二千百九十五話 銀翠の雨が止む刻、ミトリ・ミトンの真実と救済の神座
――<夜行ノ槍業・召喚・八咫角>が、半円を描くようにミトンの頭上を覆う。
ミトンの片腕から漏れた銀色の液体のような魔力が、俺の<夜行ノ槍業・召喚・八咫角>を覆うように展開し、銀翠の雫が垂れてきた。
ミトンの四つの肩が不規則な律動で震えている。
上腕二本は縋るように己の唇を塞ぎ、下腕二本は壊れ物を扱うかのような慎重さでブッティたちをその胸へと埋めていた。
「……ミトン、退がったほうがいい、何があるか分からん」
震えを止めたミトンは、
「……いえ、シュウヤ様」
「……」
「あの声――懐かしいのです。怖いのに、懐かしいのです。なぜ、なのでしょう」
ミトンが俯きながら告げた。
その懐かしいという言葉が、心の中で冷たく沈む。
懐かしいということは知っているということだ。
彼女自身が、自分の出自を、心のどこかで知ってしまっている。
ヴィーネが銀の残像を引いて左隣に着地し、〝星見の眼帯〟の奥で銀河の如き燐光を明滅させた。
「ご主人様、この声は空氣の振動ではありません。地に刻まれた執念のような魔素、魔力、あえて『氣』といいましょう。それが、ミトリ・ミトンの魂を直接震わせております。霊的な波紋が、彼女の経絡へ侵食しているようです」
「あぁ、そうだろうな」
「不可解なのは、声の主の魂のコアが――『どこにあるか分からない』のです。眼帯越しに視ても、廃魔塔の中ではなく、上方……あの結晶雲のほうへと、糸のようなものが伸びていて」
大魔塔がある起点ライムランから発生した結晶雲。
それが周辺の空を覆い、少し離れたこのリルドバルグの窪地へと銀翠の雨を絶え間なく降らせ続ける、紫掛かった結晶の海――。
「キサラ」
「はい」
「あの結晶雲だが、どう考えても、自然現象じゃないな」
「……ですね。わたしの過去、長い記憶を辿っても、これほど均一に魔素を含んだ雲は、知りません。キュベラスは知ってますか?」
全員の視線をその身に受けたキュベラスが重々しく首を振った。
「……あれは現象ではなく、執着の塊。神格落ちの遺骸が、未だにこの世に未練を縫い止めている成れの果てでしょう。大平原コバトトアルという巨大な墓標において、これほど鮮明な残響を維持し続けること自体が、もはや神話級の怪異と言わざるを得ません」
「ふふ」
「たしかに」
「なーほーね」
レベッカの言い方に笑ってしまう。
キュベラスは、
「とにかく、魔夜世界、大戦場の一角にこうして残り続けている現象ですので、何か強い要因が、アバドンの丘と、この一帯に起きたということでしょう」
神格落ちの遺骸としてか。
神格落ち――廃絶された神格、忘却された神格の遺骸が雲として残っている、と……ザンクワが、呪われた宿命の証である額の双角強症を自らの指で抉るように押さえた。その銀緑色の明滅は、ボベルファ閣下の背に乗る同胞たちの鼓動と同期し、血脈の奥底に眠る「最古の記憶」を無理やりこじ開けようとしている。
もっと深い場所――血脈の底から響いてくる、何かに対する反応。
「ザンクワ」
「……シュウヤ様。私の角が、勝手に脈打っています」
「あぁ」
「先程からの胸騒ぎとは別の、もっと古い『何か』が、私の角の中に呼応しているような――」
その時、ボベルファの背の城壁から、低い唸り声のような震えが伝わってきた――否、唸り声ではない。ザンクワの後方、ボベルファ閣下の背に乗る数千の鬼魔人と仙妖魔の住民たち――その全員の額の双角強症が、同じ銀緑色の明滅を始めていた。
全員の共鳴か……。
何かに引き寄せられるように、廃魔塔の方角を凝視している。
その光景に背筋を冷たいものが這うのを感じた。
単純な戦地、敵地の罠ではないな――根源的な、種族の記憶に触れる何か。
「これは……我らの祖の声に似ています」
ザンクワが、絞り出すように告げた。
双角強症の明滅が、彼女の言葉に合わせて強くなる。
その横で、ミトンがゆっくりと、廃魔塔の入口へと一歩、足を踏み出した。
止める間はなかった。
「ミトリ・ミトン――」
「シュウヤ様、わたしは……行かねばなりません。あの声に、答えねば」
四つの腕のうち、上腕二本が震えながら、廃魔塔の入口の苔生した石壁に向けて伸びていく。ブッティちゃんたちが、彼女の腰元で激しく弾み、警戒の鳴き声を上げる。だが、ミトンの足は止まらない。
半透明の階段が、ミトンの足元に静かに展開され、彼女を運ぶ。
神槍ガンジスと無名無礼の魔槍を握り直しながら、彼女の後を追う。
ロロディーヌが体を低くしながら廃魔塔の入口の前で四肢を止めた。
黒虎の太い前足が、苔の絨毯の上で、踏み締めるたびに銀緑色の光を散らしている。
「皆、警戒を解くな。ただし、ミトンを止めない」
指示すると、ヴィーネが頷き、銀蝶を宙空に展開させた。
ユイが白銀の瞳を細め、<ベイカラの瞳>で空間の縫い目を視る。
レベッカが拳に蒼の炎を灯し、エヴァが紫水晶の魔力を四方に展開した。キサラはエトアとラムーを守るように魔槍を構え、キュベラスが胸元から<血魔力>を周囲に展開させ、複数の魔杖から魔刃を生やす。
何かあれば、<異界の門>を使うだろう。
俺も〝幻夜の転晶体〟に<血魔力>を送り、この場所、宙空を数カ所記憶させた。
ミトンを中央に置き、何が起きても対応できる陣形。
そのミトンの上腕二本の指先が、苔生した石壁に触れた。
刹那――。
銀翠の雨が、止まったか? いや、逆流していた。
地面から空へ、苔から雲へ、霧から結晶雲へと銀翠の雨粒が一斉に上昇していく。
雨が時間を巻き戻すように滴の一つ一つが来た道を辿って結晶雲へと吸い込まれていく。その光景は、まるで世界そのものが、息を吸い込んでいるかのように見えた。
「これは――」
「え!?」
ザンクワの後方の鬼魔人と仙妖魔の住民たちの双角強症が、一斉に、強い銀緑色の光を放出した。数千の角が、共鳴する。
ボベルファ閣下の咆哮が、「ボォォォン――」と低く深く響き、その音圧波紋が廃墟全体を包み込んだ。廃魔塔の崩れた尖塔が、淡く光り出す。
崩落した石材の隙間から、銀緑色の光の筋が幾本も這い出し、それらが宙空で繊細な糸のように絡まり合っていく。
その糸が、ミトンの『聖なる膜』と、廃魔塔の表面に複雑な幾何学模様を描いていった。ミトンの体が、淡く発光し始める。
彼女の四つの腕が、ゆっくりと持ち上げられ、虚空に対して何かを招くような仕草を取った。
次の瞬間――周囲の世界が、丸ごと、変容を始めた。
視界が反転し、また反転しつつも色鮮やかな情景が脳裏へ直接流れ込んできた。
崩落した魔塔の上半身が逆再生のように上方へと組み上がり、ねじ曲がった尖塔が真っ直ぐに伸びていく。
苔と銀翠の雨に飲み込まれかけていた廃墟の家屋群が、屋根を取り戻し、壁を取り戻し、扉を取り戻していく。
数百年、否、二千年――の崩壊が時間を逆向きに辿るように復元されていく。
まるで逆再生を早送りで見ているような、非現実的な氣分だ。
「ご主人様、これは……単なる時間の幻影などではありません」
ヴィーネが〝星見の眼帯〟に手を添えながら告げた。その奥で、通常なら冷静な銀光が驚愕にぐらぐらと揺らいでいる。
「この地に染み付いた世界の『記憶』そのものが、ミトリ・ミトン殿を核として現実に上書き、再演されています。わたしたちは今、傍観者としてではなく……二千年前の記憶の深淵へと、直接呑み込まれようとしているのです」
「記憶……回廊か」
「はい」
ヴィーネが頷く。その視界の隅で、ザンクワが息を呑むのを見た。
大魔塔の起点から少し先にある彼女の故郷、リルドバルグの窪地――が、二千年前の姿を取り戻していく。
崩落していた集落の石塀、朽ちていた井戸、苔に飲まれていた祭祀の祭壇――すべてが、生き生きと色を取り戻していく。
否、人影ではない。鬼魔人、仙妖魔。
そして、それらに似ているが、もっと古い、もっと祖の血を濃く残した者たち。
彼らが、二千年前の集落で、日常の営みを送っていた。
子供が水場で笑い、女が祭祀の準備をし、男が骨塚で祈っていた。
ザンクワの呼吸が、震える。
「私の……祖先……」
ザンクワが、声を絞った。
俺は、彼女の腰に右手を添えた。
そして、ミトンの『聖なる膜』が、最大限に展開され、銀色の光膜が俺たち全員を優しく包み込んだ。膜の内側で、時間の流れが、ゆっくりと、遠ざかっていく。
俺たちは、もはや観客ではなかった。
記憶回廊の中に、いる。
□■□■
二千年前のライムランとリルドバルグは、今と異なる地であった。
大魔塔がそびえる起点ライムランと、そこから少し先にある集落リルドバルグ。
視界に広がるのは、血錆に汚される前の清冽な魔界。
結晶雲の呪いに覆われる以前の天蓋は、底知れぬ蒼黒の深淵を湛え、地表は血錆色ではなく、銀緑色の魔素を孕んで瑞々しく息づいている。
光を放つ苔の絨毯は八方に拡がり、魔夜の世界を美しく照らす。
踏みしめるたびに星屑のような粒子を舞わせ、生命の祝福を謳歌していた。
深い緑と銀緑色の混じり合う豊穣の土。
苔は人の踏み締めを待たずとも自ら淡く光を放っていた。
地の養分を吸う鬼魔人と仙妖魔の祖たちが骨塚を中心に村落を築き、その双角強症は今のザンクワやトモンの世代よりも遥かに大きく、額の中央から二本、堂々と伸びていた。
骨塚の頂には、白磁の旗が翻っていた。
旗の地は白く、縞模様は銀の縫糸で織られていた。神界セウロスの戦神ヴァイス一派――光導の女神ファレヴィアの祝福を受けた銀の縞であった。
神界の旗が魔界の地に立つことは、本来あり得ぬ光景である。
だが、ライムランでは、それが当然のように翻っていた。
なぜならこの地の主が、両界の境を縫う特異の魔神だったからである。
縫境ノ織神アハシュムロン。
魔界に在りながら神界戦神ヴァイス一派と通じ、人形遣いの研究――魂と肉体の縫合術――を極めた者。地に降りて鬼魔人を育み、【玄智の森】に別れし影響から、新たに生まれし仙妖魔の祖たちと手を組む。彼らの双角強症を「縫合の証し」として授けた者。骨塚は単なる墓ではなく、織神が縫合を施した魂の眠る祭壇であった。
骨塚の中央に立つ巨大な魔塔――それが、織神の住処であった。
塔は黒曜石と白磁の交互の積層で築かれ、頂上には淡く脈打つ銀色の球体が据えられていた。球体は織神の中核――その神格の中枢――であり、塔そのものが織神の延長であった。塔の各層には研究室があり、織神は弟子たちと共に、神界の光と魔界の闇を縫い合わせる業を、日夜、磨き続けていた。
弟子は四人いた。
最年長は灯炉ノ魔神ヴェルディン。炎を司り、肉体の鋳造を担う。鋼の如き双の腕に炎を纏わせ、織神が縫合する魂の器を鍛え上げる役を負っていた。
二番手は水鏡ノ女神セラドナ。鏡面の如き深い湖を眷属に持ち、魂の像を映し出して、織神が縫合の精度を測るための鑑となる役を負っていた。
三番手は、若き傀儡師ホーク。
ホークは織神に拾われた孤児であった。魔界の辺境で身寄りを失い、糸を一本だけ持ってさまよっていた幼子を、織神が拾い上げ、弟子として育てた。傀儡の素養を見出された彼は、織神の縫合術を最も深く理解し、最も忠実に学んだ。彼の背には、後に魔倶魔人形イーゾンと呼ばれる、織神の研究の集大成――未完の人形――が宿ろうとしていた。
四番手は、まだ名を持たぬ「人形」であった。
否、人形と呼ぶには未完であった。織神は自らの神格の片鱗を分け与え、魂と肉体の縫合術を体現する「依代」を、二千年の歳月をかけて少しずつ仕上げていた。それは四つの腕を持つ少女の姿に整えられ、銀緑色の瞳と銀色の薄い髪を持ち、玉座の間で静かに眠り続けていた。完成すれば、織神の理を地上で永遠に継承する存在となるはずであった。
その依代は、ホークが「妹のように思っていた」存在でもあった。
ホークは、依代に名前を付けたいと織神に願い出たが、織神は微笑んで首を振った。
「この子に名を授けるのは、わたしではない。この子自身が、いつか誰かに名をもらうのです」と。
その日々が、ライムランとリルドバルグの全盛期であった。
しかし――。
神界の光と魔界の闇を縫う業は、魔界の根本のタブーであった。魔界の理を守る覇王たちは、織神の研究を「魔界全土への裏切り」と断じた。彼らが動き始めたのは、織神の依代が完成に近づいた、ある夜のことであった。
魔界の理そのものを体現する四つの巨大な「絶望」が、ライムランとリルドバルグを包囲した。
暴虐の王ボシアドの咆哮が空間を歪め、宵闇の女王レブラの纏う薄絹が光を呑み込み、欲望の王ザンスインの黄金の鎖が因果を縛り、狂気の王シャキダオスの笑い声が精神の防壁を容易に踏みにじる。
四柱の魔神の本体が、睨みを強めると、魔界の大氣が弾け跳ぶ。
魔界暴虐ノ新暦、那由他永劫231251157年――。
ボシアドは漆黒と紅蓮の鬣を逆立てた巨躯の魔神であり、時に半裸となって二つの魔槍と闇のランスを扱い戦場を駆ける、闇神アーディンと同格の武を司る武神でもある。
その彼の筆頭の大眷族――。
永劫の時を仕えている死海騎士ソラキアドが率いる大部隊を連れていた。
宵闇の女王レブラは、蒼いマントを羽織り、漆黒の薄絹を纏う美貌の女神であり、宵闇衆の精鋭たちを背後に従えていた。
ザンスインは黄金の鎖を腰に巻いた狡猾な魔神であり、彼の興味は織神そのものではなく、織神の蔵に眠る吸血神ルグナド由来の秘薬、更なるはルグナドの体、その物であった――欲望の王の本領である。配下には、六眼のトゥヴァン族を筆頭とした大眷属、その数、数十万の軍勢が控えている。
シャキダオスは三つの口を持つ歪な姿の魔神であり、笑いながら糸を編む狂気の戦士たちを従えていた。
そして、魔神、覇王たちの傍らには、若き者たちも従っていた。
その傍らには、後に「闇神」の名で魔界を震撼させる若き魔界騎士アスタロトの姿があった。魔傭兵としての冷徹な眼差しは、戦火に焼かれる集落ではなく、魔神たちの背中を――その座を奪う機会を虎視眈々と見定めている。漆黒の鎧に反射する炎は、彼の野心の如く静かに、しかし激しく揺れていた。
もう一人は、若き魔界王子ライラン。
後にリルドバルグの所領を継承し、ザンクワ家との因縁の起点となる男であった。 彼はまだ若く、戦果に飢えていた。この戦いで、父祖、祖から授かった魔界王子の名と、取り込んだ『魔溶解の卵』を活かし、魔界王子ライランの名を、テーバロンテを超えるほどの名として、魔界全土に轟かせることを望んでいた。
包囲は、夜半に始まった。
四柱の覇王が同時に魔力を解放し、ライムランとリルドバルグの周辺を魔素の檻で封じた。鬼魔人と仙妖魔の祖たちは、骨塚に集まり、織神の魔塔を護るため、双角強症を共鳴させて結界を張った。ヴェルディンが炎で外壁を強化し、セラドナが水鏡で侵入者の動きを把握しようとした。ホークは未完のイーゾンを背に、塔の入口で師の指示を待っていた。
しかし――。
「諸侯よ、織神を引き渡せ。さすれば、ライムランとリルドバルグの民の命は助ける」
ボシアドの声が、夜氣を震わせた。
魔神本体の声は、それだけで魔界の地を揺らす。
鬼魔人と仙妖魔の祖たちは、骨塚の周りで膝をついた。
だが、織神は塔の頂上から、静かに首を振った。
「わたしの名は、縫境ノ織神アハシュムロン。両界の境を縫う者として、神界戦神ヴァイス一派と通じ、人形遣いの研究を極めた。それを魔界の理に反すると断ずるならば、わたしは弁明しない。ただ、わたしの研究が誰を救うためのものだったか――それだけは、ボシアドよ、お前にも分かるはずだ」
大氣が揺れた。
「裏切り者の戯言だ」
ボシアドは答え、暗緑かかった漆黒の鬣を逆立てた。
「神界と通じた者を魔界に留めれば、神界がいつでもこの地に介入できる。それは魔界全土への侵略を許す道だ。わたしは、それを許さぬ」
ボシアドが手を上げた。
筆頭眷族の狂戦士頭が、咆哮と共に魔塔へ駆け出した。
すると、ヴェルディンが炎の鎚を振り下ろし、狂戦士頭の頭蓋を粉砕した。
狂戦士頭は、自らも炎に焼かれながら、ヴェルディンの胸を骨断ちの刃で貫いた。 両者、相討ち。ボシアドの鬣が、揺れた。
数百年来の腹心を瞬時に失ったのだ。
彼の瞳に、初めて深い怒りが宿った。戦は、加速した。
レブラの宵闇衆が薄闇の中から襲来し、セラドナの水鏡が虚像を無数に展開して応戦した。鏡像と現実が混ざり合う戦場でセラドナは宵闇衆の数柱を撃破したが、自らも力尽きた。レブラの宵闇衆も、主要メンバー数柱を喪った。
ザンスインの黄金の鎖が魔塔の蔵を狙って伸び、シャキダオスの三つの口が歪な笑い声と共に鬼魔人の集落を炎で舐めた。
そして――若き魔界王子ライランが、駆けた。
彼は包囲軍の先鋒として、ライムランとリルドバルグの鬼魔人集落を最初に焼き払う実行者となった。
ライランの槍は、骨塚を護るために結界を張った祖の鬼魔人――ザンクワの祖父にあたる祭祀長――の胸を貫いた。祭祀長は、双角強症を最後の光で輝かせながら、ライランの足元に崩れた。彼の血が、骨塚の苔に染み込み、苔が静かに灯を消した。
ライランは、その死体を踏み越えて、次の家屋へと向かった。
彼の槍は、子供の手を引いて逃げようとした母親をも貫いた。
「我は魔界王子ライラン。神界と通じた者を匿う集落は、根絶やしにする」
彼の声が、ライムランの夜氣に響き渡った。
骨塚の根元で、知記憶の王樹キュルハが、そのすべてを見届けていた。
キュルハはこの地に深く根を張った樹木型の知性体であり、神界戦神ヴァイス一派と通じる織神の研究を、誰よりも理解していた。キュルハ自身も、神界との通底を試みた数少ない魔界存在の一柱であった。ただ、キュルハは「地に根を張る道」を選び、織神は「空に縫合の糸を渡す道」を選んだ――その違いだけで、両者は同じタブーを共有する盟友であった。
キュルハは、包囲側にも織神側にも与しなかった。
地に根を張った身ゆえ、動けなかったのだ。
樹冠を低く垂れ、樹皮を引き裂きながら、涙のような樹液を流し続けた。
涙は枝を伝い、根を伝い、ライムランとリルドバルグの土に染み込んでいった。
織神は、塔の頂上から、遠目にキュルハの方角を見た。
そして、静かに頷いた。言葉のない、別れであった。
戦は、夜明けまで続いた。
ヴェルディンの炎は燃え尽き、セラドナの水鏡は割れ、ライムランとリルドバルグの鬼魔人と仙妖魔の祖たちは、骨塚の周りで次々と倒れていった。生き残った数十人は、ライランの軍勢に追われ、ライムランとリルドバルグから散り散りに逃げた。彼らがザンクワやトモン、ジェンナら現代の鬼魔人の直接の祖となる。
夜が明ける頃には、魔塔の周囲には、織神とホークと、玉座の間で眠り続ける未完の依代――それだけが、残っていた。
魔神の覇王たちは、塔の入口で歩を止めた。
最後の決断は、織神本人の口から告げさせる。それが、魔神たちの矜持であった。
「織神よ、最後の機会だ。降伏せよ」
ボシアドが告げた。織神は、塔の頂上から、静かに塔の中へと姿を消した。
その時、ホークが――。
玉座の間に駆け込み、織神の前に膝をついた。
「師よ」
ホークの声は、震えていた。
「貴方を生かす道は、一つしかありません」
「ホーク、お前――」
「わたしの背の未完のイーゾンを、ここで完成させてください。そして――貴方の神格を、わたしに分け与えてください。貴方自身の縫合術を、貴方自身に施すのです。神格を分離し、その大半をわたしに移せば、貴方の本体は『神格を失った者』として、覇王たちの追及を逃れられます」
織神は、ホークの顔を見下ろした。
その瞳の中に、織神は、自分の最も愛した弟子の――純粋な、しかし途方もなく深い苦悩を、見た。
「ホーク、それは……お前を、永遠の追跡者にする選択だ」
「分かっております」
「神格を奪った者として、お前は覇王たち全員から追われ続ける。そして、わたしの研究を継承した者として、神界戦神ヴァイス一派からも、警戒される身となる」
「分かっております」
「お前は、生涯、孤独な逃亡者となる」
「……分かっております、師よ」
ホークの目に涙はなかった。彼は、ただ決めていた。
師を生かすためなら、自分の生涯を捧げると、決めていた。
織神は、長い長い間、黙っていた。そして静かに、頷いた。
「では、ホーク。お前の手で、行いなさい」
織神が、両腕を広げた。
ホークの両手が、織神の胸に震えながら触れた。
織神自身の研究――肉体と神格を分離する技法――が、織神自身の胸に施される。神格の経絡が、ホークの手の中で一本一本、丁寧に解かれていく。
それは、長い長い時間に感じられた。月が傾き夜が深まり、夜明けの星が空に滲み始める頃――織神の神格の大半が、ホークの胸へと、流れ込んだ。
光の奔流が、ホークの背の未完のイーゾンを、揺さぶり、書き換えていった。未完の人形が、織神の神格を取り込んで、新たな形を取り始めていた。後に魔倶魔神イーゾンと呼ばれる存在の――胎動であった。
夜明けの天蓋の遥か高みに、白い羽根のような光が一瞬、瞬いた。
光導の女神ファレヴィアが、遠く神界から、織神の最後の選択を見届けていたのかもしれない。だが、神界と魔界の境を縫う術を失った今、ファレヴィアにできることは、ただ見届けることだけであった。
魔神たちは、塔の頂上から立ち昇る光の柱を見た。
ボシアドが舌打ちした。
「織神め、最後の悪あがきか」
魔界の神々は、塔へと駆け始めた。
しかし、塔の中では――神格を大半失った織神が、ホークの肩に、手を置いた。
その手の温かさは、もはや神格を持つ者の温度ではなく、ただの慈愛の温度であった。
「ホーク、お前の選択も、理解する」
織神は、微笑んだ。
「お前は、わたしを救おうとしてくれた。同時に、お前自身の中に、わたしの研究を引き継ぎたいという願いもあった。両方とも、真実だ。わたしは、どちらも、否定しない」
ホークが、初めて、瞳を歪めた。
「師よ、わたしは――」
「言うな、ホーク」
織神は、首を振った。
「お前の選択が、わたしを救うものであったか、わたしを殺すものであったか――それは、お前自身が、これから二千年かけて答えを出すべき問いだ。わたしは、その問いに答えを出すなとは言わない。ただ――」
織神の瞳が、塔の上方を、見上げた。
「ただ、最後の核だけは……地に降ろさせておくれ」
ホークが、息を呑んだ。
織神の胸の奥深く――ホークが分離しきれなかった、織神の中核――最も母性的な、最も慈愛に満ちた部分――が、まだ残っていた。
織神は、その最後の核を、自らの手で、胸から取り出した。
光の珠が、織神の手の中で、淡く脈打っていた。
それは、織神が二千年かけて温め続けた、依代を産み落とすための「母性の循環装置」であった。
「ホーク、わたしの娘のことは、頼んだ」
「師よ――」
「わたしは、地に降りる。雲となって、地上にわたしの娘を、産み落とし続ける。永遠に。それが、わたしの最後の――」
織神は、最後の言葉を、言いきらなかった。
最後の核を、両手で、塔の頂上へと、放った。
光の珠が、塔の頂上の銀色の球体を貫き、夜明けの空へと、舞い上がった。
そして――空に、雲が、生まれた。
紫掛かった結晶の雲が、瞬時に、ライムランの上空に展開された。
雲は織神の最後の核を中心に、織神の神格の残滓を吸い寄せ、織神自身の魂の輪郭で凝固した。
雲から銀翠の雨が降り始めた。
それは、織神が流す、永遠の涙であった。
弟子を許しながら、神界戦神ヴァイス一派との縁を絶ちながら、ライムランとリルドバルグの鬼魔人と仙妖魔の祖たちの死を悼みながら――流し続ける、母の涙であった。
雨が降り始めると同時に織神の体が崩れ始めた。
崩れる血肉と骨は、人族の血や骨の組成ではなかった。
それは、別種の生命の根幹を成す高分子――地球生命圏の常識からは外れた、未知の組成――が解けて、光輝へと還っていく崩壊であり新たな始まりの種であった。
織神は、最後まで、人族の死とは異なる、別種の生命としての終わりを迎えた。
ホークは、塔の窓辺で織神の崩壊を、見届けた。
彼の目には、涙があったかもしれない。
あるいは、なかったかもしれない。
誰にも、それは、分からなかった。
なぜなら――ホークは織神の崩壊を見届けた直後、塔の入口へと駆け、魔神の神々の包囲を未完のイーゾンの一撃で突き破り、ライムランの結晶雲を突き抜け、去ったからである。
ホークが背を向けて去る、その瞬間――彼の背に張り付いた未完のイーゾンが、初めて、彼自身の意志とは別に震えた。
人形が震えたのか、ホークの背が震えたのか、それを判別する者は、その場に、誰もいなかった。
魔神たちは、塔へ突入した。
しかし、そこには、もはや、織神の肉体も、ホークの姿もなかった。
玉座の間には、未完の依代――四つの腕を持つ少女の人形――だけが、静かに座っていた。魔神たちは、依代を見た。ボシアドは舌打ちした。
「織神の人形か……取り逃がしたな。だが、肉体は崩れ、神格も奪われた。織神は実質、もはや存在せぬ」
「あの空の雲は……」
レブラが漆黒の薄絹を翻しながら、空を見上げた。
「織神の遺骸の……氣配がする」
「神格を失った遺骸など放っておけ。雲となって魔界の風に流されれば、いずれ消える」
ボシアドは、そう告げて、踵を返した。
覇王のような魔神たちはライムランとリルドバルグから引き上げ始めた。
その時、若き魔界王子ライランが、ボシアドの背に向けて、声を上げた。
「ボシアド、リルドバルグの所領は、我が継承したい」
「好きにせよ」
ボシアドは、振り返らずに告げた。
ライランの瞳に、勝利の光が宿った。
彼は、リルドバルグの所領化を、その場で宣言し、二千年来の支配権を、確立した。
若き魔界騎士アスタロトは――。
魔神たちが引き上げる中、密かに塔の中へ戻り、織神の研究室の遺物を片端から探り始めた。彼の手には、いくつかの魔具と、書きかけの研究書が握られた。
彼は、それらを密かに己の懐に納め、その日の戦果として、ボシアドへの報告には含めなかった。
その日の戦いが、後に「闇神アスタロト」と呼ばれる存在の――成り上がりの原点となった。
知記憶の王樹キュルハは、そのすべてを見届けた。
彼の樹皮の傷は、二千年経っても、塞がらなかった。
樹液の涙は、二千年経っても、止まらなかった。
雲が空に固定された。
雲は、織神の最後の遺志に従い、地上にミトリ・ミトンを産み落とす循環装置として、機能し始めた。
最初の「現象」が、銀翠の日に、生まれた。
二代目の「現象」が、次の銀翠の日に、生まれた。
三代目、四代目、五代目――。
歴代の「現象」たちは、それぞれが、アバドンの丘から少し離れた窪地、大魔塔に生まれていく。それぞれが、何らかの形でこの世から消えていった。
或る者は魔街異獣に喰われ、或る者は覇王たちの追跡で散り、或る者は名もなく息絶えた。彼女たちは、織神の最後の核から滴り落ちる「娘たち」であり、母から永遠に繰り返し産み落とされる、悲しい連鎖であった。
そして――三十八代目の「現象」が、生まれた。
彼女は、大厖魔街異獣ボベルファに選ばれた。ボベルファは、彼女を背に乗せ、彼女の杖と『聖なる膜』を護った。彼女は、ボベルファと共に魔界を旅し、魔界騎士ライランや厖婦闇眼ドミエルや、因縁の魔傀儡師ホークに追われ続けた。
彼女の名は、ボベルファに乗ってから、ミトリ・ミトンとなった。
彼女自身が、自分に名を授けた。
それは、織神が二千年前に告げた預言――「この子に名を授けるのは、わたしではない。この子自身が、いつか誰かに名をもらうのです」――の、ささやかな成就であった。
そして、シュウヤ・カガリ陛下と出会った。
光魔ルシヴァルの宗主と――。
□■□■
俺たちの周囲は、まだ、廃墟と銀翠の雨の景色。
ただ――俺たち全員の頬を銀翠の雨が優しく濡らしていた。
否、それは雨ではなかった。雨は、まだ止まっていた。
逆流したまま宙空で静止していた。
俺たちが頬に感じていたのは――俺たちの目から勝手に流れ落ちる、涙だった。
「ん、これ……ミトンちゃんの母さんの、最後の微笑み。……温かくて、とっても悲しい味」
エヴァが、自身の胸元を愛おしそうに押さえながら呟く。
彼女の紫の瞳が現在軸の光を反射し、世界を覆っていた記憶の残滓が、静かな雨音と共に霧散していった。
ヴィーネが、〝星見の眼帯〟の縁を、震える指で、押さえていた。
レベッカが、片手で顔を覆っていた。
ユイが、刀の柄から手を離し、もう片方の手の甲で、目元を拭っていた。
キサラが、深く首を垂れていた。
キュベラスが、低く、唇を噛んでいた。
そして、ミトン――。
ミトンの四つの腕は、震えていた。
上腕二本で口元を押さえ、下腕二本で『聖なる膜』を抱きしめるように、自分自身を、抱いていた。銀緑色の瞳から、銀の涙が、絶え間なく流れ落ちていた。
「お母様……」
ミトンが、初めて、その言葉を、口にした。
そして、彼女は、自分が知らなかったはずの「お母様」という言葉を、自然に、口にした自分自身に、驚いていた。ミトンの『聖なる膜』が、震える。
膜の表面に、織神の意匠――白磁と銀の縞模様――が、淡く、浮かび上がる。
それは、彼女の中に、織神の最後の核と通じる回路が、刻まれていることの、証しだった。
エヴァが、車椅子からふわりと浮き上がり、ミトンの傍へと近付いた。
紫水晶色の<血魔力>が、エヴァの細い指先から、繊細な網となって伸びる。
その網が、ミトンの『聖なる膜』に、優しく触れた。
「ん、ミトンちゃん、わたし、入っていい?」
「……エヴァ様」
「ん、寂しい味、する。一人で抱えるの、つらい」
エヴァの<霊血導超念力>が、『聖なる膜』に、溶け込み始めた。
五感を共有する精神結合。エヴァの紫水晶の<血魔力>が、ミトンの『聖なる膜』に静かに浸透し、二人の感覚が一つになっていく。
――エヴァの傍に立ち、彼女の肩に、手を置いた。
俺の神座:神律の適格者の理が、エヴァの<霊血導超念力>を経由してミトンの『聖なる膜』へと伸びていく。すると、俺たち三人の感覚は、一つの場所へと繋がっていった。
その繋がりが――。
廃魔塔の最深部の闇をゆっくりと――こじ開けていった。
意識は、廃墟の中ではなく、廃墟が記憶している奥へと、降りていった。
崩落していたはずの石材の隙間が、開いた。苔に覆われていたはずの石段が、現れた。崩れていたはずの玉座の間が、姿を、現した。
そして、その奥に――。
四つの腕を持つ少女の人形が、玉座に、座っていた。
古い、依代だった。
二千年前、織神が完成させずに残した、未完の人形だった。
彼女の銀緑色の瞳は、開いていた。
しかし、生命の光は、宿っていなかった。
ただ、玉座の主の帰還を、ひたすら、待っていた。
依代の四つの腕は、玉座の肘掛けに、静かに置かれていた。
その指先は、わずかに、ミトンの方角へと、伸びていた。
二千年間、彼女は、ここで、ただ、待っていた。
ミトンが、息を呑んだ。
「あれは……わたし、なのですか」
「……」
俺は答えなかった。
答えられなかった。
依代の姿は、ミトンと、似ていた。
四つの腕、銀緑色の瞳、銀色の薄い髪。
だが、依代のほうが、わずかに、古かった。
ミトンより、わずかに、年上だった。
否、年上というよりは――より織神に近い姿だった。
依代は、織神の研究の集大成として完成しかけていた初代の依代――母から最も多くを受け継いだ、姉のような存在だった。
「ミトン」
彼女を、呼んだ。
「あれはお前じゃない。お前の――姉だろう」
ミトンの銀緑色の瞳が、揺れた。
刹那、ミトンの『聖なる膜』が、強く、脈動した。
彼女の中に、雲の中の織神の核から、何かが流れ込んでくる感覚を、エヴァ経由で俺も共有した。それは、母から娘へと、最後の言葉が伝えられる感覚だった。
「……皆様」
ミトンが、ゆっくりと、口を開いた。
「わたくしは……母の元に、還ります」
「ミトン――」
「これは、わたしが産み落とされた、意味なのでしょう」
ミトンの声は、震えていたが、決意に満ちていた。
「歴代の三十七人の姉たちが、それぞれの形で消えていったように、わたしも、母の元へ還る順番が、来たのです。母は、雲の中で、ずっとわたしを待っておられました。『待っておったぞ』と呼びかけてくれたのは、母の最後の核の、慈愛の声でした」
「ミトン」
「わたくしは、ボベルファ様と、皆様と、シュウヤ様と出会えた、それだけで十分です。最古の傷を癒やしていただいたのも、最古の温もりを与えていただいたのも、皆様です。だから、わたくしは――」
ミトンの上腕二本が、ゆっくりと、雲の方角へと、伸びた。
「母の元へ、還ります」
ボベルファが、城壁の縁から、低く、震えるような咆哮を上げた。
「ボォォォン――」と、それは、空そのものを震わせる、悲嘆の咆哮だった。
ボベルファの背の鬼魔人と仙妖魔の住民たちが、双角強症の光を激しく明滅させながら、ミトンの方角を、見つめていた。
ザンクワが、双角の銀緑色の光を弱めながら、ミトンの背に、視線を伏せた。
彼女の祖が、二千年前に織神を守れずに散ったように、今また、織神の娘を、守れずに失う――その悲しみが、ザンクワの肩の震えに、現れていた。
神槍ガンジスの柄を、強く、握り直した。
ミトンの『聖なる膜』と雲の中の織神の核との同期は、もう、ほとんど完了に近づいていた。膜の表面の幾何学模様が雲と完全に共鳴し、ミトンの個体性が、雲へと吸い上げられる準備が、整っていた。
あと、わずかな時間で――。
<隻眼修羅>を、発動した。この魔眼なら、いける、魂の核を視る瞳――。
右の隻眼が淡い緋色に、燃え上がる。
俺の視界が雲の中の織神の核へと、伸びる、そこに、織神の最後の核の魂のコアが、あった。慈愛に満ちた、母性の塊だった。
二千年間、地上に娘を産み落とし続けてきた、温かい循環装置の中枢。
しかし――その慈愛の奥に、もう一つのねじくれた構造を、捉えた。
それは、織神自身の意志ではなかった。
雲が魔界の風に二千年晒され続けたことで、雲の中の織神の核が、緩やかに、別種の何かへと、変質し始めていた。慈愛は、まだ、本物だった。
だが、慈愛の中心には、雲が自己保存のために娘の魂を取り込み続けようとする、本能的な飢えが、ねじくれた糸のように絡まっていた。
雲が娘を産み落とすのは、慈愛のためだけではなかった。
雲は、娘を産み落とし、雲の中に還らせ、また産み落とし、また還らせ――その循環で、雲自身の存続を、二千年間、辛うじて維持してきていた。
<隻眼修羅>が暴いたのは、慈愛の皮を被った「生存の呪い」。
慈愛ある母であり、同時に、娘を呑み込む装置――。
あの結晶雲は、織神の遺志を核に据えながらも二千年の歳月で自己保存を唯一の目的とする非情な循環装置へと成り果てている。
ミトンが還れば、雲は彼女の個体性を吸収し、また次の銀翠の日に新たな「現象」を産み落とす。
今、ミトンを呼んでいる「お母様」の声は、織神の残滓と、雲の自己保存本能が混ざり合った、半分しか本物ではない声だった。
――ミトンが雲に還れば、彼女の「個」は消滅する。
それは母娘の再会などではなく、ただ装置の部品として磨り潰されるだけの無機質な回帰だ。二千年の摩耗で意志が薄れ、純粋な循環装置と成り果てた雲への「呑み込み」でしかない。
ギリッ、と強く唇を噛んだ。
神座:神律の適格者の理が、俺の中で、静かに、しかし力強く、立ち上がった。
神を、理として喰らい、その法を自らの血肉とする――それが、神座の本質。
今まで、俺は、それを「戦闘の結果としての喰らい」として使ってきた。
ボーフーンを討伐し、彼の神格を喰らった。
それは、勝者の権利としての当然の獲得だった。
しかし、今回は――決めた。
今回は、「救済のための喰らい」を、する。俺の神座が、雲の中の織神の核を、理として喰らう。喰らうことで雲の循環装置を止める。
ミトンを、母の元へ還らせる必要をなくす。
ただし、その代償は――。
織神の最後の意志の残滓も、雲の中の神格痕跡も、すべて、俺の中に取り込まれる。
織神は、これで、完全に、この世から消える。
ミトンが「母を喰らう」のではなく、俺が「ミトンの母を喰らう」。
その罪を、俺が、引き受ける。
「ミトン」
彼女を、呼んだ。
ミトンの上腕二本が、雲へ伸びかけていた状態のまま、止まった。
彼女が、振り返る。銀緑色の瞳に、銀の涙が、まだ、零れていた。
「お前は、母を喰らわなくていい」
ミトンの瞳が、大きく、見開かれた。
「俺が、喰らう」
「シュウヤ様――」
「神座を持つ俺が、織神の核を理として喰らい、循環装置ごと、俺の中に取り込む。お前は、雲に還る必要が、なくなる」
「そんな……シュウヤ様、それは……」
ミトンが、震える唇で、言葉を、紡ごうとした。
「それは、母を……二度殺すことになります。母の最後の意志も、消えてしまいます」
「あぁ」
俺は、頷いた。
「だが、二千年で雲は変質した。母の意志は、もう、ほとんど残っていない。残っているのは、お前を呑み込もうとする、循環装置の本能だけだ」
「……」
「ミトン、お前の母さんは、もう、二千年前の夜明けに、肉体と共に逝ったんだ。今、雲の中にあるのは、母さんの『願いの残滓』と、雲そのものの『生存本能』の、混ざり合ったもの。本物の母さんは、もう、いない」
ミトンの目から、銀の涙が、新たな勢いで、零れ落ちた。
「……シュウヤ様」
「お前が雲に還ったら、お前も、母さんの『願いの残滓』と一緒に、雲の生存本能に、呑み込まれる。お前という個体は、消える。だが、母さんも、それを望んじゃいない」
「……」
「お前を、ここに引き留める。それが、俺が、お前の母さんに代わって、選ぶ道だ」
ミトンの肩が、震えた。
彼女は、四つの腕を、自分の体に巻きつけるように、抱きしめた。
そして、ゆっくりと、頷いた。
「……はい」
「いいか」
「はい、シュウヤ様。……母を、お願いいたします」
ミトンの声は、震えていたが、強かった。
笑顔を贈ってから――。
神槍ガンジスを、廃魔塔の頂上の方角、雲のある方角へ向けた。
双月刃が月のような白い光弧を、結ぶ。
神魔石が、青白い波紋を、強く、広げた。
<光穿>ではなく、<神律の喰理>――今、俺が即興で名付けた、神座の理を直接喰らうための新しい形。
真上へと飛翔し、廃魔塔の頂上を貫いて雲へと向かう。
そして<仙魔・龍水移>――
転移し、神槍ガンジスの穂先から緋色と蒼白の混じる光輝が立ち昇った。
光輝は、神座:神律の適格者の理を、最大限に解放した形。
俺の右の<隻眼修羅>が、雲の中の織神の核を、正確に、ロックオンする。
神槍ガンジスを天蓋へ向けて振り抜き、一閃。
噴き上がった太い白光の戈は、不可侵であるはずの神域を強引にこじ開け、循環装置と成り果てた心臓部――その『最後の核』を鷲掴みにした。
神座の理が、ねじくれた二千年の執着を解体し、純粋な魔力の奔流へと強制的に変換していく。
それは略奪ではなく、傲慢なまでに純粋な救済の捕食だ。
神を、理として、喰らう――。
雲の中の織神の核が俺の中へ流れ込んでくる。
慈愛、母性、循環の法、縫合の理――それらが神槍ガンジスを経由して、俺の魂の深淵へと、降りてくる。痛みではなく優しさ、愛の理の重さは、凄まじい……神座:神律の適格者としての器が弾けそうだが、あの少女の心を思えば、俺の神格なんてもんは、ただの役立つ道具でしかない――。
刹那、雲の中から、
『……シュウヤ・カガリよ……ああ、その温かい腕に。わが娘を、よろしく頼みます』
俺の魂に直接響いたのは循環装置のノイズを振り切った本物の「母」の祈り。
……託す声だった。
幾星霜とした孤独の果てに……自分の娘の未来を、託せる想いという安堵が、俺の胸の奥で黄金の粒子となって弾けた。
やせ我慢氣味に、
「――あぁ、任せろ」
自然と出た誓いに応えるように世界の色が塗り替えられた。
静止していた銀翠の雨粒が、内から爆発するような黄金の輝きを放ち、この廃墟の地と遠くのリルドバルグの負の螺旋を慈愛の光で洗い流していく。
幾星霜に及んだ涙の連鎖が、ようやく祝福の光へと昇華された瞬間か。
急降下――。
ミトンは両膝をついて、空を見上げていた。
その体は微かな銀の光を帯びて脈打ち、四つの腕で抱きしめていた『聖なる膜』は銀色のスライムのように液状化して彼女の肌へと静かに溶け込んでいる最中だった。銀緑色の瞳から、金色に染まった涙が零れ落ちていく。
ボベルファが、低く、深く、ボォォォンと咆哮を響かせ、その音圧波紋が金色の光を優しく揺らした。
鬼魔人と仙妖魔の住民たちが、一斉に膝をつき、双角強症の光で、空に礼を捧げた。
すると――雲が、晴れた。
二千年間、この地に固定されていたライムランの結晶雲が、ゆっくりと、消えていった。紫掛かった結晶の粒子が、金色の光と混じり合いながら、空へと拡散し、やがて、見えなくなった。空には、魔界の蒼黒の天蓋だけが、静かに、残った。
銀翠の雨は、止んだ。
二千年来、地上にミトンの姉妹たちを産み落とし続けてきた、永遠の涙が、止まった。
そこに風を感じた。
純粋な魔界の清冽な風――澱みのない氣の流れが、全身を突き抜けていく。
ザンクワが、
「……雨が、止んだ……」
と、震える声で、呟いた。
「あぁ」
神槍ガンジスの穂先の双月刃が最後に青白い波紋を一度だけ広げた。
己の中で織神の核と循環の法と、縫合の理が神座の理に組み込まれていく感覚があった。胸の奥が温かかった。
二千年分の母性が、そこに宿っていた。
キサラが、
「シュウヤ様、神格を喰らった分は、後で、魔皇碑石に移されればよろしいでしょう。スラウテルの傷場の近くか、砂城タータイムや魔導要塞陣地の核として利用。また砂城タータイム内に納めれば、砂城タータイム内部の【鍛冶所】など、〝星霜の運行盤〟の強化可能になるかもです」
「はい。神格を封じた魔皇碑石があれば、第二の魔力源。保険となりますし、パブラマンティたちのところで、魔法や魔導人形の研究しているクナたちの仕事になるかと思いますが、〝七雄七竜を封じた時仕掛けノ砂城タータイム〟を造り上げた、賢竜サイナガンによる<時仕掛けの空間>の解明など、今後の研究も、より捗るかもしれません」
「そうね、砂城タータイムの内部に設置した魔皇碑石だけど、もう結構消費しているかもでだし、新しく神格を入れた魔皇碑石を設置するのはアリだと思う」
レベッカの言葉の後、ユイが、
「たしかに、エネルギー源、魔力源となっていた神座:神眷の寵児だけど、さすがに、転移しまくっているし、この戦争で防壁修復は何度もされていた。内部の特殊な空間を維持できているだけの魔法防御力の源も、あの地竜ガイアヴァストや七雄の魂だけではないはずだからね」
「ん、シュウヤの魔皇碑石が利いていただけで、都合の良い無限ではない、有限は絶対だから」
皆の言葉に頷いた。
今回の織神核も、同じ手順で処理すれば、有益に使える。
惑星セラにて、魔皇碑石に入った神格を解放したらどんなことになるんだろう。
かなりヤヴァいか。
「……ご主人様」
ヴィーネが、隣に寄り添うように立った。
彼女の〝星見の眼帯〟の銀光が優しく、揺れていた。
「神を理として喰らう神座の力を、初めて『救済のために』使われました。これは、神座の質の、一段の深まりです」
「あぁ、まぁな」
すると、ミトンが、四つの腕で『聖なる膜』を抱きしめながら、ゆっくりと、立ち上がった。
「……シュウヤ様の『縫合の理』の発現状態を、確認したいです」
と、聞いてきた。
「いいぞ」
彼女の銀緑色の瞳から、まだ、涙が、零れていた。
だが、その涙は、もう、悲しみだけの涙では、なかった。
「そして、シュウヤ様、わたくしは……今、生きていてもよいのですね」
「当たり前だ、生きてなんぼ」
ミトンの頭に、手を置いた。
「お前の母さんが、最後に俺に託した。それはつまり、お前を生かす権利と義務を、俺に与えた、ということだ。お前は、生きていろ。生きてボベルファと共に、俺たちと共に、これからも歩け」
「……はい」
ミトンの『聖なる膜』が、淡く、銀緑色の光を、放った。
もう、雲との同期の光ではなかった。
ミトン自身の、純粋な、個体としての光だった。
その時――廃魔塔の崩れた尖塔の上空から、墨色の魔力が、滲み出した。
即座に、神槍ガンジスと無名無礼の魔槍を、構え直す。
ナナシが、墨色の炎を、柄から滲ませた。
「主、来やがった」
「あぁ、分かってる」
魔傀儡師ホーク。
彼の極細の傀儡糸が、崩れていた廃魔塔の頂上から降り注いできた。
糸は、銀翠の雨が止んだ空氣の中で、より鮮明に、視認できた。
無数の極細の糸が、廃墟全体を覆うように降り注いでいた。
それはホークの戦闘陣形、魔倶魔神イーゾンを背負った状態での、本格的な襲撃の構えだった。しかし――。
ホークの本体はまだ、現れなかった。
<隻眼修羅>の緋色の光を、空に向け、解放した。
視界の中で、廃魔塔の崩落した尖塔の影に、ホークの姿が、辛うじて、捉えられた。
彼は、半身を晒していた。背負うのは人形、傀儡。
先程の過去の記憶にあった通りなら、あれは魔倶魔神イーゾン。
その神格が半分欠落しているということか。歪な半身からは、墨色の魔力が絶え間なく漏れ出していた。
ホークの顔には生氣がなく、亡霊のように沈んだ色をしている。
震える口元から、
「貴様……織神核を……喰らっただと……」
絞り出すような声、狂氣でもなく悲哀でもなく、ただ、深い虚無の色を帯びていた。
「二千年だ、貴様……。我は、二千年、師の核を取り戻すために、生きてきた……。それが、貴様一人の喰らいで、消えただと……」
ホークの傀儡糸が、廃墟全体を覆うように、震えながら、絡まり始めた。
その時、ヴィーネの銀蝶が舞うと、番われた光線の矢が、分裂し広がっていく、宙空で陣形を組み、光線の矢かれ漏れた<血魔力>の糸の一本一本にコヒーレントな光線を放った。
糸が、銀の光線で次々に断ち切られていく。
ユイの<ベイカラの瞳>が白銀の閃光を放ち、糸の経路すべてに縁取りの刻印を打ち込んだように<血魔力>の塊が浮かぶ。
レベッカの蒼の炎が、空中に展開し、糸を蒼炎で焼き払う。
キサラの魔槍が、虚空を切り裂き、糸の絡まりを切断していく。
キュベラスが、<異界の門>を背後に展開し、撤退経路を確保する。
外周防衛網が、完璧に、機能していた。
ホークは、玉座の間まで、届かなかった。
神槍ガンジスを、ホークの方角へ、向けた。
「ホーク」
と呼びかけ、凝視。
「お前の二千年は無駄じゃない。お前の選択は、織神を一度は救った。そして、お前自身が二千年逃亡者として生き延びてきた事実は、織神が、最後に『お前の選択も理解する』と告げた言葉を、お前自身が二千年かけて、証明してきたんだ」
「貴様に……何が分かる……」
「分からんさ、だが、織神は、お前を許して逝った。俺は、その織神の意志を引き継いだ。だから――」
と<隻眼修羅>の緋色の光を、強めた。
「お前を、今、ここで、討たない」
「……」
「ホーク。その狂氣じみた執念は、今は矛に収めておけ。お前が二千年の逃亡の果てに得た答えが、ただの『空虚』なのか、それとも確かな『意志』なのか。それを見極めてから、再び俺の前に立て」
神槍を下げ、墨色の影を見据えた。
「その時が来たら……俺はお前が愛した師から受け取ったこの『温かさ』で、お前の二千年のすべてを真っ向から受け止めてやる」
廃墟を覆う静寂の中、ホークは長い間、言葉を失ったかのように黙り込んでいた。
彼の傀儡糸が、ゆっくりと、引き上げられていく。
ヴィーネとユイの攻撃も彼の本体に届く前に、ホーク自身が、撤退を選んだ。
ホークの最後の声が廃魔塔の影から、
「シュウヤ・カガリ……我は、貴様を、絶対に、許さぬ。だが、織神が貴様に最後の核を託したのなら……我は、貴様が織神の遺志を、汚さぬか、見届ける義務がある……」
「あぁ、見届けろ」
「次に会う時は……我は、二千年の答えを、貴様にぶつける」
「期待してる」
ホークの姿が墨色の影と共に消えた。
彼の傀儡糸は、ユイの<ベイカラの瞳>の刻印を、空間に残したまま撤退していった。次に再戦する時、ユイの魔印がホークの位置を正確に捉えるだろう。
廃魔塔の崩れた尖塔の崩落音が、ゆっくりと響いた。
二千年間、織神の核を上空に繋ぎ止めていた魔塔は雲が晴れたことで、最後の役目を終え、ゆっくりと、崩れ落ち始めていた。
廃墟から、ボベルファの背の方角へと、後退した。
そこに巨大化した相棒がスッと頭部を差し出してきた。ロロディーヌの頭部に皆で飛び乗り、崩落する廃魔塔から十分な距離を取った。
ミトンが振り返る。
崩れていく魔塔を見上げ、
「お母様……」
彼女の声は、もう、悲しみだけではなかった。
深い、深い、安堵と決意の混じった声だった。
「わたくしは、これからも、ミトリ・ミトンとして、生きていきます」
崩れる魔塔の上空に、最後の銀翠の粒子が、金色の光と混じりながら、空へと、拡散していった。ザンクワが、ミトンの隣に、寄り添うように、立った。
彼女の双角強症は、もう、明滅していなかった。
ただ、淡い銀緑色の、安らかな光を、宿していた。
「ミトン様」
「ザンクワ様」
「これからは、共に、参りましょう」
「はい」
二人の四つの腕と、双角の鬼魔人が、互いに、視線を交わした。
二千年前にライムランとリルドバルグの地で散った祖たちと織神の意志が、二人を通じて、現代に、繋がっていた。
その光景を、見ながら、ふと、空を見上げた。
雲のない、純粋な魔界の蒼黒の天蓋が広がっていた。
「数千年ぶりなのでしょうか、結晶雲が消えた魔夜世界は……」
キュベラスが周囲の古き者たちへ問いかける。その問いに四眼ルリゼゼは、
「……四眼ルリゼゼは父さんと一緒に森に行く……」
と、呟きながら、涙を流すと、涙を拭い……己の魔剣の一つを見ると頷いて、
「そうだろう……我が知るアバドンの丘の景色とは異なる……」
と発言した。キスマリは応えず、頷きながら遠くを見やる。
アバドンの丘、ライムランの地、リルドバルグの景色はかなり変化している。
――その天蓋の彼方、遥か高い場所に、〝魔神殺しの蒼き連柱〟と〝魔神殺しの紅蓮なる連柱〟が、まだ、屹立していた。
今回、織神核を喰らったことで、〝魔神殺しの蒼き連柱〟が、また一本、新たに発生したらしい。神格殺し相応の徴が、空にまた一つ、刻まれた。
神々と諸侯は、これを察知するだろう。
ボシアド、レブラ、ザンスイン、シャキダオス――二千年前の織神断罪事件の当事者たち。闇神アスタロト――かつての若き魔界騎士。
魔界王子ライラン――リルドバルグの所領主。
彼ら全員が、織神核を巡る二千年来の追跡の果てを、今の俺に奪われた形になる。溜め息を吐いた。
アバドンの丘は、七つ巴の争いとなるのか?
覇王碑石群、神格痕跡、戦闘技法の残響、神界戦神ヴァイス一派の干渉痕跡、傷場候補地――南方の権益地としての、アバドンの丘の総合的な争奪戦が、近い。
そして、ホーク。
彼も二千年の答えを出すために、再び、俺の前に、現れるだろう。
「ま、その時はその時か」
軽く、呟いた。
神槍ガンジスを、納めた。
無名無礼の魔槍も、納めた。
胸の奥に宿った織神核の温かさを、一度、深く、感じてみる。
ヴィーネが、誇らしげな眼差しで俺の右腕を抱き、レベッカが安堵の吐息と共に左腕に身を寄せた。エヴァは「ん、」と短く頷き、紫水晶のような魔力で俺たちの周囲を柔らかく包み込む。
ユイが、刀の柄に手を添えながら、俺の隣に、立った。
白銀の瞳はゆっくりと黒い瞳に戻っていく。
愛のある微笑み。不可能な救済への、揺るぎない敬愛が灯っていた。
キサラが、深く一礼してから、俺の背後に、控えた。
キュベラスが、<異界の門>を閉じ、俺の後方で、静かに、「ふふ、この場立ち会えることは、私は<筆頭従者長>として非常に誇らしいです……」
あのキュベラスが泣くとはな。
そして、ミトンが、四つの腕で『聖なる膜』を抱きしめながら、俺の前に、立った。
「シュウヤ様」
「おう、どうした」
「わたくしは……正式に、シュウヤ様の眷属となることを、希望いたします」
彼女の銀緑色の瞳が、強く、輝いた。
「ボベルファ様も、それを望んでおられます。鬼魔人と仙妖魔の住民たちも、賛同してくれています。わたくしは、もう、独りの『現象』では、ありません。皆様と共に、歩む者です。だから――」
「あぁ、分かった」
頷いた。
「眷属化の儀式は、改めて行おう。皆も揃った、然るべき場所で。今ここでは、お前の母さんへの最後の弔いを、優先したい」
「……はい」
ミトンが、深く、頷いた。
俺たちは、ロロディーヌの頭部の上でライムランの地の廃墟が、二千年ぶりに開けた蒼黒の天蓋の下で、静かに崩れていく光景を、見守った。
ボベルファの咆哮が、低く、深く、響いた。
鬼魔人と仙妖魔の住民たちが、双角強症の光で、空に、別れの礼を、捧げた。
知記憶の王樹キュルハの遠い気配が、二千年ぶりに、樹皮の傷を、静かに、塞ぎ始めるのを神座の理を通じて、感じ取った。
雲の消えた清浄な天蓋を、新たな〝魔神殺しの蒼き連柱〟が貫いている。
新たに一本か、神界セウロスへの至る道と、自然と思い浮かべた。
その光景を、遠く、アバドンの丘の彼方から、複数の視線が、感じ取っている氣配があった。誰かは分からない。
だが、いずれ、その視線の主たちと対峙することになる。
闇に潜む魔神、覇王たちの網膜を、この鮮烈な白光が今、激しく焼き焦がしているに違いない。
「ま、来るなら、来い」
胸の奥で、織神の最後の核が、静かに温かく脈打っていた。
神座の理に、新たな「縫合の法」が、加わった感覚があった。
眷属の魂と肉体の縫合――引き裂かれた魂の統合――傀儡を解いて元の魂を解放する――。
これからの戦いで、この理が、何度、必要になるか、分からない。
だが、俺は、それを織神から受け取った。
ミトリ・ミトンの母から託された……。
二千年の重みを、胸に抱えていると――。
「ンンン――」
大きい神獣ロロディーヌが喉声を鳴らしつつゆっくりと進み始めた。
ゆっくりと、ライムランの廃墟に別れを告げる。
ボベルファが、低く咆哮しながら、その後に従ってきた。
毒薔薇特務大隊の側翼陣形が、上空で、再び、輪を組み直した。
南東の地平線の彼方、アバドンの丘の血錆色の起伏とリルドバルグの窪地が、夕闇の中に、ゆっくりと、沈んでいった。
続きは明日、HJノベルス様から書籍「槍使いと、黒猫。1巻~20巻発売中」
コミック版1巻-3巻発売中。【お知らせ】設定資料・外伝等の保管庫(note)を開設しました。
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最初の投稿として、書き下ろし限定SS『迷宮都市イゾルガンデの裏側で』(ロロとフォティーナの活躍劇)を公開しています。今後はシュウヤ視点の小話や、本編では書ききれなかった設定をまとめた「槍猫」の総合アーカイブとして、無料・有料を織り交ぜながら更新していく予定です。
本編とあわせて、ぜひこちらもお楽しみください。




