二千二百二話 コーイルの遺産とホークと魔界八賢師の真実
こちらに寄越した部隊が全滅したことは向こうも知ってるはず。
だが、補給路通信魔具・バイアン照準補助盤に反応がない。
右肩に常駐するハルホンクへ、<闇と光の運び手>の装備を意識して語りかける。
ハルホンクは「ピカ、ピカ、ダァ、ゾォイ」と無機質ながらも親愛の籠もった意思を脳内に響かせ、次元の軋みを伴う魔蒸氣のようなモノを低く噴き上げた。
防護服の胸ポケットに『補給路通信魔具・バイアン照準補助盤』を滑り込ませると、ハルホンクの生体金属がその上を覆うように硬質化し、外部からの魔力干渉を完全に遮断する。
手のひらに収まった〝幻夜の転晶体〟へ、深紅の<血魔力>を極細の針を通すように繊細に流し込む。
結晶の内で、ディペリルの魔力を宿した紫黒の星雲がドクンと心臓のように脈動した。
先刻、コーイルが消滅した荒涼の岩場で登録した残留魔素の座標が共鳴し、結晶の冷たい表面に空間の歪みを示す銀色の細い経線が網の目のように浮かび上がっていく。ディペリルが必死に闇神リヴォグラフ側の大眷属か不明な赤黒い巨躯の肌が漆黒へと変色を繰り返す、かな~り、デラックスな格上の強者か。
ヘルメたちががんばっているシーンもあった。
結構な激戦、こりゃ、不用意に血文字は送れんな。
「……皆、一度集まってくれ。岩場は近いが、俺たちは一部だけで、南のコーイルの遺産がある岩場に転移し、ホークと接敵を試みる。残りはボベルファたちを連れて、このまま岩場へと向かい俺たちとそこで再び合流、同時に、その辺りで、魔公爵ゼンor魔界騎士バイアンが率いる大部隊と本格接敵する可能性が高い」
「はい」
「了解」
「「はい」」
居並ぶ眷属たちの顔ぶれを見渡す。
ヴィーネ、エヴァ、ルリゼゼ、レベッカ、ユイ、キサラ、キュベラス、ミトリ・ミトン、カルード、エトア、ラムー、ザンクワ、オオクワ、ド・ラグネス、ベーバティ、ディエ、アラ、ヘイバト、ガマジハル、キスマリ。
その中から大厖魔街異獣ボベルファと共に移動してもらう面々を指名した。
「キサラ、キスマリ、ディエ、ヘイバト、アラ、ベーバティ、ガマジハル、ド・ラグネスは、大厖魔街異獣ボベルファと共に直進してくれ」
「「「「はい!」」」」
「「承知!」」
ヴィーネたちを見て、「では、残りの皆、〝幻夜の転晶体〟を使うからこちらにもっと寄ってくれ」
前線投入の眷属たちが集まる。
相棒は俺の傍らで巨大な黒虎の姿を保ったまま、低く「ンン、にゃ」と喉を鳴らした。
キサラを見て、
「ボベルファと、その背の鬼魔人&仙妖魔の主力軍を頼む。岩場とは距離が近いから、本格的な戦いとなってもすぐに合流は可能」
「はい、時間差で何が起きるか、ですね」
「ん、わたしもキサラたちと一緒のほうが良い……?」
エヴァは伏し目がちに、細い指先で自身のワンピースの裾をもじもじと弄びながら、紫の瞳を微かに揺らして俺を見上げてくる。
「どうだろうか。エヴァが考えるほうでいい」
「ん、……シュウヤと、一緒に行く。離れたくない、から」
「了解」
エヴァは俺の言葉に天使の微笑。
体を浮かせていたが、魔導車椅子に腰を落とす。
大厖魔街異獣ボベルファの質量を一瞬で運ぶには、転晶体の出力余裕が足りない。
ホークが接近している以上、彼らがボベルファ側を狙ってきた場合の予備戦力として、現位置に留めておくほうが戦略的に厚い。ザンクワが懐から鬼魔ノ伝送札の束を引き抜き、慎重な手付きで札の縁を撫でた。
双角強症が銀緑に脈動し、伝送札の表面に対応する札の輝きが浮き上がる。
ザンクワは、
「ボベルファ残留組との通信網が確立です。これで少し離れていても連絡は取れます」
「おぉ、ナイスだ。では、微妙な間がある二面作戦と行こうか」
「「はい」」
「はい! マイロードの戦略は絶妙です」
「うん、わたしたちが前衛&囮の一つ。キサラたちが後衛&二つ目の囮」
ユイたちの言葉に頷き、転晶体を握り締め、先程の場所を意識。
結晶の核から、紫黒の螺旋光が一斉に解き放たれ、皆と相棒の輪郭を呑み込んでいく。
転移は直ぐに官僚、頬を撫でたのはコーイルがバイアンの戦略魔導砲によって消滅させられた際の、あの焦げ付いた鉄と硫黄の余熱が立ち昇る荒涼とした岩場の熱い風だった。
視界に広がったのは赤黒くガラス状に融けた岩肌、小刻みに揺れる陽炎、そして大氣に満ちた<神殺しの塵芥>に酷似する、魔力を強制的に霧散させる対魔粒子の濃密な層だ。
コーイルが二千年あるいはもっと長い時間をかけて、己の工房を縫い込んだ地脈の中心部が広がっていた。
「シュウヤ様、ホークが近付いて……あ……」
ミトリ・ミトンの声が、いつもより一段低い。
銀白色の杖を胸の前へ抱き寄せていた。
「地脈が……ささやいています。何か、わたくしを、呼んでいるのです」
ミトリ・ミトンが俯くと、肩から流れる銀色の長い髪が地面の亀裂へと吸い込まれるように落ちた。
首筋に絡みつく、目に見えぬ歪んだ縫合の糸。パチパチと静電気めいた微小な火花を爆ぜさせる禍々しい回線が、地脈に縫い込まれたコーイルの外法術式とミトンの『聖なる膜』を繋いでいる。俺の左目の<隻眼修羅>は、その緊張の魔線を鮮明に捉えていた。
「ミトン、無理に応えるな。まだ自我を保て」
俺の警告にミトンは静かに頷いた。
唇を引き結び、左手を胸の中心に押し当てる。
彼女の中で織神アハシュムロンの娘としての本能が、二千年眠っていた地脈の母性に反応しかけているのが分かる。危うい。だが、これこそが鍵だ。
ユイが、
「シュウヤ、ホークが加速。すぐ目の前よ」
切れ長の双眸の奥で、<ベイカラの瞳>が白銀の光を宿している。
頷き、照準補助盤を懐から取り出した。
ラムーが鑑定で初期化済みの盤面を、左手の親指で起動する。
赤と紫の魔線が複雑に絡み合う円盤の中央に、現在の位置を示す光点と、その周囲半径数里の範囲を示す円が浮かび上がった。懐から取り出した『補給路通信魔具・バイアン照準補助盤』。盤面に反応はなく、バイアンの戦略魔導砲の発射予兆は今のところ無い。三衝軍の莫大な兵站と資本に裏打ちされた戦略兵器――。充填中か、あるいは別の標的を狙っているか。いずれにせよ、こちらへの即時の砲撃は無いと判断する。
皆、武器を構えて様子を窺う。
ヴィーネとレベッカが左右の翼を取り、ユイが右、カルードと俺とキュベラスが中央、ルリゼゼが最前――四つの魔剣はすでに鞘から半ば抜かれ、銀緑色の薄い光帯が刃の縁に揺れている。エトアが右手のドラゴン鱗の甲を軽く叩き、鱗が浮き上がりかけたが、まだ展開はしない。
オオクワが、岩場の南北の縁にそれぞれ位置取る。ミトリ・ミトンとエヴァが周囲を見る。
相棒はゆっくりと頭部を下げ、四肢の関節が低い姿勢へと沈み込んだ。橙色の魔力翼が肩甲のあたりで畳まれ、いつでも跳ぶ準備を取る。
その時――北の岩棚の向こう、地平の彼方から地響きが伝わってきた。
まだ遠いが確実に近付いてくる。単発の足音ではない。無数の脚と、巨大な質量の脚音。
そして、その更に上から、空氣を切り裂くような魔力翼の羽ばたきが幾重にも重なっている。
「来た――」
誰かの声が、誰のものとも分からず、空氣に溶けた。
北側の切り立った岩棚から地を這うような不気味な咆哮が轟く。
まず這い出てきたのは中型のベラムフ魔街異獣の群れだった。
鋸歯のような鋭い背骨が陽炎に濡れ、馬体ほどの体に不釣り合いな二対の皮膜翼がバサバサと重い羽音を立てる。それらは担い手を持たぬ暴走個体特有の濁った赤黒い魔力を口腔から滴らせていた。
それが十、二十――数えるのを止める前に岩棚の縁を埋め尽くした。
続いて、その後方から大型個体が姿を現す。体高五メートルを優に超える六足の獣型。
背に骨の砲塔のような突起を持つもの、長い触手を地に這わせるもの。三体、四体――合計で四体の大型。そして最後に、岩棚そのものが軋む程の質量を伴って超大型の異獣が地平の向こうから頭部を覗かせた。
ベラムフ群の超大型に近いが、より骨ばっており、外殻の節々から黒紫の魔煙が立ち昇っている。
担い手なしの暴走個体特有の不安定な魔力の漏れ。
それら異獣群を統べる中心点に彼が立っていた。
半身欠落の魔倶魔神イーゾンの肩の上。
全身を漆黒の魔絹で覆い、左半身の輪郭が陽炎のように揺らいでいる男。
無数の傀儡糸が、彼の指先から放射状に伸び、岩場の宙空に蜘蛛の巣のような網を編んで、その先端のひとつひとつが、異獣群の頭部、首筋、心臓部へと繋がっていた。
魔傀儡師ホーク。
「皆、構えるな」
ルリゼゼの四つの魔剣を構え、エヴァの白皇鋼が幾何学変形を始めかけていたが、皆が動きを止めた。
俺自身もまだ理解しきれていない。だが――ホークの傀儡糸の向きが、明らかに、おかしい。
糸の張力線の総和がこちらを指していない。
「……ご主人様、あれは」
ヴィーネが〝星見の眼帯〟越しに目を細めた。
ホークが無造作に右手を持ち上げた。
ただ、それだけの動作。しかし、その動きに連動して彼の指先から伸びた無数の傀儡糸が、一斉にぴんと張った。異獣群の首が北西の方向へ向く――俺たちの背後でも足下でもない。
北西の高台――魔公爵ゼンの陣営、魔界騎士バイアンの軍勢が強固な防衛線を敷いている、あの方角だ。
「行け」
ホークが、ただ一言。
異獣群が一斉に北西へ走り出した。
中型が、岩棚を蹴って空中へ跳び、翼を広げて滑空を始める。
大型が、地面を抉りながら凄まじい速度で疾走を開始する。
そして超大型が、巨大な脚で岩盤を踏み砕きながら、低い咆哮を轟かせた。
「ボォォォン……!」
地平を揺るがす震動。
大気そのものが押し退けられ、岩場に砂塵の旋風が立ち昇る。
俺たちの陣形の真横を、十数体の異獣がすり抜けるように通過し、その先の地平へ向かって突進していった。
数秒の沈黙。遠く――北西の地平の縁で、爆音が立ち昇った。
続いて、第二、第三、第四の爆発光。
魔界騎士バイアンの軍勢が敷いていた防衛線――その最前線が、襲撃に対応すべく一斉に魔法陣を展開し、迎撃を開始したのだ。
地平の彼方で、黒煙と紫の閃光が、入り乱れて立ち昇り始める。
「……主、これは」
ナナシの声が、無名無礼の魔槍の穂先から、低く響いた。
「……あぁ」
槍の柄を握ったまま、しばし、その光景を眺めていた。
ホークの傀儡糸の大半は、北西へ流れた異獣群と共に遠ざかっていく。
しかし、彼自身の足は、依然として、岩場の縁に留まっている。
半身欠落の魔倶魔神イーゾンの肩の上で、こちらに背を向けたまま。
――ゆっくりと前へ踏み出した。皆を背後に残し、岩場の中央へ向けて。
相棒は俺と並走するように、低い姿勢で隣を歩いた。
彼との距離が、十歩、五歩、二歩。止まった。ホークは振り返らない。遠くで北西の戦闘音が、断続的に響いてくる。
ホークに、敵意はないと示すように、
「ありがとう」
数瞬の沈黙。ホークが、ようやく口を開いた。
背を向けたまま、低く、抑えた声で。
「勘違いするな」
彼の声は二千年の重みを背負った刃のように、空氣を切り分けた。
「お前を助けたわけではない。織神様の理を歪めて売り捌いた者どもを贖わせるだけだ。コーイルの最期も、ゼンの末路も、俺が見届ける。それだけの話だ」
ホークの視線は強い。左半身の陽炎が、いつもより速く揺らいでいる。
二千年来、誰にも見せていなかった感情を押し殺している証拠か。
「なるほど、下にはコーイルの遺産がある」
「そのようだ……」
「コーイルはお前を知っていた」
ホークの肩がかすかに揺れた。
「……当然、知っているだろう」
彼の声は掠れている。
「その辺りを詳しく教えてくれると助かる」
「魔界八賢師の名は聞いたことがあるだろう」
「ある。魔界八賢師タリマラ、魔界八賢師キマゼル、魔界八賢師ランウェン、魔界八賢師ライラズ、魔界八賢師レドミヤ、魔界八賢師セデルグオ・セイル、魔界八賢師コトノハ」
「その通り。あの『魔界八賢師』という呼称は、織神様の門下で縫合の理を学んだ八人の弟子に対し、セブドラの有象無象が勝手に与えた便宜上の称号に過ぎん。栄誉でもなければ、責任でもない。ただ、織神様の境界を縫う理に触れたという、消えぬ刻印のようなものだ。無論、同じ門下であっても、縫合の理の『繋ぐ』『解く』の適性には大きな偏りがあったがな」
「では……ホーク、お前とコーイルは、その魔界八賢師の系譜なのか?」
「俺の過去、複数の名がある、もう一つの名が、魔界八賢師セデルグオ・セイルなのだ。コーイルは、俺の同門の弟弟子だ」
「「「え」」」
皆が驚く。当然、俺もだが……驚きだ。
複数の名が、魔傀儡師ホークであり、魔界八賢師セデルグオ・セイルか……。
「本当にあの魔界八賢師の一人、セデルグオ・セイルなのか?」
「そうだ。他にも羅刹キアルホヴォスという名で過ごしていたこともある」
ん? どこかで聞いた。
とりあえず、ムーの義足と義手の姿を想起し、
「では、秘術書【結び目の原書】や魔剣ビートゥは……」
「……秘術書【結び目の原書】を知るだと……魔剣ビートゥは闇神リヴォグラフの闇賢老バシトルターゼと取り引きをした時に渡した品だな。しかし、秘術書【結び目の原書】は、どこで聞いた」
ホークの声が、一段、深くなった。
「聞いたというよりは、秘術書【結び目の原書】は知り合いが入手し、もう使用されて融合している……」
「…………魂との融合だと? あれは普通の人族であれば、経絡どころではなく、内臓ごと糸に絡め取られるか、精神が崩壊する禁忌の書。それを成し遂げたのが、お前ではなく知り合いか……」
「そうだ。俺の自慢の弟子だ。彼女の義肢には、お前の理の残響が宿っている」
「……弟子……ふっはは、そうなのか。いや、それでも十分だ……しかし、不思議な縁だ……」
思えば、魔糸だ。それも妙にムーに馴染んでいるし、光魔ルシヴァルの<血魔力>を得ても蒸発することがない。
ただの魔界の品ではない、神界系と繋がりを最初から持っていた。
ルーツがあったというか、まさに合縁奇縁だ。
「……そうだな。こちらもまさかのまさか。で、コーイルとの経緯を教えてくれ」
「織神様の影響下で、縫合術を共に学んだ。あの男は、最も筋の良い才能を持っていた。誰よりも繊細に糸を扱い、誰よりも深く魂の構造を見抜けた。だが――途中で、道を外れた」
ホークの傀儡糸の一本が、宙空でひゅるりと巻き上がり、消えた。
「俺も人のことは言えないが、織神様を売る側に回った。三衝軍の輜重隊として従軍し、シクルゼ族の遺体を素材として確保した。そして、織神様の研究書の写本を、闇神アスタロトの手の者に流した。それが二千年前の、織神断罪事件の引き金のひとつになった」
「お前は、止められなかったのか」
「俺自身が、織神様を救うために神格を分離した直後だった。半身は神格分離の代償で消耗し、残りの半身で何とか息をしているような状態だった。コーイルの所業を知ったのは、織神様が雲となって地に降りた、その後だ」
ホークが初めて、わずかに首を巡らせた。
半身欠落の魔倶魔神イーゾンの上から、後ろを向くようでいて、しかし俺の方を見ない、微妙な角度。
「二千年、追っていた。あの男の縫合術の癖を。あの男が次にどこに現れるかを。だが、コーイルは慎重で、巧妙で、何より――俺と同じ織神様の理を継いでいた。だから尻尾を掴めなかった。この場所も初めて知った」
「なるほど……俺たちが、終わらせたということだ」
「ふっ、そうだな」
ホークの声に、初めて安堵のような響きが混ざった。
しかし、それは一瞬で、また硬度を取り戻した。
「だから、勘違いするな。礼を言われる筋合いはない。お前の手柄を借りた、というだけの話だ」
薄く笑った。その笑いには、答えなかった。
代わりに、別の問いを、
「羅刹キアルホヴォスのことを聞いていいか」
長い沈黙。風が吹いた。
コーイル消滅地点の余熱が、わずかにゆらめいた。
「ふむ」
ホークの空気が変質した。ナナシの仮面の双眸が、瞬時に紅光を強めた。
ヴィーネの〝星見の眼帯〟が、共鳴して薄く震えた。
ルリゼゼが小さく「ほぉ……」と感嘆の息を漏らした。
「思えば、コーイルだけが、俺のもう一つの名を忘れずに恐れ続けていた。あの男は、俺の無数の名を、夢の中で呻いていたという。八賢師の同門の中で、あの男に最も近かったのが、俺だったからだ」
頷いたが、ホークの知見は相当だ。
そこでゆっくりと、アイテムボックスから一枚の地図を取り出した。
〝列強魔軍地図〟。魔界の地理には、まだ大きな空白がある。
「ホーク――いや、セデルグオ・セイル、羅刹キアルホヴォス」
ホークの肩が、また、わずかに揺れた。
「これに、触れてくれないか。お前の知っている魔界を書き加えてくれ」
ホークは、しばらく、答えなかった。風が彼の漆黒の魔絹をなびかせるだけ。やがて、彼の右手が、ゆっくりと持ち上がった。
「……断る理由もない」
ホークが半身欠落の魔倶魔神イーゾンから滑り降り、岩場の地面に静かに着地した。
彼の足取りは、想像していたよりも軽い。近付いてくる。
俺の前まで、二歩の距離。ホークの輪郭がはっきりと見える。漆黒の魔絹に覆われた頭部、その下から覗く青白い肌、二千年を超えて生き続けてきた者特有の、深く沈んだ瞳。
彼が右手を伸ばし、〝列強魔軍地図〟の表面に、指先を触れた刹那――。
地図の表面に、蒼白い光が走った。
ホークの指先から、二千年分の魔界の地理が、文字通り溢れ出していく。
未知の地名が、地図の余白に次々と浮き上がる。
既存の地名にも、補完線が引かれていく。数百は刻まれたか。
「これは……!」
ラムーが鑑定杖を掲げ、銅色の兜の下で目を見張った。
「シュウヤ様、魔界の主要な修業場、戦略要衝が悉く……」
「大平原コバトトアルの大戦場、穿山ウアンの戦場は無論ですが、かなり埋まりましたな」
カルードも感心するように呟く。
ヴィーネは、
「南北の境界線、魔界王子ライランの所領もくっきりと……闇神アーディン信仰圏の隠れ里の所在、織神様の旧蔵の残骸地、そして……」
「あ、【轟雷大瀑布ロフ・ドドフ】――」
「ん、グラン・ドドフの魔闘魂の系譜の修業地の場所もある」
「ちょいと距離があるが西南に行けば大瀑布か」
〝列強魔軍地図〟を覗き込んだ。
西南のかなり遠方、王雷魔神スヒムダ・アーディン山脈の更に奥、雷雲の集積点として描かれた地点に、白銀の小さな丸印が新しく刻まれていた。
その隣に、ホークの蒼白い指先から流れた知見として、こう書き加えられていく。
――『ロフ・ドドフ。落雷千万、地脈の鳴る場所。グラン・ドドフの魔闘魂の系譜を真に体得する者のみ、王雷を友とできる』。
「魔城ルグファント周辺の地理はもうある程度分かっていましたが、細かな点が追加されていますね」
ラムーが指で別の地点をなぞる。
「闇神リヴォグラフ陣営の前哨基地が三つ、東西に展開していますし、あの城を乗っ取っている側は闇神リヴォグラフの戦力が濃厚。南は、十層地獄の王トトグディウス、北西は暴虐の王ボシアド、北は、吸血神ルグナド様の血槍イーヴァルの丘、北東はルグナド、キュルハ、レブラの合同直轄領があります」
エトアたちは歓声を発した。
ホークは、
「幾星霜の間に、変わった土地もあるだろうが、骨組みは保たれているだろう」
ホークが手を引き、地図の表面の蒼白い光が静かに収束した。
地図全体が、以前の倍以上の情報量で埋め尽くされている。
「……感謝する」
素直に頭を下げた。
「ふっ、勘違いするな」
ホークが、また同じ言葉を返した。
今度は、最初よりも、少しだけ柔らかい響きで。
「織神様の理は、本来、世界の境を縫うものだ。地理の知見も、その一部に過ぎん。隠す程の物でもない」
微笑した。そして、彼が背を向けて立ち去ろうとする気配を察知して、慌てて声をかけた。
「もう一つ、頼みがある」
ホークが止まった。
アイテムボックスから、二つの物を取り出した。
ひとつは、コーイルの工房から回収した、銀の縫合線で包まれた小さな球体。
魔導人形ウォーガノフのコア。
もうひとつは、漆黒の重量感を持ちながら、表面に深緑の脈が走る、拳大の金属塊。
〝ガイア鋼塊〟。神話級。大地の神ガイアが祝福したとされる、希少の素材。
二つを、ホークの前に差し出す。
「これを使えるか。お前なら」
ホークの背が、初めて明確に反応した。
肩甲骨のあたりがわずかに上下する。息を呑む寸前の動き。そのホークがゆっくりと振り返った。
半身だけ。しかし、その瞳が、俺の手の中の二つを捉えた。
深く沈んだ瞳の奥に、
「……灯炉ノ魔神ヴェルディン様の遺物の応用か」
ホークの声が、初めて揺れた。
「コーイルがあの神格の遺骨片を素材に作ったものだな、この魔導人形のコアは。そして、ガイア鋼塊――母なる大地が祝した鋼。この二つを組み合わせるなら、ヴェルディン様の鍛冶の理が必要。俺の中に、それはある」
ホークが、半身欠落の左腕を、ゆっくりと持ち上げた。
陽炎のように揺らぐ輪郭が、輪郭を取り戻す。
炎の色を帯びた、深紅と橙の魔力が、その左手に集束していく。
「だが、俺一人では、足りん」
ホークの瞳が、ふと横へ流れた。
その視線の先にミトリ・ミトンが立っていた。
「ミトン――」
ホークの声が二千年来初めての、優しさを含んだ響きで彼女の名を呼んだ。
「初代の妹弟子の、お前なら水鏡ノ女神セラドナ様の理が宿っている。我ら二人なら……可能やもしれぬ」
ミトンが、驚いて目を見開いた。杖から放出された魔力は淡い蝶に変化し淡く明滅する。
しかし、驚きは一瞬で、彼女の唇に柔らかな笑みが浮かんだ。
「兄弟子様」
ミトンは、迷いなく、ホークの隣へ歩み出た。
「ご一緒にお願いいたします」
ホークとミトンが、岩場の中央で向かい合った。
二千年ぶりの織神アハシュムロンの四人弟子のうち二柱の理が同じ作業台で並ぼうとしている。
二人の足下に、ウォーガノフのコアとガイア鋼塊をそっと置いた。
「初代の妹弟子、ミトリ・ミトン。始めようか。<連逸魔傀儡>を使う」
ホークの左手から手のひらへと、深紅と橙の炎が燃え上がる。
……毛細血管を走り抜ける血のごとく、銀の熱量そのものが「肉体を形作らんとする意志」を持って蠢いていく。
――灯炉ノ魔神ヴェルディンの理。二千年前、肉体の鋳造とウォーガノフの骨格形成を担った織神四弟子の最年長が有した『熱と鋼の法』が今、ここに熱波として吹き荒れる。
ホークが二千年の逃亡の間、己の半身を削りながらもイーゾンの奥底に封じ、守り続けてきた亡き同門の遺志が今、目の前で深紅の火花となって爆ぜる。
ミトンが「はい! 私が生まれた意義をここで示せる……」と銀白色の杖をゆっくりと地に立てた。
杖の頭部から銀色の絹糸が霧のように立ち昇り、虚空に薄い水鏡を形成していく。
その水鏡には、何も映っていない。
しかし、ミトンが目を閉じ、左手を胸に当てると、水鏡の表面に、ひとつの像が浮かび上がった。
ぷるぷると震える、小さな魂の像。
まだ生まれていない、しかし生まれることを待っている、何かの輪郭。
水鏡ノ女神セラドナの理。
魂の像を映す鑑として、織神が縫合の精度を測る役を担っていた、織神四弟子の二番手の理。
ミトンが、母から受け継いだ、もう一つの理。
「炎の鋳造、数千年ぶりだ……」
ホークが低く紡ぐ。
「光栄です……あぁ、水鏡の像写し……」
ミトンが清らかな声で唱和した。
ホークの左手から流れ出した炎が、ガイア鋼塊を包み込み、内部のウォーガノフのコアと、ひとつに溶け合わせていく。鋼塊が、内から脈動し、コアを核として再構築されていく。
同時に、ミトンの水鏡から伸びた銀色の絹糸が、その鋳造の表面に、魂の像を縫い込んでいく。
水鏡に浮かんだ小さな魂の輪郭が、銀の絹糸を通じて、鋳造される肉体の中へと滑り込んでいく。
二つの理が、空間で交差し、螺旋を描いた。
二千年ぶりの、織神様の弟子たちの共同作業か。
息を呑んだ。眷属たちも誰一人として声を発さず、ただ、その光景を見守っていた。
ルリゼゼでさえ、四魔剣の刃の輝きを抑え、息を潜めている。
ヴィーネの〝星見の眼帯〟が、感動の余りに、薄く曇った。
鋳造の螺旋が、ふと、収束した。
ホークの手のひらの上に、ミトンの杖の頭部の上に、それぞれ、小さな影が落ちる。
それは、銀色の、半透明の、小さな、ぷるぷるとした塊だった。
「……」
「……まぁ」
ミトンの口から、小さな感嘆が漏れた。
銀蜜溶胃無の幼生か?
ただし、通常のシルバースライムとは、明らかに違う。
その内にヴェルディンの炎の脈と、セラドナの水鏡の像が、二重螺旋となって脈動している。
ユニーク級を遥かに超える、新たな生命の形。
幼生は、ぷるぷると震えながら、ホークの手のひらの上から、ミトンの杖の頭部の上から、それぞれ転がり落ち、空中で合体した。ひとつの、より大きな、しかしまだ手のひらに収まる程度の、銀色の球体となって、ミトンの手のひらへ、ぽてん、と飛び込んだ。
「まぁ、可愛い……」
ミトンが、両手で幼生をそっと包み込んだ。
幼生が、ぷるん、と震えて、ミトンの指先を舐めるように、その表面を揺らした。
「ありがとうございます、兄弟子様」
ミトンが、ホークに向かって、深く頭を下げた。
「勘違いするな」
ホークが、また、同じ言葉を返した。
しかし、その声には、もはや、最初の硬度はなかった。
「ヴェルディン様とセラドナ様への手向けだ。お前への礼ではない。亡き同門の二人へ、二千年ぶりに、共に手を動かす機会を、与えただけだ」
ミトンは、笑顔のまま、幼生に語りかけた。
「お名前を、つけなければ……」
と俺を見た。
「ミトリ・ミトンが付けるべきだ」
「はいでは、シル――」
と、ミトンはスライムを見直した。
「貴女は、今日から、シル。兄弟子様の理と、母様の理を、ひとつに繋ぐ、銀の子シル。それでよいかしら」
幼生――シルが、ぷるん、と嬉しそうに震えた。
感慨深い気持ちで、その光景を眺めた。しかし、まだ、終わりではない。
もう一つ、アイテムボックスから取り出した物を、ホークの前に差し出した。
「これも、ラムーが鑑定で読み取れなかった部分があった。ホークならどうだろう」
ホークが視線を落とした。俺の手のひらに乗っているのは、漆黒の金属でできた、無骨な甲指。
その表面に、解読不能の魔王紋が刻まれている。
アグラトラの甲指、伝説級。
契約に口付けが必要で、契約成功後は口笛と思念で煙の操作が可能となる。
魔王アグラトラの人差し指が大本のようだが、ラムーには契約の細部までは読めなかった。
「……魔王アグラトラの指」
ホークが、低く呟いた。
「これは、かつて、織神様の蔵にあった物。コーイルが盗んで売り捌いた品だ。お前がどこから手に入れたかは知らんが、本来の持ち主の血脈の作法を辿ろう」
ホークが再び、ミトンに視線を向けた。
ミトンが頷き、再び杖を地に立てた。
水鏡が、再び、虚空に展開される。
ホークがアグラトラの甲指を、自身の左手で受け取り、水鏡の前にかざした。
水鏡の表面に甲指の本来の契約紋様が、ゆっくりと浮かび上がる。
その紋様は、ラムーが読めなかった部分も含めて、完全な形で示されていた。
「契約条件は、これだ」
ホークが、低く、読み上げた。
「ほぉ、あのアグラトラがな……では、義理堅さと武人気質を備えた者。主への忠誠が、背骨を貫いている者。アグラトラは、魔王の中でも特異な存在で、自身の力を分け与える相手を、極めて厳しく選んだ。氣まぐれな魔王ではない。むしろ、武人の理を貫いた者にしか、その指を委ねなかった」
カルードに合うとは思うが、戦力的にザンクワに渡すかな。
視線の先に片膝をついたまま儀式の見守り役を務めていた彼女を凝視。
「ザンクワ」
「え、はい!」
ザンクワは嬉しそうに返事をした。
「ザンクワに、これをあげよう」
「わ、わたしに……」
「おう、遠慮しないでいい」
「……はい」
ザンクワは立ち上がる。
アグラトラの甲指を、ホークの手から受け取り、そのザンクワに近付いて差し出した。
「アグラトラの甲指。契約条件は『義理堅さと武人気質、主への忠誠が背骨を貫いている者』。これからも頼む」
ザンクワは騎士の正式な敬礼の姿勢へと変わった。
「謹んで、お受けいたします」
ザンクワは両手で甲指を受け取り、その表面に、ゆっくりと口付けをした。
刹那――甲指の漆黒の表面が、深紅の輝きを放った。
契約が成立した瞬間、アグラトラの甲指がザンクワの右手の甲に、肉と金属が融解して融合するかのように吸い付いて装着された。甲指の表面に刻まれた魔王紋から、氷のように冷たく、しかし魂を焦がすような漆黒の煙が一筋、生き物のように蠢きながら立ち昇る。
「……これは」
ザンクワが自身の右手を見つめ、感慨深そうに呟く。
「シュウヤ様、この煙、思念で形を変えられます。剣を扱う視界を塞ぐ目眩ましに、敵の呼吸を奪う窒息攻撃に、味方を隠す煙幕に――無数の応用が、即座に思い浮かびます」
「良かった。双剣と煙を組み合わせるなら、ザンクワはもっと強くなる」
「はい! シュウヤ様と光魔ルシヴァル、鬼魔人と仙妖魔の皆のために、振るわせていただきます」
頷き、再びホークに向き直った。もう一つ、彼に見せたい物がある。
「ホーク――最後に、もう一つ、頼みがある」
「まだあるのか」
ホークが、わずかに肩を竦めた。
その仕草に、初めて、苦笑のような気配が混じっていた。
アイテムボックスから、複数の物を一度に取り出した。
魔造小箱。冥界シャロアル方面の、容器素材として知られる小箱。
複数のネマホ紫炎の塊。冥界の希少な紫炎を結晶化した塊。
冥界ゲガラマテ檻。冥界の安定用結界檻、紫炎の暴走を抑える枠として知られる。
紫炎の魂巾着。冥界の冥業ザレが持っていた品、魂の防御に用いる紫炎の収納袋。
すべて冥界系の希少素材。アイテムボックスの奥に眠らせていた物。
「これらを、どう使えるか、お前の見立てを聞きたい」
ホークが、地面に並べられた素材を、じっと見つめた。
その瞳の奥で、二千年来の縫合術師としての思考が、回転を始める。
「冥界系、なるほど、バーヴァイ城の地下か、あの辺りはたしかに冥界シャロアルとの出入り口が多い」
と、ホークが、低く呟いた。
「……それにしてもこれほどの物は、珍しい……よかろう。<駕門異人形>を使う。紫炎の本来の用途は『魂の防御』だ。ミトン、お前の『聖なる膜』の上に、紫炎の防御絹を重ねられる、更に、シルの幼体にも、紫炎の魂巾着を再構成して、特殊外殻として纏わせることが可能だ」
ホークは魔倶魔神イーゾンを浮かせ、その人型の表面の皮を捲らせるように内部を露出させる。
内部から無数の魔線と素材が展開され、一瞬で中型の絡繰り人形と似た、魔導人形が組み上がる。あれが<駕門異人形>か? ホークは、その<駕門異人形>と共に、迷いなく素材を組み合わせ始めた。
ミトンも、すぐに彼の意図を察知し、再び杖を立てて水鏡を展開する。
二人の共同作業が再び始まった。
ホークの炎の理と<駕門異人形>が、紫炎の塊を解きほぐし、ゲガラマテ檻を溶解触媒として使い、魔造小箱を媒介として、紫炎の魂巾着の構造を再編していく。
ミトンの水鏡が、その再編の過程を映し出し、最適な紫炎の配置を像として提示する。
数十秒の作業の後、二つの完成品が形を成した。
ひとつは、ミトンの『聖なる膜』に重ねるための、薄い紫炎の絹布。
光属性の『聖なる膜』に、冥界紫炎の魂防御層が追加され、二重バリアとして機能する。
もうひとつは、シルの幼体に纏わせる、紫炎の魂衣。
幼体の銀色の表面に、薄い紫色の煙のような層が形成され、攻撃耐性を底上げする外殻となる。
ザガ&ボンとは異なる神秘的な作業……魅了された。
「――完成だ」
ホークが、低く、宣言した。
「ミトン、これを着けろ。お前の防御力が、二段、上がる」
「はい、兄弟子様」
ミトンが、紫炎の絹布を自身の銀色の聖衣の上から、そっと羽織った。
布が、彼女の体に吸い付くように溶け込み、外見上はほぼ見えない薄い紫の輝きとなって彼女の周囲を包む。
「シル、こっちはあなた」
ミトンが、シルの幼体に紫炎の魂衣を纏わせると、幼体が、ぷるん、と嬉しそうに震えた。
幼体の銀色の表面に、薄い紫の煙の層が定着し、外殻として機能を始める。
「……主、この共同作業、本氣で凄いな」
ナナシが、無名無礼の魔槍の穂先から、感嘆の声を漏らした。
「織神様の四弟子のうち、二柱の手わざが、目の前で甦っているぞ。あの時代の魔界で、これを見られた者は、ほんの一握りだったはずだ」
「「……」」
「……ん」
「「はい……」」
皆と共に自然と頷いた。
そして、最後の一つをアイテムボックスから取り出した。
俺自身も、不意に思い出した品。漆黒の革表紙の、小ぶりな魔宝箱。
その表面に、刻まれている古い銘――。
羅刹キアルホヴォス。
「ホーク、もう一つある」
その魔宝箱を、両手で恭しく持ち上げた。
「お前の名前が刻まれた魔宝箱が、うちにある。何処で手に入れたか、もう忘れたんだが、確かに、お前の名が刻まれている」
ホークの肩が、明らかに、揺れた。今までで最も大きく、最も激しく。
彼が、ゆっくりと、振り返った。今度こそ、完全に。
半身欠落の左半身も、辛うじて陽炎の中から輪郭を取り戻し、彼の全身が、初めて正面に立った。
彼の瞳の奥に、二千年来初めての、感情の揺らぎが見えた。
「……これを、お前は……二千年の時を超えて、よくぞ、持っていてくれたな……」
ホークの青白い喉と声は震えている。
視線は、かつて自身が羅刹キアルホヴォスとして魔界を駆けていた頃の魂の半身とも言える箱に釘付けになっている。
「お前のものだ。本来あるべき場所へ、還す」
ホークは頷き、指先を震わせながら魔宝箱の表面を撫でた。
古い銘の上を指の腹がゆっくりとなぞっていく。
その動きには、二千年分の想いが、込められていた。
「礼は言わぬ」
ホークが、低く、呟いた。
「ハッ、いわんでいいさ」
沈黙が流れた。
しかし、その沈黙の中で、何かが、確かに通じた感がある。
ホークが、魔宝箱を自身の懐の内に、深く収めた。
その動作には、二度と失わないという、強い意志が込められていた。
そのホークが再び背を向けた。
しかし、その背は、もう最初のような硬さを失っていた。
その時、ミトンが静かに歩み出た。
彼女は、ホークの背中に向かって両手を胸の前で組み、深く、頭を下げた。
「兄弟子様」
ミトンの声が、清らかに、岩場に響いた。
「姉さまたちと一緒に、お待ちしております」
ホークの肩が、少しだけ、揺れた。
「……」
彼は、振り返らなかった。言葉も返さなかった。
しかし、その「……」の中に二千年分の応答が込められていた。
風が吹いた。<砂漠風皇ゴルディクス・イーフォスの縁>の魔猫がコーイル消滅地点の余熱を探るように匂いを嗅いでから宙空に舞って消える。ミトンの背後に、温かい光の輪郭がふと、浮かび上がった。
廃魔塔の玉座にいた初代依代の姉。
そして、その周囲に歴代三十七人の姉たちの幻影が薄い銀色の光となって壁画のように展開された。
彼女たちは、皆ホークの背に向かって、わずかに頭を下げた。
二千年ぶりの織神アハシュムロンの家族の、再会。
ホークが長く深い息を吐いた。二千年来初めての解けた息か。
彼の輪郭から、それまで張り詰めていた緊張の糸が、ふっと緩んだのが、<隻眼修羅>越しに、はっきりと見えた。その時――。
「ご主人様」
声が緊張を孕んで響いた。
胸元が揺れる。
「あぁ、補給路通信魔具・バイアン照準補助盤か」
「バイアンの戦略魔導砲ではありません」
「魔界騎士バイアン本人が数千の部隊を率いて、こちらへ直進中」
円盤の表面に、新たな赤い光点が北西から南東方向へ、こちらへ向かって、急速に移動していた。
ホークが放った異獣群との交戦中の、本陣ではない。別動の、本人率いる、精鋭部隊。
ヴィーネが、
「……間違いありません。バイアンの精鋭三衝軍、第一陣だけで二千を超えています」
『シュウヤ様、そろそろそこ到着します。魔界騎士バイアンの軍も動いているようです』
キサラの血文字に皆が頷く。
『了解した。大厖魔街異獣ボベルファもこちらに寄せていい。皆も降りてこい』
『はい』
ルリゼゼは、
「バイアンがいるのか……」
「魔街異獣の群れとの戦いを制し、突破しての、こちらに殴り込みか」
「ホークが放った異獣群への対応は、副官に任せたとかありえるわね」
レベッカの言葉に皆が頷く。
「ん、自身は別動で、コーイルの『我の工房』を狙っているかも知れない」
「もしくは、魔公爵ゼンが、北西で異獣群と乱戦中で、バイアンが、本陣を分割して、独立判断でこちらに向かっている可能性もあります」
頷いた。
ユイが、緊張した声で。
「コーイルの『我の工房』を、奪うつもりか。あるいは、シュウヤを討つことで戦況を一変させようとしている? その両方かもしれない」
唇を引き結んだ。二千を優に超える精鋭三衝軍か
戦えば、勝てる。だが、時間がかかる。
その時間で、『我の工房』の解放の窓が、閉じる可能性がある。
地脈の縫合線は、コーイルの拒絶の波動を、まだ完全には解いていない。
三者連動の儀式を中断したら、再構築には、膨大な時間がかかる。
その時、ホークが、再び、歩み出した。
彼の足取りは、先程までとは違い、明確な、目的を持った歩み方だった。
「俺が引きつける」
ホークが、振り返らず、宣言した。
「お前たちは、仕事を済ませろ」
「……無理はするな」
咄嗟に、そう言った。
半身欠落のお前が、二千の精鋭三衝軍を、単独で引きつけるなど――。
しかし、ホークが、低く、応じた。
「勘違いするな」
またしても、同じ言葉。
しかし、今度は、その響きの中に別の意味が、確かに込められていた。ルリゼゼをチラッと見てから、
「悪いが、バイアンは俺にとっても、なかなかの顔見知りの一人。あの男がコーイルに供給していた素材の幾つかは、二千年前の同門の遺骨だ。俺の手で、清算する」
「……」
ホークの傀儡糸が、新たに展開された。
ルリゼゼはかすかに頷いていた。
すると、岩場の各所に放置されていた、先程の異獣群の中型個体――北西へ向かわずに、はぐれて残っていた個体や、ホークが意図的に保留していた個体――が、傀儡糸に引き寄せられ、再装填されていく。
数えると、中型が五体、大型が一体。二千の精鋭三衝軍を相手にするには、心許ない戦力。
しかし、ホーク自身の縫合術と、半身欠落の魔倶魔神イーゾン――そして、二千年来の知見と意志があれば、足止め程度は、できるはずだ。
「ミトン」
ホークが、初めてミトンの方を見た。
しっかりと目を合わせて。
「ヴェルディン様とセラドナ様の手向け、感謝する」
「兄弟子様」
ミトンが、両手を胸の前で組み、深く、頭を下げた。
「どうか、ご無事で」
ホークは、ミトンに頷きを返した。
そして、半身欠落の魔倶魔神イーゾンの肩に、再び、跳び乗った。
彼が、最後に、口を開いた。
「……お前の母上、織神様の言葉を、いま思い出している」
ホークの声は、もはや、最初の硬度を完全に失っていた。
二千年来の重みを、ようやく降ろした解放の響き。
「『お前の選択も理解する』――そう仰った。あの時、俺は理解されたかった。誰よりも……だが、織神様は、俺を理解してくださった、ただ一人の存在だった……今は俺が、お前を、理解する番のようだ」
ミトンの瞳から、一筋の涙が零れ、頬を伝って、地面にぽつりと落ちた。
ホークの姿が陽炎のように揺らいだ。
そして、北方へ、滑るように移動を開始した。
半身欠落の魔倶魔神イーゾンの肩の上で、彼の輪郭が、徐々に、岩場の風景に溶け込んでいく。
彼自身の隠蔽スキル――織神様の縫合術を応用した「世界の境を縫って隠れる」術。
俺たちの視界から、ホークの姿が、完全に消えた。
「……」
「……シュウヤ、<ベイカラの瞳>の縁取っているから」
ユイが、静かに報告した。
「ホークの動きは追跡できる。北東方向へ移動中、バイアン本隊への迎撃位置へ向かっている」
「あぁ、勝算はあるんだろう」
「ん」
「自信があるんでしょう」
「はい、兄弟子様は強い。それに羅刹キアルホヴォスを取り戻している」
ミトリ・ミトンの言葉に皆が頷いた。
振り返り、皆を見回した。全員が、ホークが消えた方角を、しばらく、見つめていた。
ミトンの頬には、まだ、涙の跡が残っていた。
しかし、その瞳の奥には、新しい意志の光が、宿っていた。
そこでキサラたちが駆け寄ってくる。
オオクワたちも一緒だ。
「皆、丁度良い、儀式に入ろう。三者連動で、『我の工房』を解放する。ホークが時間を稼いでくれている間に、終わらせる」
「「「「はい!」」」」
皆が、一斉に応じた。岩場の中央へ歩を進めた。
地脈の縫合線が、最も濃密に集中する、その中心点へ。
神槍ガンジスを、地に突き立てる。
穂先が、岩盤を、わずかに穿った。
ミトリ・ミトンが、俺の東側へ立った。
銀白色の杖を、地に立てる。
『聖なる膜』の銀色の絹が、薄く、地脈の方へ流れ始める。
肩には、シルが、ぷるぷると、震えながら鎮座している。
紫炎の魂衣が、ミトンの『聖なる膜』と共鳴して、薄い紫の光を放っている。
ルリゼゼが、俺の西側へ立った。
四つ魔剣――シザヨイ、シギルア、シアババ、シトトメ――で、魔界の天を刺す。
そして、すぐに、それぞれの腕を素早く、振り下ろした。四つの魔剣を地に立てた。
その刃が、銀緑色に共鳴して脈動し、彼女の額の細い縫い目が、薄く光を帯びた。
鳴神シクルゼの加護が、彼女の全身を、銀緑色の薄い光膜で包んだ。
「エトア、解除頼む」
俺の指示に、エトアが頷き、地脈の縫合線の表層へ近付いた。
彼女の右手のドラゴンの鱗の甲から、薄い銀色の魔線が、地脈の縫合の節へと伸びていく。
<罠鍵解除・極>――エトアの真骨頂のスキルが、地脈魔導回路の安全装置を、一つずつ、丁寧に、解除していく。
「カルード、護衛頼む」
「マイロード、お任せを」
カルードが、流剣フライソーと幻鷺を持ち<血魔力>を周囲に放つ。
ヴィーネが、頬から銀蝶と金属鳥を放った。
数十の銀色の蝶が金属鳥と重なると、金属鳥から<血魔力>が放出され、幻影の分身が増えていく。それらが儀式の周囲を旋回した。空間異常の監視に入ったか。
ユイが、〝ベイカラの瞳〟で、外周防衛とホークの縁取り維持を、同時に担う。
キサラが、<真眼・白闇凝照>で、地脈深部の魔素を見極める。
エヴァが、白皇鋼の幾何学変形を、上空警戒の盾として展開。
レベッカが、蒼炎弾と<光魔蒼炎・血霊玉>の蒼炎に包まれている大きい勾玉を両手の周囲に、防衛網として浮遊させる。
ザンクワ、漆黒の煙を立ち昇らせた。
煙が、儀式の周囲を、薄い壁のように覆い、外部の魔素の侵入を遮断していく。
相棒が、外周の物理防衛を、それぞれの位置で固める。
「始めるぞ」
神槍ガンジスの柄を、両手で握り締めた。
穂先から、<縫合・神威糸>を、地脈の縫合線へ向けて、紡ぎ出す。
燐光を放つ、漆黒の魔力糸。しかし、今回は、それだけではない。
糸の中に、『還』の理が、織り込まれていく。
神格喰らいの分の、本来の場所へ還す理。
そして、<神律の還顕>――神律の還の顕現。
神格落ちした神々を一時顕現させて、奪われたものを本来の場所へ還す、エクストラスキル。
その理が、糸の中で、三重螺旋を描いて、地脈へと流れ込んでいく。
「母上アハシュムロン様」
ミトンが、清らかに、唱えた。
「姉さまたち、わたくしに、力を」
ミトンの『聖なる膜』の銀色の絹糸が、地脈の縫合線と、ひとつひとつ、丁寧に、同期していく。
コーイルが歪めた縫合の理が、本来の織神アハシュムロンの理の波形に、徐々に、調律されていく。
正当血脈の継承者として、ミトンの存在そのものが、二千年来歪んでいた地脈の縫合に、本来の音を取り戻させていく。
「爺さん、父さん」
ルリゼゼが、低く唱えた。
「見ていてくれ」
ルリゼゼの四魔剣から、銀緑色の鳴神シクルゼの加護が、地脈の縫合線の上を、走り抜けた。
コーイルが盗用した縫合線――シクルゼ族の祖の血脈に触れていた縫合線――が、鳴神シクルゼの正当継承者の権能で、上書きされ、解放されていく。ルリゼゼの額の細い縫い目が、強い銀緑色の光を放ち、彼女の魂の系統樹が、地脈と、束の間、ひとつに繋がった。
「還れ」
低く、宣言した。
「本来の場所へ、すべて還れ」
刹那――地脈から、三色の光が螺旋状に湧き上がった。
――銀緑色(鳴神シクルゼの祖なる雷武)。
――金緑色(俺の神座の『還』の理法)。
――蒼白色(ミトンが紡ぐ織神アハシュムロンの母性)。
歪んだ地脈の結び目を引き裂くように、三つの異なる神格の光条が岩場の中央で交錯。夜空を貫く巨大な三光条の螺旋光柱となって、天高く立ち昇っていった。
コーイルが二千年熟成してきた莫大な縫合術の蓄積が地脈の中で、ほどけ始めた。
何層もの縫合線が静かに解かれ天へと昇っていく。
その光景は無数の銀色の絹糸が夜空に流れる巨大な織機の動きのようだった。
地脈の最深部からコーイルのねじくれた意志が、最後の抵抗として逆流の波動を放ってきた。
「渡さぬ」
「我の工房は、我のものだ」
「二千年の蓄積を、よくも――」
しかし、三者連動の理が、その波動を静かに押し返した。
ミトンが優しく唱えた。
「ようやく、安らげるのですよ。もう、苦しまなくて、よいのです」
ルリゼゼが力強く応じた。
「この理は、本来の場所へ、還る。お前の歪んだ執念は、ここで終わる」
頷き「還れ」と低く断じた。
地脈の縫合線の核――コーイルが己の意志を最も深く埋め込んでいた、地脈の心臓部――が、ほどけた。
ねじくれた意志の波動が三色の光に呑み込まれ、塵となって、解放され。大地が、震えた。
数千の小さな光の粒子が地脈から立ち昇った。
コーイルが二千年かけて、否それ以上の時間をかけて熟成しただろう莫大な縫合術の蓄積――そのすべてが解放され、本来の場所へと還っていく。その一部が、俺の体へ<縫合・神威糸>を経由して流入してきた。
俺自身の縫合系の理が<神律の喰理>由来の「縫合の理法」が、深化していくのを感じる。
莫大な情報量。幾星霜とした縫合技術の蓄積――。
コーイルが歪めた応用法ではなく、織神アハシュムロン本来の縫合の理が、俺の中に流れ込んできた。
ナナシが、無名無礼の魔槍の穂先から、感嘆の声を漏らした。
「……主の縫合の理が、一段、深化した。これで、織神様の理を正しく継いだ者として、お前は二千年来初めての存在となる。縫境ノ織神アハシュムロン、水鏡ノ女神セラドナ、灯炉ノ魔神ヴェルディン、その想い、否、想いなんてもんでは、慮れないか……」
頷いたが、
「まだ称号を得ていないからまだ何かある」
そして――地脈の解放が、続く中で、不意に別の現象が起きた。
縫合線の中から、隠されていた何かが、ひとつひとつ浮かび上がり始めた。
「これは……」
ザンクワがそれに氣付いた。
地脈から浮かび上がってきたのは、人骨だった。
ただし、シクルゼ族のものではない。
頭部の形状、骨格の特徴――鬼魔人の祖の骨。
「シュウヤ様!」
ザンクワが、悲鳴のような、しかし喜びと哀しみが入り混じった声を上げた。
彼女が岩場の地面に、膝をついた。地脈から浮き上がってきた頭蓋骨を、両手で、震えながら抱き上げた。
頭蓋骨の額の中央に、銀緑色の小さな印が、刻まれていた。
双角強症の徴ではない。しかし、それに似た、古い、神聖な印。
「これは……幾星霜の魔界大戦の余波で、ライランに敗れた……鬼魔人の祖、祭祀長グルザンの頭蓋骨です……」
ザンクワの声が、喉の奥から絞り出すような慟哭となって震えた。彼女の双角強症から溢れ出た銀緑色の光粒子が、頭蓋骨の空洞の眼窩を温かく満たしていく。
「……グルザン様」
ザンクワが、低く、呼びかけた。
「お待たせいたしました。魔界での故郷を守る戦いに参加できず申し訳ない思いです……ですが【玄智の森】の経験があるからこそ……シュウヤ様とミトリ・ミトンにも出会えた……ようやく、お眠りいただけます」
『還』の理によって、ようやく本来の安らぎの森へと還っていく。
別の場所からも声が上がった。香華魔槍のジェンナが震える手で、地脈から浮かび上がってきた銀色の冠を抱き上げていた。
「我が族長、仙花姫リリィヤの銀冠……幾星霜とコーイルの蔵に閉じ込められていた……最も古い族長の、その魂の依代が……ようやく、解放された」
銀冠を自身の胸に抱き締めた。
ジェンナの部下たちが、一斉に跪いた。その場に膝をついた。
そして――。ボベルファ残留組との通信網が、急に、強く反応した。
ザンクワが、慌てて伝送札を取り出すと、札の表面から、銀緑色と紫銀色の光が、一斉に放たれた。
ボベルファに残っている鬼魔人&仙妖魔の住民全員から、双角強症が一斉に、銀緑色&紫銀色の哀悼光を放っていく。その光が伝送札を経由し、この岩場の儀式の場へと流れ込んできた。
ザンクワが抱える祭祀長グルザンの頭蓋骨とジェンナが抱える仙花姫リリィヤの銀冠が――。
眩い光を受けてより強く、輝き始めた。
遠くボベルファの居る方角の空へと銀緑色と紫銀色の光柱が夜空に向かい立ち昇っているのが、岩場からも視認できた。犠牲となった鬼魔人と仙妖魔の祖たちへの鎮魂の徴。
――心に来る。ザンクワが頭蓋骨を抱いたまま、ゆっくりと立ち上がった。頬に涙が流れていた。
しかし、その瞳には安らぎの光が宿っていた。
「シュウヤ様」
ザンクワが深く、頭を下げた。
「これで、我ら鬼魔人と仙妖魔の祖の魂が二千年ぶりに、安らげます。この恩は、一族と共に、必ずお返しいたします」
ジェンナも立ち上がり頭を下げた。
「導きし者、シュウヤ様に、改めて永遠の忠誠を――」
「「「導きし者――」」」
ただ、頷いた。言葉を必要としなかった。
地脈の解放は、まだ、続く。縫合線の最深部から、もう一つ別の物が浮かび上がってきた。
「シュウヤ様」
ラムーの声が響いた。
霊魔宝箱鑑定杖を掲げ、地脈から浮かび上がってきた漆黒の革表紙の写本を、慎重に、両手で受け取った。
「これは……『コーイル工房記録・第三十八巻』。これまでの素材リストと、次に狙う予定だった標的の覚書です」
ラムーが、写本の表紙を、慎重に、開いた。
銅色の兜で表情は分からないが、ページを追うごとに、頭部がかすかに動く。
「……これは、深刻な情報です」
ラムーが、声を低くした。
「闇神アーディン側の希少種族――鬼魔人と仙妖魔以外にも、【魔雷教団】の関係者、複数の犠牲候補族の名前がリスト化されています。コーイルは、これらすべてを、自身の工房の素材として、確保しようとしていました」
「具体的には?」
「『闇雷の真夜部族』、『爪牙の角雷魔人』、『暗雷墓場の黒魔族』、『闇雷の森魔族』、『暗雷夢の北魔人』、『魔雷教最高武闘司祭族』、『霊応魔族クリヴァド』、『燔祭鰐魔族骨ドラー』、『石髪の岩妖闇種』、『黒翼の冥蝶族』、『魔王種ザウバ』。――いずれも、闇神アーディン信仰圏に古くから存在する、希少種族の名前。それぞれが、独特の魔力波形を持ち、コーイルの縫合術の素材として、極めて高い価値を持っていた可能性があります」
ラムーが、ページをめくった。
「そして……これは、ルリゼゼ様にとって、重要な情報です」
ルリゼゼが、四つ魔剣を一旦、地に立てたまま、ラムーへ振り返った。
「シクルゼ族の生存可能性のある他系統四眼四腕魔族――魔界大戦の影響で邪界ヘルローネに飛ばされた者たち以外……魔界セブドラの各地に散った小規模なシクルゼ族残党の存在が、ここに記されています。コーイルが追跡していた、確度の高い情報として、ただ、シグルゼ族、ヴァクリゼ族、デクルゼ族と同系統は多く、子孫も膨大なので、その血筋、血肉、骨格、採集には苦労していたようです」
「我が一族の……他系統……我の魔族系統は、たしかに多いが……我の魔族限定となると……」
ルリゼゼの声は疑問げだ。
たしかに、四眼四腕魔族は多いからな。
そして、純粋なシグルゼ族の系譜が脈々と続いている地を探すのは困難というか不可能に近い。
「ラムー、その記録、後でゆっくり読み解こう」
優しく応じた。ルリゼゼが、頷き、四つの魔剣を握り直した。
しかし、その瞳の奥には、新しい灯火が宿っていた。
「そして、最後に」
ラムーが、写本の最後のページを、開いた。
「闇神アーディン本人の眷属の遺物――コーイルが、アーディン本人の眷属の遺物にまで、手を伸ばそうとしていた野心の証拠です。具体的な遺物名は記されていませんが、『いずれ、闇神アーディン本人の領域に踏み込む』という意志が、明記されています」
ヴィーネが、低く唸った。
「これは……闇神アーディン陣営にとっても、看過できない情報。暗雷教の信者たちが多く暮らすサシィや、ルリゼゼの故郷にも関わりますし、ご主人様は一度、闇神アーディン様と稽古している」
「あぁ……」
と、冗談だが、首を何度も刎ねられたと己の手首で首をチョンチョンと叩く。
ヴィーネとエヴァは顔色を悪くしてしまった。あぁ、〝知記憶の王樹の器〟で記憶を体感しているんだよな。
俺には、槍の修業だが……あれは中々な……。
そのヴィーネたちに笑みを送りつつ、
「……この記録は、サシィにも共有する。アーディン信仰圏全体への報告だ」
ヴィーネが頷いた。地脈の解放がようやく終わりに近付いた。
三色の光が徐々に収束し、縫合線の核は、完全にほどかれた。
地脈は、本来の織神アハシュムロン由来の流れを取り戻していた。
ミトンが、ゆっくりと杖を地面から引き抜くと、彼女の頬に満ち足りた笑みが浮かんでいた。
ヴィーネも笑顔で、
「終わりました、ご主人様」
「あぁ」
神槍ガンジスを地面から引き抜いた。
その時、北西の地平から爆音と魔力の閃光が、響いてきた。
「ホークの縁取りを確認、生きている」
ユイが、即座に報告した。
「バイアンの第一陣を、ホーク一人で食い止めている。傀儡糸の動きから判断するに半身欠落の魔倶魔神イーゾン、五体の中型異獣、一体の大型異獣で、二千の精鋭三衝軍を巧みに翻弄している」
「援護に行く?」
レベッカが不安そうに聞いてきた。
首を横に振った。
「いや。彼は俺たちに『勘違いするな』と言ったからな。今は、彼の戦いを尊重する」
ユイに視線を移した。
「だが、ベイカラの瞳の縁取りは活かす。本当に窮地になれば、跳ぶ。それまでは見守る。それに、レンたちが凌ぎを削る戦いが現在も行われているんだからな」
「うん」
「「はい」」
「そうね」
「ん」
皆を見回した。鬼魔人&仙妖魔の住民たちは、まだ祖の遺骨と遺品を抱いて静かに泣いていた。
ザンクワは祭祀長グルザンの頭蓋骨を、ジェンナは仙花姫リリィヤの銀冠を、それぞれの胸に、抱きしめていた。
ミトンが、シルを肩に乗せたまま、皆の方へ、ゆっくりと、歩み出た。
彼女の背後に、初代依代と、歴代三十七人の姉たちの幻影が、温かい光の壁画のように、うっすらと浮かんでいた。
「皆様、お疲れさまでした」
ミトンが、清らかに告げた。
「姉さまたちも、喜んでおられます。長きにわたる、苦しみが、ようやく、終わりました」
ルリゼゼが、四魔剣を鞘に納め、ミトンの隣に、立った。
「友よ……シクルゼ族の他系統がいるかもしれない、と」
彼女の声に、わずかな、震えがあった。
「父さんと爺さんに、報告できる」
頷いた。〝列強魔軍地図〟を、再び、取り出した。
ホークが書き加えてくれた、新しい地名が地図の余白を、隙間なく埋めていた。
地図の中で、いくつかの重要な地点に、視線を落とした。
【轟雷大瀑布ロフ・ドドフ】――グラン・ドドフの魔闘魂の系譜の修業地。
魔城ルグファント周辺――ルグファントの奪還。
暗剣の風スラウテルの傷場――現在、惑星スラウテルに帰還しており、傷場の守備強化が必要。
「キュベラスとヴィーネ、レン側に伝令。砂城タータイムの増援として、アキレス師匠とレファとムーがいる【源左サシィの槍斧ヶ丘】の守りを考えつつ、惑星セラの八人の師匠陣を呼ぶ準備を整えようか」
「かしこまりました」
ヴィーネが、深く、頭を下げた。
キュベラスは、「はい、<異界の門>は、この遺産の場と、大厖魔街異獣ボベルファが通ってきた地点数カ所を記憶済み、大厖魔街異獣ボベルファは、さすがに無理ですが、数百人なら<異界の門>で移動は可能です」
「おう」
すると、北西の地平で、また爆音が響いた。
ホークが、まだ戦っている。
二千の精鋭三衝軍を、半身欠落の身で、引きつけ続けている。
静かに、その方角を、見つめた。
ホークの背が、もう一度、脳裏に蘇った。
「――勘違いするな」その言葉の、繰り返し。しかし、最後の彼の言葉は、違った。
「今は、俺が、お前を、理解する番のようだ」――。
二千年来の、孤独の終わり。
織神アハシュムロンの、家族の再会。
ミトンが、俺の傍に静かに歩み寄った。
彼女の肩で、シルが、ぷるんと震えた。
ミトンが、
「シュウヤ様、兄弟子様は、戻ってこられるでしょうか」
「わからん。だが、彼はもう数千年前のホークではない。真のミトリ・ミトンと再会したことで、何かが解けた。それが彼をどこへ導くか――それは彼自身が、決めることだ」
ミトンが頷いた。彼女の瞳に新しい意志の光が宿る。
「わたくしは、待ちます。姉さまたちと一緒に。何度でも」
「あぁ」
彼女の肩に軽く手を置くと優しい風が吹いた。
コーイル消滅地点の余熱は、もう立ち昇っていなかった。
代わりに解放された地脈から清涼な新しい風が岩場全体を優しく撫でていた。
北西の地平で、また、爆音。ユイに視線を移した。
「ホークは?」
「健在」
ユイが応じた。
「動きに変化はない。心配は無用かも。伝説的な存在として、この魔界セブドラで生きて、惑星セラにも名が知れている魔傀儡師ホークは、やはり伊達ではないわ」
「そうだな」
ルリゼゼを見てから、
「ボベルファと共に砂城タータイム方面に戻ろう。連携を再構築する。ホークが時間を稼いでくれている間に、戦略の再編を進める。ルリゼゼ、魔公爵ゼンや魔界騎士バイアンは後回しとなる」
「分かっている……ホークからも氣概を受け取った、心配は不要、我は、<筆頭従者長>なのだからな」
ルリゼゼの表情には嘘はない。怒りはあるが、怒りを制御している。
魔界セブドラと邪界ヘルローネでの幾星霜とした経験者だ。もうそれだけで偉人を超えている。当然か。
「……皆、ボベルファに乗り込むぞ。鬼魔人&仙妖魔の祖の遺骨と遺品は、丁重にボベルファへ運ぶ。そこで、改めて、鎮魂の儀式を行おう」
「「「はい!」」」
全員が応じた。最後にもう一度北西の地平を見つめた。
ホークの背が、そこに見えるような氣がした。
勘違いするな――彼の言葉が頭の中で鳴り響いた。
しかし、今の俺には、その言葉の真意が、はっきりと分かっていた。
彼は、誰よりも織神アハシュムロンの家族を愛していた。
二千年、その愛を誰にも見せられなかっただけだ。
〝幻夜の転晶体〟を再び取り出した。
深紅の<血魔力>を流し込む。結晶の表面にボベルファの座標が浮かび上がった。
「行くぞ」
皆と、相棒とザンクワが抱える祭祀長グルザンの頭蓋骨とジェンナが抱える仙花姫リリィヤの銀冠と――そして、ミトンの肩で震えるシルと――共に転晶体の螺旋光に包まれた。
一瞬でボベルファの城壁の縁の風景へと切り替わった。
まだ近くで爆音が響いていた。
ホークの戦いの音。静かにその方角を見つめ、
「お前の答え、待ってるからな。兄弟子」
と呟くと風が吹いた。<砂漠風皇ゴルディクス・イーフォスの縁>の魔猫の幻影も出現し、風に乗って飛翔しボベルファの城壁の上に着地して消えていく。
夜の風が静かに流れていった。
続きは明日、HJノベルス様から書籍「槍使いと、黒猫。1巻~20巻発売中」
コミック版1巻-3巻発売中。【お知らせ】設定資料・外伝等の保管庫(note)を開設しました。
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最初の投稿として、書き下ろし限定SS『迷宮都市イゾルガンデの裏側で』(ロロとフォティーナの活躍劇)を公開しています。今後はシュウヤ視点の小話や、本編では書ききれなかった設定をまとめた「槍猫」の総合アーカイブとして、無料・有料を織り交ぜながら更新していく予定です。魔界の最新地図を載せました。近いうちに槍猫とは関係のない、新作短編をリリース予定!
本編とあわせて、ぜひこちらもお楽しみください。




