第八章 本物のウソが起こした奇跡
第八章!
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ひまりとあの病室で涙の決別をしてから、さらに一年という月日が流れた。
俺は地元の高校を卒業し、この春から街の小さな大学へと通い始めていた。ひまりとはあの日以来、一度も会っていないし、連絡も取っていない。彼女はあの後、体調の療養を兼ねて遠くの街の学校へ転校したと風の噂で聞いていた。
ひまりのいない日常は、驚くほど静かで、酷く退屈で、まるで色を失ってしまったかのようだった。
俺は生涯、もう二度と誰かを好きになることなんてないだろう。ひまりの記憶を二度も嘘で汚してしまった自分には、誰かと幸せになる資格なんてない。そんな半分諦めたような、冷え切った気持ちで毎日をただ消化するように生きていた。
桜の蕾が勢いよく弾け、街中が満開のピンク色で彩られた、ある四月のうららかな午後。
大学の講義の帰り道、俺は一年目のあの夏、ひまりと初めて「嘘の恋人」としてデートをした、駅前の古い商業ビルの前を通りかかった。ふと、見覚えのある、頭の奥底に焼き付いて離れないシルエットが、雑踏の中で足を止めて立ち尽くしているのが目に入った。
淡い白いワンピースの裾を春風に揺らしながら、満開の桜をじっと見上げている一人の少女。
――ひまりだった。
ドクン!! と、心臓が肋骨を突き破らんばかりに激しく跳ね上がった。
――また嘘をついた。結局、俺はそういうやつなんだ。
ひまりの前から永遠に退場する、これ以上あいつの過去を泥で汚さない。そう涙を流して決別を誓ったはずなのに、彼女の姿を前にした瞬間、俺の頭はまた「どうやって彼女の隣に戻るか」という最低な言い訳を探し始めていた。あの日誓った綺麗な覚悟なんて、全部自分を満足させるためのウソだったんだ。結局俺は、ひまりを前にしたら何度でも悪魔に魂を売る、そういうどうしようもない男だった。
逃げ出すべきだ、と頭の中の理性が警報を鳴らす。今の彼女にとって、俺は本当にただの、一度すれ違っただけの不審な赤の他人に過ぎないのだから。だが、俺の足はアスファルトに強力な接着剤で縫い付けられたかのように、一ミリも動かなかった。
やがて、桜を見上げていたひまりがゆっくりと視線を下ろし、雑踏の中に佇む俺の姿を、真っ直ぐにその瞳で捉えた。
二人の視線が、一年の時を超えて交差する。
走って逃げようか迷った。
その瞬間、ひまりの大きな瞳が、これ以上ないほど丸く見開かれた。彼女の細い身体が、目に見えてガタガタと小刻みに震え始める。彼女の脳の記憶領域には、俺という男は存在しないはずなのに。
「あの……っ! 待ってください……!」
ひまりが、周囲の見物客の雑踏を強引にかき分け、俺に向かって真っ直ぐに走ってきた。
俺の目の前、手を伸ばせば触れられるほどの至近距離でひまりは立ち止まり、激しく肩を上下させながら、俺の顔を、まるで穴が開くほどじっと見つめてくる。彼女の瞳からは、すでに大粒の涙が次から次へと溢れ出て、白い頬を何筋も伝って地面へと落ちていた。
「私、あなたのことを知らないはずなのに……。顔も、名前も、声も、私の頭の中には何一つ思い出せないのに……! あなたの姿を見た瞬間、心臓が壊れそうなくらい痛くて、苦しくて、でも……どうしようもないくらい愛おしくて、涙が止まらないんです……!」
ひまりは自分の左胸を、ワンピースごと強く、かきむしるようにギュッと押さえた。
「私、ずっと探していた気がします。この胸の奥にある、どうしても消えなかった『片思いの残像』の相手を。……お願いです、もう嘘をつかないで、本当のことを教えてください。あなたは……あなたは、誰ですか?」
真っ直ぐに俺を見つめる、一点の曇りもない澄んだ瞳。
脳裏に、これまで彼女に重ねてきた、最低で最悪のすべてのウソが走馬灯のように蘇る。だけど、今の俺の胸にあるのは、泥のような独占欲でもなく、過去への罪悪感でもなく、ただ目の前の彼女を愛しているという、純粋で真っ直ぐな祈りだけだった。
「俺の名前は, れん」
俺は視界を涙でボロボロに濡らしながら、これまでの人生で、最高の、そして一番誠実な笑顔を作った。
「君の古い幼馴染で……君のことが、ずっと、ずっと昔から大好きな、ただの片思いの男だよ。……はじめまして、ひまり。俺と、もう一度、一から本物の恋をしてくれないか?」
差し出された俺の右手を、ひまりは今度は一ミリの警戒も、迷いもなく、小さな両手でぎゅっと強く、強く握り返した。
頭上の満開の桜が、二人の新しい門出を祝福するように、激しく、美しく舞い散っていく。
――だが、神様はどこまでも意地悪だった。
再会を果たし、ようやく本当の恋を始めた俺たちの前に、無情にも次の『春』がやってきた。ひまりの脳にある先天性の病気は、俺たちの奇跡なんてお構いなしに、容赦なく四度目のリセットを引き起こしたのだ。
ある朝、目を覚ましたひまりは、またベッドの上でぽつんと小首を傾げた。あの日交わした約束も、涙の再会も、すべて真っ白な虚無へと巻き戻されて。
「……こんにちは。あの、あなたは、どなたですか?」
聞き飽きるほど耳にした、残酷な拒絶のセリフ。
その日、ひまりは病気を、いや、俺たちのウソを克服したんだ。
目の前で怯えるひまりの、その目を見た瞬間、俺には分かった。脳の記憶がどれだけ消えようとも、彼女の胸の奥には、またあの「消えない片思いの残像」が激しく脈打っているのだと。俺たちが重ねてきた嘘の恋は、病気の壁すら超えて、彼女の魂に、絶対に消えない愛の傷跡を刻みつけていた。
「俺の名前は、れん。君のことが大好きな、ただの男だよ」
俺は微笑み、何度目になるか分からない右手をひまりへと差し出した。
脳がどれだけ俺を忘れても、彼女の魂は何度だって俺に恋をする。
嘘から始まった長いまやかしの物語はここで完全に終わり、今、ここから、二人の本当の「何回目」かの恋が、春が巡るたびに、どこまでも新しく咲き誇り続ける。
ご覧いただきありがとうございました。
これで最終章となりました、この後エピローグがあります。
恋愛小説を書いたのは初めてですがどうだったでしょうか。
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