千九百九十三話 まさに、啐啄同時、自我の輪郭だな
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ミシッと音を立てて重厚な扉が閉まる。
シュウヤたちの圧倒的な氣配が完全に遠ざかった。
『奈落の杯』の奥まった個室に音まで喰われたかのような深淵の静寂が戻った。
卓上に置かれた酒杯の水面は微動だにせず、壁の影だけが蠢いているように見える。
その静寂の中で、ギムレットの思考だけが、研ぎ澄まされた刃のように鋭さを増していく。
あっさりと俺があの小童の掌で転がされたか……。
見た目は若いが、どんだけの修練を積んでやがるんだ。
【影の枢密院】の大導師や、枢機導師に、邪神シャドウの使徒たちと何度も渡り合い、邪界を渡っていたが……。
あのシュウヤは別次元の強さ、いや、交渉といい何かが根本に……どこか俯瞰から見下ろされているような……武の頂きからすべてが見透されているような、背筋が凍ったぜ……多少は戦えると踏んだが、俺もまだまだだな……命が幾らあっても足りない。
思考だけが色を持つようにギムレットの体の影の魔力が色付いていく。
豪奢な影の玉座に深く身を沈めた。
先刻までの飄々とした態度は完全に消え去っている。
その貌には、かつてSランクパーティを率いて死線を潜り抜けた冒険者としての冷徹な光とすべてを遊戯として愉しむ情報屋の貌が混在していた。
「……完敗だ。もう出ていいぞ、バフィセーヌ」
ギムレットが呼ぶと個室の箪笥が静かに横へスライドした――。
そこから額に第三の瞳を持つ小柄な女性、邪族のバフィセーヌが姿を現した。
何もなかったかのように落ち着き払っている。
そのバフィセーヌは、笑みを見せ、
「〝鉄塊〟、ね。面白い表現をする。けれど、言い得て妙だわ。あれは確かに、あなたの天秤を壊しかねない」
ギムレットがシュウヤに向けて口にした言葉を引用しながら冷静に分析した。
その様子から彼女がシュウヤたちに氣付かれず、すべての会話を聞いていたことは明らかだった。
「あぁ」
「うん、だからこそ、あの〝黄昏の爪〟や〝仮面の男〟の情報を、あっさりと渡したのね」
「そうだ」
続いて用心棒のガスコインも姿を現す。
右手には、マスケット銃と似ているが微妙に形状が異なる魔銃が握られていた。
「よぉ、親父。しかし、あんたの<奈落ノ顎>が破られるとはな。正直、肝が冷えたぜ」
ガスコインもまた、一部始終を見守っていたようだ。
彼の言葉には、畏怖と興奮が入り混じっていた。
ギムレットは腹心二人の顔をゆっくりと見回すと、愉悦に口の端を吊り上げた。
「完敗だったな。だが、それ以上に……あの男の怒りの琴線に触れちまったことの方が、興味深い」
「琴線?」
訝しむガスコインに、ギムレットは続ける。
「そうだ。奴が本氣で俺を潰しにかかった瞬間……それは、俺が奴を〝天秤〟に乗せ、高みから物事を語った時だ」
「あぁ、あの時ね。彼は、殺氣に満ちていた。ギムレット……挑発しすぎなのよ。上には上がいる。魔界、邪界、神界、その手練も様々なんだから」
「……あぁ、侮っていたわけではないが、侮っていたと言われても仕方がない……奴は、自分が何かの駒として力の一端として測られることを、心の底から侮辱と受け取ったようだな」
「単に、ギムレットの上から目線の語り口が氣に入らなかっただけじゃないの?」
「それもあるだろう……しかし、あの怒氣……あれは神々や邪神といった超越的な存在の盤面で踊らされることへの、根源的な拒絶反応に思える」
ギムレットの脳裏に、かつての地獄が蘇る。
十一階層で、複数の邪神の使徒たちの氣まぐれな戦いに巻き込まれ、仲間たちが塵芥のように死んでいったあの光景……。
ガスコインもまた、その惨劇を生き残った一人だからこそ、何も言わずに頷いていた。
「そして、もう一つ。十天邪像……俺がこいつを軽々しく口にした時、奴の殺氣は頂点に達した」
懐から、禍々しい像の鍵――。
使徒を斃して奪い取った〝十天邪像シャドウ〟をゆっくりと取り出した。
彼の力の源泉であり、同時に迷宮内部にある寺院や遺跡の十個の邪象の秘密の扉を開けることができる〝鍵〟。
「奴も、同種の〝鍵〟を持っている。だからこそ分かるのさ。この〝鍵〟が、どれだけの血と絶望の上に成り立っているかをな。俺は、仲間の死骸の上で、シャドウの使徒を殺してこいつを手に入れた。邪神の駒になどなるつもりは毛頭ねえ。これは、俺が生き残るために奪い取った、ただの〝道具〟だ。ましては邪神ヒュリオクスは、使徒ごと己の蟲にしやがるからな……」
その言葉には、邪神シャドウへの信仰心など微塵も感じられない。
あるのは、理不尽な世界への冷めきった諦観と、それでもなお盤面を支配しようとする強烈な意志だけだった。
「それより、あの四眼四腕の女魔族だけど、ギムレットは何か、感じなかったの?」
「……ん? 特にはない。この都市にも四眼四腕の魔族は多い。あ、もしや、二十階層の邪界ヘルローネにいた魔界セブドラの連中、四眼四腕たちの一人と言いたいのか?」
「ううん、そういうことではないけど、なんとなくね……」
バフィセーヌの顔を見やるギムレットは、ガスコインにも視線を向けた。
ガスコインは『さあな』と言うように両手を拡げる。
「……」
バフィセーヌの直感は、彼女の能力故に、時として真実の輪郭を捉える。
だが、彼女自身もまだ氣付いていない。あの女魔族が、かつて邪界ヘルローネ二十階層にその名を轟かせた〝四眼のルリゼゼ〟その人であるとは、露知らずに。
ギムレットは、
「……バフィセーヌ、あの男の眷族や仲間たちの<血魔力>、スキル、装備類は、魔界、神界にも通じている物だ。お前の勘は当たることがある。名のある四眼四腕の女魔族に違いないだろう」
「うん」
「で、話を続けるが……今にして思えばだが、あのシュウヤは、俺がこの〝鍵〟を、それに連なる邪神の力を、ただの遊戯の道具として扱ったことが許せなかったんだろうよ。漢としての氣概があった……奴にとって邪神連中とは、命懸けで向き合うべき脅威であり、決して弄んではならない代物なのだと。しかし……神を喰らうほどの力を持ちながら、その実、誰よりも潔癖な精神の持ち主とはな」
情報屋の貌は、そこにはない。
かつて仲間をすべてを失い、邪神の理不尽さをその身に刻み、それでもなお混沌の淵を覗き込むことをやめられない一人の破綻した遊戯者の貌が、そこにあった。
「いいか、お前たち。仕事だ。シュウヤたちが迷宮で派手に踊る。その隙に、俺たちは地上の掃除を始める。奴らがこじ開けた穴は、俺たちが利用させてもらう」
ギムレットは十天邪像を掲げる。
それは、彼がこれから行う、壮大な遊戯の開幕を告げる、ただの道具に過ぎなかった。
「まずは、あの〝鉄塊〟がどこまで転がるか、特等席で見物させてもらうとしよう。――<百目ノ影写>」
ギムレットの影が、無数の小さな眼となって個室の床に広がり、そのうちの一つが、まるで生き物のようにスルスルと扉の隙間から滑り出し、シュウヤたちの後を追い始めた。
「さあ、派手に踊ってくれよ、〝鉄塊〟シュウヤ。あんたという劇薬が、この澱んだイゾルガンデの盤面をどう掻き乱し、壊してくれるのか……この俺が、特等席ですべてを観測してやる」
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ベランダから見下ろす迷宮都市イゾルガンデ。
深い眠りについていると分かるが、明かりがいたるところに点在している。
だが、街の第一の円卓通りを覆うように、『神々の砕環』は綺麗な光を放つ。
闇夜に輪郭を浮かび上がらせている。
この街の混沌を象徴しているように見えたが、綺麗だな。
そして、ヴィーネと交わした口づけの柔らかな感触と、湯上がりの甘い香りが、まだ唇に残っているようだった。
昂った神経を穏やかに解かしてくれる彼女の存在は何物にも代えがたい。
そして、セレスティアとの対話で口にした「魂」という言葉が、心の奥で静かな波紋を広げていた。彼女が永い時の中で抱えてきたであろう孤独にほんの少しでも触れられたのなら良いのだが。
得難い仲間たち。
その温かさを実感する一方で、これから挑む戦いの苛烈さに自然と武者震いがした。ふと、背後から無数の視線を感じるような氣がした。
情報屋ギムレットの<百目ノ影写>かな?
奴のことだ、今もどこかの影から俺たちの動向を覗き見ているのだろう。
興醒めな詮索だが、それもいい。見てるがいいさ、俺たちの戦いを。
光魔ルシヴァルの眷属たちが、この奈落の底でどれほどの嵐を巻き起こすのか、その目に焼き付けさせてやる。
リビングへと戻ると、空氣は既に入れ替わっていた。
アドリアンヌとメルが中心に、地上制圧組が最終確認を行っている。
全員が夜の闇に溶け込むような隠密装備に身を包み、その姿は壁の影と見紛うほどだ。
「……リストにある商会は三つ。ユイさんが居れば楽なんですが……それぞれフーとシキが率いる部隊で同時に叩く。メルとクナは私と共に、ギルド内の内通者を炙り出す。ミスティは後方支援と情報統制を」
アドリアンヌが広げられた地図を指し示し、淀みなく指示を飛ばす。
その黄金仮面の奥の瞳は、既に獲物を見据える狩人のそれだ。
「承知した。【蒼海の氷廟】の双子……奴らが何を企んでいるのか、この機に化けの皮を剥いでやる」
「レザライサ、味方になる側かもしれないんだ。その辺りを考えてくれよ」
「あぁ、分かっている。【白鯨の血長耳】の盟主としての考えよりも、今は<筆頭従者長>の一人としての動きだ」
レザライサが、双槍を背負いながら静かな闘志を燃やす。
彼女の個人的な因縁が、この任務に更なる熱を加えていた。
皆には、多くの言葉は不要だった。
「頼んだぞ」
その一言にすべてを込める。
「はい」
「お任せを」
アドリアンヌたちが淑やかに一礼する。
彼女たちは音もなく、まるで幻のように部屋から姿を消した。
イゾルガンデの裏社会に、新たな嵐が吹き荒れるだろう。
貴賓室の他の部屋では、迷宮攻略組がそれぞれの時間を過ごしていた。
とある一室では、師匠たちとバフハールが酒を酌み交わしている。
「ふむ、あの情報屋、見かけによらず相当の手練れと見た。だが、シュウヤの前では赤子同然だったな」
「あやつは、戦う度に強くなる。この迷宮の深淵さえも、いずれは喰らうだろうよ」
その言葉に師匠たちが満足げに頷いた。
信頼を感じられる。
別の部屋では、レベッカたちが、【星の集い】のシャウラさんと一緒に、冒険者ギルドで解読してきたばかりの魔宝地図を囲んでいた。
「見て見て! この地図、かなり良いお宝が眠ってそうよ!」
「守護者級が出てきても、今の私たちなら問題ありませんね」
「はい、五層の邪神たちの像が並ぶ寺院まで、シャウラさんが案内してくれるようですから」
「ふふ、お任せを」
シャウラさんは魔弓を手に帽子を被っている。その佇まいがよく似合っていた。
エヴァは、
「ん、お願いします。あとは、蹴散らすだけ」
氣概を見せた。ユイも「ふふ、楽しみ」とこれから始まる冒険に胸を躍らせている。
その屈託のない笑顔が、何よりも心強かった。
そして、静かな一室で、セレスティアがアクセルマギナとミスティに向き合っていた。
セレスティアは、
「……魂、とは。データベース外の、予測不能な行動を可能にする演算領域……なのでしょうか?」
「面白い解釈ね。でも、もっと温かくて、時々、ちょっと厄介なもの」
ミスティの返答に、セレスティアは困ったように首を傾げる。
アクセルマギナは、俺をチラッと見た。
「前に俺が、意識についての考察をした時か。たしか、タイムリープのφ理論、情報統合理論などだったな。それは難しいが、それを合わせて、お前を創り上げたナ・パーム統合軍惑星同盟の超魔科学力を有した視点から、その問いに答えてやってくれ」
「はい、マスター。畏まりました」
アクセルマギナは恭しく一礼すると、セレスティアに向き直った。
「あなたの現在の演算領域が導き出した問いの大本は、私たちの文明圏の古文書にも記されている、意識の根源に迫ろうとした初期の思考モデルと類似しています。マスターの仰った『統合情報理論』が意識を情報の結びつきそのものの構造、Φ(ファイ)という数値で表される相互接続性などがそうです。その情報の構造や共有ネットワークから意識を定義しようとする試み。それは、本質へ至る道のりの、最初の小さな一歩に過ぎません。魔機械やIoBNT――生体ナノマシンネットワーク技術もその流れです」
アクセルマギナは一呼吸置き、
「私たちの結論は、より単純明快です。『魂』とは、個体という情報生命体を定義づける、究極のナノセキュリティであり、決して複製も模倣もできない『クオリア・ロック認証』。……そして、それは静的な城壁ではありません。絶え間ない〝攻防〟の要です」
その声には、かつて魔皇獣咆ケーゼンベルスと対峙した際の、緊迫の色が滲んでいた。
「かつて私が魔界の神格存在が発する〝神意力〟に曝された際、私の精神を守るナノセキュリティ防御層<攻防一体型バロスルク>は、第八層から第五層までを瞬時に削り取られました。あれは、超高度な<エレニウムワード>によるナノハック技術そのもの。ですが、有機生命体が持つ『魂』――すなわちクオリア・ロックは、それほどの干渉を受けても揺らがない。〝自己〟の完全性を維持し、汚染された情報を瞬時にパージする、究極の自己修復機能を持つ動的な迎撃システムなのです」
「「「…………」」」
リビングは、完全な静寂に包まれた。
しかし、アクセルマギナを作るだけはある高度文明だな。
〝意識のハードプロブレム〟、心の哲学にまで及ぶか……。
魔機械ではなく何かの情報生命体が元なのだろうか……。
皆、沈黙して、『ちんぷんかんぷん』といった表情を浮かべていく。
師匠たちでさえ、完全に理解を超えたという表情で、ただ瞬きを繰り返している。
「『魂』とは、個体という極小のサイバースペースを成立させるための、究極のナノセキュリティであり、固有のマスターOSでもある。ピュアなのです。無数の情報と機能が統合されたネットワーク、その完全性を守り、〝私〟という存在を〝私〟たらしめるための、決して複製できない、根源的な認証システム」
皆が沈黙しているが、「ピュア……」と小声で連呼するセレスティア。
セレスティアだけが、真紅の瞳を知性の光で激しく揺らめかせながら、アクセルマギナの言葉を反芻していた。
「……神意力による、ナノハック……<攻防一体型バロスルク>を突破……クオリア・ロックは、動的な迎撃と、自己修復を……」
それはもはや新しい思考回路の接続などというレベルではない。
OSの根幹から書き換えられるような、圧倒的な情報の奔流。その衝撃に彼女の自我は、確かな輪郭を持って、今まさに顕現しようとしていた。
アクセルマギナが「徐々に外の世界に慣れて行きましょう」とセレスティアに手を差し伸べて、「はい」互いに握手している。セレスティアから糸の魔力が嬉しそうに噴出。
アクセルマギナも銀色と蒼が混じる魔力が体から放出されては、互いの魔力が絡み合うと二人の翼が混じり合うようにも見えた。
「ふむ、ひな鳥と親鳥か」
「ふふ、いいコンビです」
あぁ、まさに、啐啄同時、自我の輪郭だな。
そうして、長い夜が明けた。
東の空が白み始め、イゾルガンデの街が朝焼けに染まる頃、『月詠みの寝台』の前に、迷宮攻略組の全員が顔を揃えていた。
引き締まった表情、全身から溢れ出る魔力と氣概。
誰もが最高のコンディションであることは一目瞭然だった。
集った仲間たちをゆっくりと見渡し、俺は力強く宣言した。
「準備はいいな。目標は第十一階層のスタンピード鎮圧、及び黒幕〝黄昏の爪〟の撃破。だが、本当の目的は違う。俺たちの力を、このイゾルガンデに、そして、この街の深淵に潜むすべての者たちに見せつけることだ」
「「「応!!」」」
力強い雄叫びと、無言の頷きが返ってくる。
傍らでは巨大な黒豹と化した相棒が喉を鳴らし、その巨体を擦り付けてきた。
フカフカな毛がタマラナイ。
ヴィーネたちも抱きついていく。
「ふふ」
「ロロちゃんいれば、ピクニック氣分!」
「はは、たしかに」
笑顔のまま旭日が照らす巨大な迷宮の入り口へと、確かな足取りで歩き始めた。
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