エピローグ
エピローグ!
――それから、さらに数年の月日が流れた。
俺とひまりのいる世界には、相変わらず一年に一度、残酷な『春』が巡ってくる。
ひまりの脳の病気は今も治っていない。彼女は毎年、桜の花びらが街をピンク色に染める頃になると、突然糸が切れたように眠りにつき、俺と過ごした愛おしい一年の記憶を、何一つ残さず真っ白にリセットしてしまう。
だけど、今の俺には、もう絶望なんてひとかけらもなかった。
四月のうららかな陽気の中、病室のベッドの上で目を覚ましたひまりは、今年もやはり、少し怯えたような目で俺を見つめて、お決まりのセリフを口にする。
「……こんにちは。あの、あなたは、どなたですか?」
何度目の、その言葉だろう。
俺はもう、胸を痛めることも、自分の運命を呪うこともしない。ただ愛おしさを込めて、ベッドの傍らで静かに微笑んでみせる。
「俺の名前は、れん。……君の、ただの片思いの男だよ」
俺はそう言って、慣れた仕草でひまりの小さくて震える手を、そっと両手で包み込んだ。
ひまりは一瞬だけ驚いたように目を見開く。けれど、彼女の瞳からはすぐに警戒の色が消え、ポロポロと大きな涙が溢れ出して、白いシーツを濡らしていく。
「不思議です……。あなたの顔も名前も、本当に何も思い出せないのに……。手を握られた瞬間、胸の奥がギュッとなって、涙が止まらなくなっちゃいました……」
「知ってるよ。君の心だけは、ちゃんと言葉を超えて全部覚えているから」
俺たちのついた『最初のウソ』は、病気という冷酷な現実の底で、絶対に消えない愛の傷跡を彼女の魂に刻みつけた。脳がどれだけ俺を忘れても、ひまりの心には「消えない片思いの残像」が残り続け、俺の姿を見るたびに、何度だって激しく脈打ち始めるのだ。
ひまりが退院すると、俺たちはまた「一回目」の恋人として、新しく街を歩き始める。
夏には水色の浴衣を着たひまりと手を繋いで花火を見上げ、冬には一つのマフラーを二人で巻いて雪景色の中で笑い合う。
「ねえ、れんくん。私、記憶はないけれど、今のほうがずっとずっと、れんくんのことが大好きなの。世界で一番、愛してるよ」
クリスマスツリーの前で、真っ直ぐな瞳で愛を囁くひまりを、俺は壊れ物を扱うように優しく、強く抱きしめる。
あの一年目、二年目に俺をのたうち回らせていた泥のような罪悪感は、もう消え去っていた。ひまりが愛しているのは、嘘で塗り固めた理想の彼氏じゃない。何度記憶を消されても、そのたびに泥臭く彼女の前に現れ、一から恋を口説き落とし続ける、この「れん」という男そのものなのだから。
俺たちは毎年、記憶を失う。
俺たちは毎年、恋に落ちる。
神様がどれだけ二人の時間をリセットしようとも、俺たちは春が巡るたびに、世界で一番新しくて、世界で一番深い恋を新しく咲かせ続けるのだと、そう思っていた。
そんな奇妙で、けれどこれ以上なく愛おしい無限ループの生活を繰り返して、数年が経った、ある春の日のことだった。
いつものように、桜が満開に咲き誇る季節がやってくる。
ひまりがベッドの上で静かに目を覚まし、俺の顔をじっと見つめた。俺はいつも通り、「こんにちは、どなたですか?」という、一年の終わりを告げる切ないセリフを待っていた。
何度も何度も、彼女を不安にさせないための優しい笑顔を作り、右手を差し出す準備を整えていた。
だけど、今年のひまりは違っていた。
ひまりは俺の顔を見た瞬間、怯えることも、小首を傾げることもしなかった。ただ、じわじわと大粒の涙を瞳に溜めて、くしゃりと顔を歪めたのだ。
「……れんくん」
掠れた、けれど確かに俺を呼ぶ、愛おしい響き。
「え……ひまり……? 俺の、名前……」
「わかるよ、れんくん。……全部、覚えてる。去年の夏祭りのことも、一昨年のクリスマスのことも……私があなたに嘘つきって怒っちゃった時のことも……全部、全部ここに残ってるの」
ひまりは自分の頭を、あるいは胸を強く押さえながら、俺の胸へと飛び込んできた。
俺は唖然としながら、信じられない気持ちで彼女の細い身体を強く抱きしめた。温かい涙が俺の首筋を濡らしていく。
その後の精密検査で、医師は奇跡だと何度も首を振った。
先天性で治らないと言われていたひまりの脳の疾患。けれど、毎年毎年、記憶を消されても消されても、れんという男が泥臭く彼女の前に現れ、一から強烈な愛を刻み込み続けた結果、脳の神経回路が病気の限界を超えて新しく強固に結びつき、ついに記憶の定着に成功したのだという。
俺たちが重ねてきた、あの泥のようなウソと、諦めなかった何回もの恋が、医学の常識すらひっくり返す本物の奇跡を起こし、病気を完全に『完治』させたのだ。
「れんくん、お待たせ。もう、どこにも行かないよ。明日になっても、来年になっても、私はずっと、れんくんの彼女のままだからね」
桜の舞い散る病院の中庭で、ひまりは俺の手を、今こそ「来年のリセット」を恐れる必要のない、本当の永遠の力でぎゅっと握りしめた。
もう、嘘をつく必要はない。
春が巡るたびに怯える日々は、もう二度とやってこない。
俺たちの偽りの恋は、冷酷な運命のすべてを乗り越えて、今度こそ本当の、決して消えることのない永遠の純愛として、満開の桜の下で美しく咲き誇ったんだ。
ご覧いただきありがとうございました。




