二千百四十三話 武神カシナハの大宿の温泉と、とある鍼師
アシュレイは、
「さぁ、行こう! 玄関の中で、私の話に興味を持ったカシナハも待っている」
「了解」
アシュレイと共に開かれている大きい玄関を潜って、武神カシナハの大宿に入った。
館内は外の喧騒が嘘のように静まり返り、磨き上げられた黒光りする床板がどこまでも続いている。
ほんのりと香る硫黄と薬草の匂いが、極上の湯治場としての風情を漂わせていた。
壁には年代物の槍や剣が飾られ、戦神を象った勇壮なタペストリーがいくつも掛けられている。
武芸者たちが集う宿だけあって、豪奢でありながらもどこか質実剛健な造りだ。
「おぉ、アキレス様と皆様、よくぞお越しくだされました!」
宿の主らしき恰幅の良い男、カシナハが揉み手で出迎えてきた。
手配は既にアシュレイが済ませてくれていたようで、カシナハ自身の案内の元、俺たちは最上階へと向かう。
軋み一つない幅広の階段を上り、長い廊下を進む。
すれ違う仲居風の獣人や魔族の従業員たちも、洗練された所作で深く頭を下げていく。
途中の大きな窓からは、タンダールの煌びやかな夜景と、白く煙るグレートイスパルの大滝が間近に見えた。
案内されたのは最上階を贅沢に使った特別室。
踏み心地の良い厚手の絨毯に、巨大な魔獣の毛皮、魔導石をあしらった調度品が品良く並べられている。
そして奥には、専用の貸し切り大露天風呂も備わっていた。
「まずは汗を流そうか。シュウヤ、大滝を見下ろす露天風呂は格別じゃぞ」
「はい、楽しみです」
黒猫は俺の肩から飛び降り、「にゃ~」と女湯の方へトコトコと向かっていった。
そっちに行くのか。
レベッカやヴィーネたちが「ふふ、ロロちゃんおいで~」と歓迎している声が聞こえる。
男湯ののれんをくぐり、広々とした脱衣所も、何かいい匂い、桧か――。
新品のような桧の座椅子、机に大きい鏡の化粧台を見ながら、肩の竜頭装甲を意識――。
アイテムボックスの戦闘型デバイスから布を数枚だし、一氣に素っ裸――。
カリィたちも一氣に裸になって、皆の一物を見てしまうが、氣にせず、露天風呂へ。
目の前には、ライトアップされたグレートイスパルの大滝が轟音を立てて流れ落ちる絶景が広がっていた。
大滝から舞い上がる水飛沫が温泉の熱氣と混じり合い、幻想的な空間を創り出している。
動植物の造形を活かした蛇口からシャワーが大量に放出されている。
水属性の魔道具の造形も可愛らしい。
水蒸氣と液体が混じったような魔法の膜に触れると、石鹸の泡が自然と体に付着し水と空氣のバブルが起きて、自然と体が洗われていく。
『ふふ、わたしが言うのもアレですが、不思議なお風呂用魔道具ですね』
左目にいるヘルメの念話に、
『そうだな』
と念話を返しつつ、湯船に肩まで浸かり、心地よい熱さを味わう。
激戦の疲れが、じんわりと湯の中へ溶け出していくようだ。
「……ふぅ、極楽じゃわい」
アキレス師匠も首までお湯に浸かり、心地よさそうに目を閉じた。
「がははっ! こいつはいい湯だぜ! 戦いの後の温泉ってのは、命の洗濯だな!」
ハンカイが豪快に湯を浴びて笑い声を上げる。
カルードは静かに湯に浸かり、目を閉じて瞑想するように己の魔力回路を整えていた。
カリィは湯船の縁に両腕を乗せ、悪態笑顔を浮かべたまま「アハ♪ 極楽だネェ」と、彼特有の不気味だがリラックスした表情を見せている。
竹垣を隔てた女湯からは、エヴァやヴィーネの落ち着いた声や、レベッカたちがお湯を掛け合って遊んでいるような弾んだ水音が聞こえてくる。
「にゃお」
竹垣の上を黒猫が器用に歩き、男湯と女湯を行き来しては、両方から可愛がられていた。
激戦続きだった俺たちにとって、何にも代えがたい平和な時間だ。
湯上がり後、肌触りの良い浴衣のような寛ぎ着に着替える。
アシュレイが手配してくれた宿自慢の鍼師の施術を個室で受けることになった。
案内されたのは、ほのかに香が焚かれた静かな和室。
部屋の中央に置かれた施術台の傍らに、質素な作務衣を着た男が立っていた。
一瞬で、彼が武芸者、強者だと理解――。
坊主頭で、鋭い眼光を隠すように目を細めている。
お灸と薬草の匂いを纏う彼からは、魔力も殺氣も一切感じられない。あまりにも自然すぎる。
逆に言えば、極限まで氣配を殺す技術に長けている証拠だ。
「……お待ちしておりました、シュウヤ様。当宿で鍼師をしております、ジンザと申します。どうぞ、こちらへ」
ジンザの声は低く、落ち着いていた。
一応は鍼師として信じるか――。
施術台にうつ伏せになり、目を閉じる。
ジンザの手が俺の背中に触れた瞬間――彼がわずかに息を呑む氣配が伝わってきた。
「……これは……」
ジンザの指先が、俺の背骨に沿って慎重に滑る。
プロの医療従事者としての彼の指は、俺の体内を巡る特異な構造に驚愕していた。
無理もない。俺の経脈は、光魔ルシヴァルという種族特有の複雑な魔脈、経脈と、エクストラスキルの<脳魔脊髄革命>による脊髄と脳の運動整理機能の劇的な変化の『二つの影響』によって、複雑怪奇な迷宮のようになっているのだから。
「……魔点穴の配置が、人族や通常の魔族のそれとは異なる。これほど深く、かつ広大な魔導脈を持つ体は初めてだ……」
「驚かせたかな。俺の体は少々特殊でね。キサラという眷族から<魔手太陰肺経>を習っていた時も、この複雑な経脈のせいで随分と苦労したものさ」
静かに応じながら、<経脈自在>を発動させた。
体内の魔力回路を瞬時に操作し、ジンザの針が入りやすいように、表層の経脈を緩やかに整える。
「な!? 自らの意思で経脈、魔脈を変化させた!?」
ジンザが驚愕の声を漏らす。
彼の手に握られた極細の針が、かすかな震えを帯びた。
俺の複雑な魔力の動きを正確に「視る」ことができる以上、彼が只者ではないのは確実だ。
「……ジンザさん、遠慮はいらないが、針を持つ指、手が震えているぞ」
寝ながら指摘、
「……シュウヤ様……貴方は一体……」
ジンザの扱う針先に<血魔力>を送るように操作。
「――えっ、光と……闇の……<血魔力>!? 純粋な陽と陰……肺の氣、水、肝……」
ブツブツ、五行に関することを呟くジンザ。
そのジンザに、
「針で魔点穴を刺激する医療は、ミスが許されない面が多いと思うが……」
「あ、すいません。随分と、針のことを詳しいのですね」
うつ伏せを止めて振り返る。
「……あぁ、かつて、ホウシン師匠や独鈷コユリという達人から<禹仙針術>の理を見た。そして、コグロウという暗殺者から<暗殺針武術>の知識も得ていることもある。針が、命を救うための洗練されたものであることは、肌で分かる」
「……<禹仙針術>に、<暗殺針武術>だと……!?」
ジンザは深く息を吐き出し、構えていた針を一度下ろした。
そして、深々と頭を下げる。
「……恐れ入りました。私の持つ技術など、貴方様の深淵なる小宇宙の前では児戯に等しい。……ですが、このジンザ、持てる技術のすべてを懸けて、極上の治療を施させていただきます」
そこからは、殺氣のない純粋な医療と武術の枠を超えた、高尚な技術談義となった。
ジンザの針が的確にツボを捉え、激戦で凝り固まった筋肉と魔力回路をほぐしていく。
心地よい疲労感が溶け出し、体が羽のように軽くなっていった。
――施術が終わり、起き上がって軽く肩を回す。
「見事な腕だ。本当に体が軽くなった」
「……もったいないお言葉です。私の方こそ、貴方様のような御方の体に触れ、至高の経験をさせていただきました」
ジンザはそう言って深く一礼したが、その表情にはどこか切切な思いが影を落としていた。
彼は部屋の扉が閉ざされていることを確認し、静かに口を開く。
「……シュウヤ様。貴方様の圧倒的な武の器を見込み、一つ……どうかお願いしたい儀がございます」
「願い? ただの鍼師ではないあんたが、俺に頼み事か」
促すと、ジンザは重苦しい息を吐き、自らの凄惨な過去を語り始めた。
「……はい、まずは身の上話を少し聞いていただけますか?」
「聞かせてくれ」
「はい、私は人族ではない。と、いいますか、魔族ですらないのかも知れません」
「ほぉ……出身は魔界かな」
「……そうかも知れないですが、私が幼い頃を記憶して過ごしたのは、このタンダールや南マハハイム地方の地上ではないのです。地下深く……幾つもの独立都市が繋がる大動脈層のどこか……地図には決して載らない、秘匿された街の出身なのです」
へぇ。
ジンザはそこで一度言葉を切り、重々しく告げた。
「名を、秘匿底街【奈落の澱】と言います」
「……【奈落の澱】? 聞いたことがないな。ポリンガムや旧水晶都市デムラのような独立都市なら知っているし、地下もある程度は渡り歩いてきたつもりだったが……」
「ご存知ないのも当然です。あそこは地下都市、交流もない。完全に切り離された特異点。生きて外に出られる者は極僅かであり、情報が漏れることすら稀ですから」
地下も複雑だ。ありえる話だろう。
「……そのような場所からここにか、貴方も相当な場数を踏んでいるようですね」
ジンザは自嘲気味に笑った。
「それは、はい」
「その地下都市のことをもう少し聞かせてください」
と聞くと、
「あの街は、黒き環と傷場に近い、まさに奈落の底にある。かつて、獄界ゴドローンの魔神帝国、地底神グループと、闇神リヴォグラフ側の軍勢が血みどろの争いを続けていた最前線……ですがある時、両陣営が『互いに干渉しない』ことを条件に不可侵地帯としたことで、行き場を失った棄民や、力のみを信奉する者たちが集まり、カオスが支配する狂った地下街が形成されたのです」
「獄界ゴドローンの魔神帝国に、魔界の闇神リヴォグラフ側の緩衝地帯か……。一歩外に出れば、どちらかの陣営の争いに巻き込まれる過酷な場所だな」
「はい。空氣には、地底神アバブルアの常に致死量の毒の魔力が混じり、その魔力すら淀んでいる地獄です。あそこで生き残るには、自らの身体を造り変えるしかなかった」
ジンザは自身の手のひらを見つめる。
「私と妹のセンリは、幸か不幸か、魔毒の女神ミセア様、闇神リヴォグラフ様、地底神キールー様を信奉していた魔商一族の中で育った。そして、魔導脈の滞りを『視て、触れる』特異な一族の血を受け継いでいた。私は、その力とこの針を使い、毒の魔力に適応できるよう、自分と妹の経脈を強制的に組み替えながら生き延びたのです」
「なるほど。その極限の針術は、地獄で生き抜くための自己改造から生まれたものか」
「……えぇ。そして、私たちはあの奈落から這い出る決意をしました。果てしない地下大動脈層の迷宮を、魔神帝国のキュイズナー部隊、ダークエルフの名の知らぬ魔導貴族の部隊、オーク大帝国のブブウ・グル・カイバチが率いていた大部隊、異形や地下の狂獣、人族の追奴、そうした多様な者たちと敵対、時には手を取り合い、何年も放浪し……ようやく、このタンダールの直下まで辿り着いた」
ジンザの目に、後悔と悲痛な色が浮かんだ。
「では、妹のセンリさんは?」
「……地上まであと一歩というところで、オークとドワーフの戦争に巻きこまれた。私は谷底へ突き落とされ、センリとはそこで別れたのです」
「今も行方不明のままなのか」
と、聞くと、ジンザさんは頭を振る。
「……妹を見つけたのです」
「おぉ、良かったじゃないですか」
そう言うと、ジンザさんは視線を斜めに下げて「……それが」と呟き、拳を作る。
「……なるほど、一筋縄ではないのか。再会は最悪の形?」
と聞くと、ジンザさんは苦笑し、「……そうとも言えますな」と呟く。
「その経緯を詳しく」
「……はい、私は、このタンダールの表では、鍼師として、裏では金で暗殺を請け負う何でも屋として生きてきました。剣も槍も、何でも使って……妹を探すための情報と金を集めるために。そして最近、ようやく彼女がこの裏社会にいることを突き止めたんです。妹だと確信している証拠もある」
なるほど。
「敵として育っていたのか、それとも……」
「はい。彼女は裏社会の冷酷な暗殺者……『毒蜘蛛のセンリ』として育て上げられていたようです」
「毒蜘蛛? それと、【大鳥の鼻】との関連はあるのかな」
「【大鳥の鼻】ですか、大手の一つで、何度か暗殺と医療の仕事を請負ました。その証拠がコレです」
鳥の羽のような幻影を発している無数の魔線を放つ骨刃のナイフを見せてくる。
魔力が濃厚だが、あの鳥の羽は、荒神ガ・ホウザと関係しているのは明白。
「荒神ガ・ホウザのナイフか何かかな」
「はい、バメル殿から報酬で頂きました。しかし、一目で分かるとは、さすがですね」
「あぁ、そのバメルたちと先程あったばかりだ」
「あ、そうでしたか……」
「……では、妹のセンリの能力か、センリのことを知る範囲で教えてくれ。俺たちもその筋には協力者が多い」
「はい、センリは、私と共に毒の魔力に耐えるため組み替えた経脈、<魔導脈>を持つ。触れた、あるいは攻撃した者の魔脈、十六経の間を腐らせる死の力を帯びていると噂されています。現在は、私が命を救うために使う針を、彼女は命を奪う暗器として使っている。特定の組織に属さないフリーのようですが……背後には【闇の枢軸会議】や【闇の八巨星】の枠のどこかが関わっている可能性が高い。そして、あろうことか私に、同業者から『凄腕の暗殺者センリの始末』が依頼されたのです」
ジンザの言葉に、部屋の空氣が張り詰めた。
となると……同盟を結んだばかりの【大鳥の鼻】も、その暗殺の枠組みのどこかに関わっている可能性はあるな。
ジンザは、
「……妹を殺すことなどできるはずがない」
「センリさんは、貴方のことは?」
「……氣付いていない。何度も、兄だということを暗に示したんですが……兄と妹の証拠の、肌の刺青のような魔印も、センリの首筋にはあるはずなんです」
「……」
「……ですが、センリの心と経脈、魔脈は、何者かが打ち込んだ『傀儡の呪針』によって完全に縛り付けられている。あれはただの洗脳ではありません。彼女の魔点穴の奥底深くに、寄生虫のように呪いの針が根を張っているのが『視え』たのです。彼女を縛る組織から引き剥がし、あの悍ましい呪縛を解くには、私一人の力では到底足りません」
ジンザが床に額を擦りつけるようにして土下座した。
その背中から、肉親を想う切実な覚悟が伝わってくる。
口を開こうとしたその時、部屋の襖がスッと開き、カルードとユイ、そしてカリィが姿を現した。
どうやら廊下で話を聞いていたらしい。
「マイロード。立ち聞きするつもりはございませんでしたが……」
カルードが静かに進み出る。その瞳には、かつて裏社会で生きた者としての深い共感が宿っていた。
「……センリとやらを縛る『呪い』の冷たさは、私には痛いほど分かります。裏社会の掟は非情ですが……マイロードの武威なれば、その理不尽な鎖を断ち切ることは容易いはず」
ユイも神鬼・霊風の柄を握りしめ、強い眼差しで頷く。
「えぇ。自分の意思を奪われ、暗殺者として生きるしかない女の子を放っておくなんて、私にはできないわ。シュウヤ、手伝ってあげて!」
「アハ♪ ジンザ! フリーの何でも屋が、まさかこんな個人的な依頼で頭を下げるなんてネェ。でも、面白そうじゃないカ。タンダールの裏を掃除するいい口実になるヨ♪」
カリィが悪態笑顔を浮かべて笑う。
最後に、腕を組んだアキレス師匠が堂々とした足取りで部屋に入ってきた。
「ふむ……武とは、ただ命を刈り取るためのものではない。活人剣という言葉があるように、命を救うために振るう槍こそが至高よ。シュウヤ、この男の心意氣、買ってやれ」
「師匠……えぇ、最初からそのつもりです」
師匠たちは頷く。
ハンカイも「ほぉ、腕のいい施術師にはそれなりの理由があったわけか……」と呟いていた。
頷いてから、ジンザの前に歩み寄る。
彼の手を取って立たせた。
「……金はいらない。ジンザさんの極上のマッサージ代の釣りだ。その妹、センリを救い出し、タンダールのゴミ共を掃除しよう」
「シュウヤ様……! 皆様……っ! ありがとうございます、本当に……!」
ジンザが涙を堪えきれず、何度も深く頭を下げた。
その後、ジンザから魔通貝と支度金を渡された。
白金貨五十枚は大金だったが、彼もプロ、断るのは無礼だから受け取った。
場面は変わり、大広間。
そこには、アシュレイが手配してくれたタンダールの名物料理が所狭しと並べられていた。
肉汁が滴る分厚い魔獣肉のステーキや、地熱で豪快に蒸し上げた巨大な海鮮料理、アワビの蒸し焼き、小型七輪の上で、もくもくと焼かれている貝の身の串焼きなどが、食欲をそそる香りを漂わせている。
「シュウヤ! お前が経脈まで極めていると聞いて驚いたぞ! カシナハもあのジンザが人に教えを乞うほどの顔をして出てきたことに度肝を抜かれていたわ!」
アシュレイが豪快に笑いながら、極上の酒を注いでくれる。
湯上がりのヴィーネやエヴァ、レベッカ、キサラたちも合流し、賑やかな宴が始まった。
食事を楽しみながら、ジンザから聞いた【奈落の澱】の情報や、彼が追う闇ギルドの動向について、皆で和やかに、しかし鋭く情報を共有していく。
続きは明日、HJノベルス様から書籍「槍使いと、黒猫。1巻~20巻」発売中。
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