第七章 本物のウソ
第七章!
次が最終章です!
楽しんで!
ひまりの部屋から逃げ出し、俺たちのまやかしの楽園が完全に崩壊してから、半年という月日が流れた。
学校の廊下ですれ違っても、お互いに視線を交わすことすらしない。俺の重ねてきた不実のすべてが暴かれ、ひまりを深く、修復不可能なほどに傷つけてしまったのだから、当然の報いだった。
「これで良かったんだ。もう二度と、あいつを俺の嘘で縛り付けなくて済むんだから」
毎晩、暗い部屋で自分にそう言い聞かせ、胸をえぐるような孤独に耐え続ける毎日だった。
しかし、運命はどこまでも残酷だった。
あの最初の交通事故から、ちょうど二年が経った、三度目の春。
スマートフォンが激しく震え、画面に表示された「ひまりの母」の文字を見た瞬間、嫌な予感で全身の血の気が引いた。受話器の向こうから聞こえてきたのは、涙でひどく掠れた、絶望の声だった。
「れんくん……ひまりがね、また学校で倒れて、病院に運ばれたの。今度は、本当に何もかも……私たちのことも、自分の名前も、高校の記憶も、全部、全部忘れてしまって……」
およそ一年周期で訪れる、脳の強制リセット。
気づけば、俺は春の生ぬるい風を切り裂きながら、病院へと全力で走っていた。あれほど激しく拒絶され、「二度と顔を見たくない」と言われたのに、彼女の危機を前に、俺の身体は理性を無視して動いていた。
病室の前に到着すると、廊下でひまりの両親が肩を寄せ合って静かに泣いていた。俺の姿を認めると、母親が力なく首を振る。
「中に、入ってあげて……。今のあの子、本当に誰も分からなくて、とても怯えているの。古い知り合いのれんくんの顔を見たら、何か思い出すきっかけになるかもしれないから……」
皮肉なものだ。俺はひまりの過去をめちゃくちゃにした張本人なのに、両親は今でも俺を「一番信頼できる幼馴染のれんくん」だと思っている。
俺は深く息を吸い込み、ガタガタと震える手で、静かに病室のドアを開けた。
病室の中は、恐ろしいほど静まり返っていた。
窓から差し込む春の柔らかな光の中に、ベッドの上にポツンと座るひまりの姿があった。彼女は虚ろな、焦点の定まらない目で、窓の外をひらひらと舞う桜の花びらを眺めていた。その佇まいは、まるで魂をどこか遠い世界に置き忘れてきてしまったかのようだった。
俺の足音に気づき、ひまりがゆっくりと、錆びついた機械のようにこちらを振り向いた。
影が差すベッドの上、俺たちの視線が真っ直ぐに交差した。その瞳を見た瞬間、俺の全身の血が、一気に足元へ向かって逆流していくのが分かった。
ひまりの瞳には、かつての幼馴染としての長い歴史に対する親しみも、この二年間で育んできた恋人としての熱い眼差しも、そこには何一つ、塵ほども残っていなかった。完全に未知の不審者を見るような、冷徹で、無機質で、恐ろしいほど冷え切った、他人の瞳。
「……こんにちは。あの、あなたは、誰、ですか?」
三度目の、「あなたは、誰ですか」。
静まり返った病室に響いたひまりのその掠れた声は、冷たい壁で俺を隔絶する、決定的な他人の言葉だった。
――俺はまた、嘘をついた。
ひまりに、ってわけじゃない。
あの一年目、二年目の偽りの日常の中で、罪悪感にのたうち回りながらも「俺がお前を幸せにする」なんて傲慢な誓いを立てていた、過去の俺とひまりに、だ。
本当は、俺がひまりの過去をめちゃくちゃにした張本人なのに。ここで「俺が君の婚約者だよ」と三度目の嘘を重ねることだってできたはずなのに、今の俺には、もうそんな泥のような独占欲すら残っていなかった。過去の俺たちの、あの甘くて歪んだ時間のすべてを、俺は自らの沈黙によって『ただの他人の思い出』へと塗り替えた。これ以上のウソが、他にあるだろうか。
「俺は……ただの、通りすがりの人間だよ。君の、少し古い知り合い、かな」
俺は自嘲気味に、静かに、優しく微笑んでみせた。
「知り合い、ですか……」
ひまりは小首を傾げ、記憶の糸を手探りで探そうとするが、すぐに諦めたように視線を落とした。そして、自分の胸のあたりをきゅっと小さな手で強く押さえ、不思議そうな顔で俺を見つめた。
「あの……妙なことを聞いてもいいですか?」
「うん、何?」
「私、さっきお医者様から、自分のすべてを思い出せない病気なんだって説明されたんです。……なのに、不思議なんです。この胸の奥だけが、さっきからずっと苦しくて、切なくて、今にも張り裂けそうなんです。私、記憶を失う前……誰かにもの凄く、もの凄く激しい『片思い』をしていたような気がするんです。その人の顔も名前も分からないのに、胸が痛いくらい、誰かを好きだったという感情の残像だけが、ここにずっと残っているの。私、誰に恋をしていたんでしょう……」
ひまりの澄んだ瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ち、白いシーツに丸い染みを作っていく。
俺はあふれ出そうになる涙を必死で堪え、拳を強く握りしめた。ひまりが三度目のリセットの直前、心の一番深い場所に刻みつけていたもの。それは、俺の嘘への恨みではなく、嘘だと分かってもなお、俺を好きだと思ってくれていた、ひまりの『本当の片思い』の記憶だったのだ。
「その片思いの相手は、きっと……君のことを、世界で一番、愛していたと思うよ」
俺はそれだけを告げると、涙が崩壊する前に、病室のドアを開けて外へと飛び出した。
背後で静かにドアが閉まる音を聞きながら、廊下の壁に背中を預け、俺は声を殺して激しく泣いた。これでいい。俺の嘘はすべて消え去り、彼女の心には綺麗な純愛の残像だけが残った。俺は今度こそ、本当にひまりの人生から、永遠に退場する覚悟を決めたんだ。
ご覧いただきありがとうございました。
ここまでお付き合いいただきありがとうございます!
今回のれんくんの切なすぎる決別のシーンを捻り出すために、作者の脳細胞は完全に限界を迎えておりました。ちなみに、れんくんが病室を飛び出して廊下で激しく泣き崩れているシーンを書いている時、現実の作者の机の上では、エネルギー補給のために貪り食ったチョコパイの空き袋がうず高く積み上がっていました。涙と罪悪感のシリアスなシーンの裏側は、100%砂糖とチョコレートの甘みで構成されています。私の糖分補給が勝つか、キーボードの寿命が縮むのが先か、最終章の結末と一緒にぜひ見届けてください!
次回!最終章!!




