めて――喜びの涙が一筋、零れた。


『私の本当の名は……イル・メラフィーラ(イルメラフィーラ)……紅薔薇紋族(ベニバラモンぞく)の最後の生き残り……シュウヤ様、皆様……どうか、故郷の地へ……一度だけ……』


 声が銀翠の風に溶けていった。


「……あぁ。連れて帰る。お前の故郷へ、必ず」


 手のひらには、最後の小さな光の種のような物があった。

 

「ん、それは……イルメラの?」

「あぁ」

「「……」」

「ラムー、鑑定を頼む」

「はい……。名は、魂の種子……うぅ、あの、申し訳ありません……」


 いつも以上にくぐもった、涙声で短く語った。

 彼女は自身の『霊魔宝箱鑑定杖』を胸に抱きしめ、何度も兜越しの目元を拭っている。


 その温かい光を放つ『魂の種子』を、壊れ物を扱うように両手で優しく包み込んだ。

 拳全体がアハシュムロン様の温かい銀翠の光に包まれ、心地よい微熱が走る。


 ゆっくりと手のひらを開くと種子は美しく結晶化し、赤紫色の神秘的な光を宿す珠へと形を変えていた。


「シュウヤ様、名が変化しました。……『血脈ノ銘玉けつみゃくのめいぎょく』です。一族の血脈の記憶を、その内に完全な形で保存した神聖なる結晶……」

「……なるほど」


 透明な赤紫の小さな珠。

 血脈ノ銘玉けつみゃくのめいぎょくか。


「場所が、イル・メラフィーラの故郷、大平原コバトトアルの北に近い場所です」

 

 ラムーの言葉に皆が頷いた。

 

 結晶化した銘玉の中に、薔薇の精霊のようなイル・メラフィーラの面影がうっすらと浮かんでいた。銘玉はかすかに脈動し、ひとつの方角を指し示している。

 コバトトアルの北の片隅、彼女の故郷の地――。


 血脈ノ銘玉けつみゃくのめいぎょくを見ながら、


「……お前はもう奴の奴隷じゃない。……イル・メラフィーラ。約束する、必ず故郷へ連れて帰る」


 手のひらの銘玉が、こくり、と頷いたような氣がした。

 そこで、


「キュベラス!」

「はい! <異界の門>、開きます!」


 俺たちは徐々に崩壊する偽りの鏡面世界から、キュベラスの<異界の門>へと飛び込んだ。



 ◇◆◇◆


 ――同時刻。魔界の深奥、【闇神リヴォグラフの絶魔殿】。


 闇神ハデスを幾星霜と磔にしている巨大な闇神柱が聳え立つ大広間。

 その奥で、三面六臂の異形の神へと変貌した闇神リヴォグラフが、玉座から眼下の大眷属たちを見下ろしていた。


「『……ウアンの星脈石と闘神の血鉱を用いた儀式は成り、神魔山シャドクシャリーの残響を通じて、神界セウロスへの逆侵攻の道は完全に開かれた。神界戦神ヴァイス一派の防衛線を一つ喰い破り、神界に我らの楔を打ち込んだ戦果は大きい』」


 闇賢老バシトルターゼが恭しく頭を垂れる。


「ハッ。神界の光に我ら魔界の闇の毒を注ぎ込む、また一つ重要な橋頭堡を得た。これもすべてはリヴォグラフ様の偉大なる御威光の賜物」

「『ヴェデルアモボロフよ。コバトトアル中央の魔皇碑石の最深核――儀式の起点の防衛に抜かりはないな? 光魔ルシヴァルの羽虫どもが、我らの神域を嗅ぎ回っているようだが』」


 闇神リヴォグラフの三面六臂の異形から、大氣を物理的に圧迫する絶対的な神威が放たれる。

 深紅の大魔公爵ヴェデルアモボロフは、肉腫の浮き出た太ましい顔に醜悪な自信を漲らせ、一歩前へ出た。


「ご安心を。我が周到に配置した<偽鏡血肉核>の罠に、奴らはすでに囚われております。光魔の槍使いなど、我が手の平の上で転がすだけの泥人形。いずれ絶望の肉塊へと――」


 ヴェデルアモボロフがそう豪語した、まさにその刹那だった。


 ――ドクンッ!

 彼の巨躯が、まるで目に見えぬ巨人に心臓を直接握り潰されたかのように、激しく跳ね上がった。顔面から血の氣が失せ、太ましい体が痙攣を起こす。

 彼の胸の奥で、何かが致命的に破裂したような鈍い音が、絶魔殿の静寂に響いた。


「ゴ、ブッ……ゲァァァァァァッ!!」


 ヴェデルアモボロフは目を見開き、両手で自らの胸を掻きむしりながら、口から大量のどす黒い血と肉片を玉座の間に盛大に撒き散らした。

 ドサリと、無敵を誇った大魔公爵がリヴォグラフの御前で無様に膝を突き、自らの吐瀉物と血の海の中で咳き込む。


「な、なぜだ……!? 私が隠していた、力の、核が……もしや……」


 言葉が途切れ、ヴェデルの双眸が大きく見開かれた。

 もう一つ、何かが砕けた感覚。

 深紅の心臓のスペアだけではない――その奥の、漆黒の匣まで。


「ま、まさか……あの匣の中の、闇神リヴォグラフ様にすら、私が……っ」


 ヴェデルの太い指が、自分の口を塞ぐように上がった。

 しかし、もう遅い。


 数千年前――紅薔薇紋族(ベニバラモンぞく)の最後の生き残りとして残した、あの優秀な奴隷。優秀すぎて惜しんだあの女が、数千年の祈りの末に、私の最も深い裏切りの種まで、根こそぎ持ち去ったというのか。


 バシトルターゼら他の大眷属たちが、信じられないものを見る目でヴェデルを見下ろす。


「『……ヴェデルアモボロフ』」


 リヴォグラフの三つの顔の眼球が一斉に動き、這いつくばる大魔公爵を、文字通り塵芥を見下ろすような極寒の視線で射抜いた。


「『新しき神界侵攻の吉報を祝う我の御前で、そのような醜態。手の平の上で踊っていたのは、貴様の方ではないのか? ……そして、貴様の胸の奥で、もう一つ、不愉快な裏切りの音が聞こえたな。あれは、何の音だ?』」


「も、申し訳、ございませ、ぬ……ゴハッ!」


 神の冷徹な殺気を浴びながら、ヴェデルアモボロフは再び大量の血を吐く。

 絶頂から突き落とされた底知れぬ屈辱と、リヴォグラフからの疑念の眼差し――両方が、深紅の大魔公爵の魂をどす黒く焦がしていた。



 ◇◆◇◆



 砂城タータイムと大厖魔街異獣ボベルファに戻ったが、もう戦いは終わっていた。

 そして、戦場の喧騒が遠のいた、その夜。

 相棒、ミトン、ユイ、ヴィーネ、エヴァ、ザンクワ、レベッカ、ジェンナを連れて、コバトトアルの北の片隅へ向かった。

 ――血脈ノ銘玉が指し示す、荒れ果てた小さな窪地。

 もう何千年も、誰も訪れていない場所。


 風が冷たく、地は乾ききっていた。ヴェデルアモボロフたちが起こした蹂躙の痕跡すら、もう風化して見えない。ただ、土の下に眠る記憶だけが、銘玉に呼応してかすかに脈動していた。


「ここが、紅薔薇紋族の――」


 ザンクワの声が、震えていた。

 彼女自身、鬼魔人の祖の祭祀長グルザンの頭蓋骨を抱いた日のことを、思い出しているのだろう。ジェンナも同じく、仙花姫リリィヤの銀冠を抱いた時のことを。


 根絶やしの民の系譜。

 二人もまた、そうだった。


 地面の中央に、銘玉をそっと置いた。


 刹那――銘玉が、淡い銀翠の光に包まれて砕ける。

 砕けた粒の中から、紅い光糸が地中へと潜り、長い眠りについていた紅薔薇紋族(ベニバラモンぞく)の血脈の記憶が、ゆっくりと目を覚ました。


 乾いた荒野の土の中央から一輪の紅薔薇が、音もなく滑らかに茎を伸ばし、大氣に甘い香りを振り撒きながら開花した。

 それはヴェデルアモボロフの血のような深紅ではない。イル・メラフィーラの肌に刻まれていた紋様と同じ、優しくも凛とした、芯の通った紅色の薔薇。


 その足元から、ひんやりとした冷気を帯びた青い薄霜の苔が畳一畳分の範囲へ向けて、さざ波のようにゆっくりと広がっていく。

 どこからともなく、七色の淡い光を放つ極小の魔素霊蝶たちが集まり、薔薇の花弁の周りを、まるで彼女の帰還を歓迎するように優雅に舞い始めた。


 そして――小庭全体に薄い銀翠の光膜が星屑のように降り積もる。

 織神アハシュムロン様の母性の理が彼女の故郷を、もう一度抱き直した印だった。


 ミトリ・ミトンは、銀緑色の美しい瞳を大きく震わせ、吸い寄せられるようにその紅薔薇へ近づいた。

 彼女は四つの腕のうち三つを胸の前で交差させ、かつてホークに壊されかけた左下腕の壊れた人形のような腕を、壊れ物に触れるように優しく薔薇に向けて伸ばす。


「お姉さま……ここが、お家、なのですね……」


 頬を大粒の銀翠の涙が静かに伝う。

 薔薇の葉の上に落ちて、光の粒となって弾けた。


 数千年の間、家族の温もりを一切知らぬまま奴隷として散ったイル・メラフィーラ。

 二千年の間、家族の温もりを知らぬまま『現象』として産み落とされたミトリ・ミトン。異なる時間を生きた二人の孤独な魂が、シュウヤの『還』の理によって、今、この小さな庭の中で、確かに家族として縫い合わされ、出会うことができた。


「お姉さま……三十八番目の、わたくしの、お姉さま……ようこそ、家族に……」


 ミトンの細い指先が紅薔薇の花弁をそっと撫でる。

 薔薇が、一度だけ、こくりと頷いた気がした。


 ザンクワとジェンナも、深く頭を垂れた。


「『紅薔薇紋族』……我ら鬼魔人と仙妖魔と同じ、根絶やしの民……」


 ザンクワが、低く呟いた。


「シュウヤ様。あなたは、また一つ、奪われた一族の故郷を、ほんのわずかでも、取り戻してくださった」


 ジェンナも頷いて、


「この小庭が、あの一族が確かに存在した、ただ一つの墓碑となりましょう」


 その言葉に、ただ頷いた。

 大した範囲ではない。コバトトアルの広大な大平原の中で、わずか畳一畳分だろうか。だが、ヴェデルアモボロフが数千年かけて消し去ろうとした一族の記憶が、この地に、確かに帰ってきた。風が吹く、<砂漠風皇ゴルディクス・イーフォスの縁>の魔猫が漂ってから宙空に飛翔して消えた。


 紅薔薇が、もう一度、こくりと頷いた氣がした。


 イル・メラフィーラ――紅薔薇紋族(ベニバラモンぞく)の最後の生き残りは、数千年の苦しみを経て、ようやく家に帰った。もう奴の奴隷ではない。

 ミトンの三十八番目の姉として故郷の小さな庭の薔薇として、銀翠の母性循環の中で、安らかに眠る。


 ヴィーネが、〝星見の眼帯〟の奥の瞳を潤ませながら、静かに呟いた。


「……ご主人様。これが、母上アハシュムロン様の縫合の法の、本当の意味なのですね」


 あぁ、と頷いた。


 「繋ぐ」と「解く」を同時に行うこの理は、敵を倒すためのものではない。

 散ろうとする魂を、あるべき場所へ縫い止めるためのものだ。

 奪われた記憶を、土に還すためのもの。


 俺の神座に組み込まれた母上の理は、今、初めて、その本当の姿を見せたのかもしれない。


 遠くで、戦場の喧騒がまだ続いている。

 闇神リヴォグラフの神界逆侵攻の儀式は止まっていない。

 ヴェデルアモボロフは生きている。戦いは、終わっていない。


 だが、この畳一畳分の小庭は確かに、ここにある。

 銀翠の光膜が降り積もる紅薔薇に向かって、深く一礼した。


「……安らかに眠れ、イル・メラフィーラ。お前の祈りは、確かに届いた」


 風が応えるように薔薇の花弁を一度だけ、優しく撫でた。


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皆様に楽しんでいただけたら幸いです。

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― 新着の感想 ―
イルメラの件は、悲しくも救いのある結末になって良かったです。 深紅の大魔公爵ヴェデルアモボロフにより仕掛けられた卑劣な罠を掻い潜り、スペアの心臓と魔神具を削れたのは大きいですね。 紅薔薇紋族は、大魔…
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