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第三章 残酷な欺瞞

第・三・章!!!

楽しんで!

 幸せの絶頂から叩き落とされるのは、いつも唐突で、そして容赦がなかった。

 春の柔らかな兆しが街を包み始めた、三月の終わりのこと。俺とひまりは、満開の桜が咲き誇る並木道を、いつものようにしっかりと手を繋いで歩いていた。

 風が優しく吹くたびに、頭上から淡いピンク色の桜の花びらがハラハラと舞い散り、ひまりの艶やかな黒髪や、紺色のブレザーの肩に小さく降り積もっていく。その光景は、どこかの恋愛映画のワンシーンのように美しかった。


「ねえ、れんくん! 見て、まるで桜の絨毯(じゅうたん)みたい。来年も、その次の年も、ずっとこうして二人で一緒に、同じ桜を見られたらいいな」


 ひまりは繋いだ俺の手を少しだけ強く握り直し、俺の顔を見上げて、眩しそうに微笑んだ。

 この一年間、俺が吐いた最低の嘘を信じて、心からの純粋な愛情を注ぎ続けてくれたひまり。彼女の口から出る未来の約束は、俺の歪んだ独占欲をこれ以上ないほど満たしてくれた。同時に、俺の胸の奥にある罪悪感のトゲを、より深く突き刺す。

 だけど、俺が「ああ、当たり前だろ。ずっと一緒だよ」と、嘘に嘘を重ねて答えようとした、まさにその瞬間だった。


「あ……れん、くん……?」


 ひまりの繋いでいた手の力が、ふっと不自然に抜けた。

 怪訝に思ってひまりの顔を覗き込んだ俺は、その表情を見て凍りついた。彼女の瞳から、つい今しがたまで宿っていた生気が、一瞬にして失われていたのだ。焦点がどこにも合っていない、ガラス玉のような瞳。

 次の瞬間、まるで糸の切れたマリオネットのように、ひまりの身体がアスファルトの上へと崩れ落ちていった。


「ひまり!? おい、ひまり! しっかりしろ! 冗談だろ!?」


 俺は咄嗟に彼女の細い身体を抱き止めた。

 腕の中に収まったひまりは、どれだけ大声で名前を呼んでも、どれだけその肩を強く揺さぶっても、ぴくりとも動かなかった。春の温かい陽気が周囲を満たしているというのに、ひまりの指先は、俺が触れている場所から、みるみるうちに恐ろしいほど冷たくなっていった。


 やがて、遠くから近づいてくる救急車のサイレンの音が、俺の耳の奥で激しく、不穏に鳴り響き始めた。その音はまるで、俺たちの偽りの幸福の終わりを告げるカウントダウンのようだった。


 病院の無機質な白い廊下で、俺はただ一人、頭を抱えて座り込んでいた。

 壁に掛けられた時計の針が、チクタクと規則正しい音を立てて進んでいく。その音が、俺の精神を少しずつ削り取っていくようだった。手術室の前の赤いランプが点灯している間、俺はただひたすら、自分のついた嘘を神様に謝り続けていた。


「俺が嘘をついたからだ。俺がひまりを騙したから、バチが当たったんだ。だから、ひまりを助けてくれ」


と、血が出るほど爪を手のひらに食い込ませて祈った。

 どれほどの時間が経っただろうか。ようやく手術室のランプが消え、疲弊した顔の医師が出てきた。俺は弾かれたように立ち上がり、医師に詰め寄った。

 しかし、医師の口から告げられたのは、俺の全ての希望を根底から打ち砕く、残酷すぎる科学の真実だった。


「ひまりさんの記憶喪失ですが……大変申し上げにくいのですが、前回の事故による一時的なものではありませんでした。検査の結果、脳の特殊な先天性の疾患が原因であると判明したのです。彼女はおよそ『一年周期』で、脳の記憶領域が限界を迎え、過去の記憶を強制的にリセットしてしまう可能性が極めて高いのです」


 医師の淡々とした、事務的な言葉が、俺の脳細胞を一つずつ破壊していくようだった。


「リセット……? そんな、嘘だろ……。じゃあ、俺と過ごしたあの一年間は……あいつの頭から消えてしまうんですか?」


「おそらく、忘れてしまっている可能性が高いです。それどころか、今回のリセットは負荷が大きく、さらに過去の記憶まで巻き戻っている恐れがあります。ご家族や、ご自身のこれまでの生活についての記憶も、どこまで残っているか……」


 頭を巨大な鉄球で何度も殴られたような衝撃だった。

 神様は、嘘つきの俺にこれ以上ない最悪の、そして最も残酷な罰を与えたのだ。ひまりが俺にくれたたくさんの「大好き」も、あの水色の浴衣姿も、クリスマスに一つのマフラーを巻いて、凍える手をポケットの中で繋ぎ合って笑い合った記憶も。すべて、すべてひまりの頭から、何一つ残さず綺麗さっぱり消し飛んでしまったのだ。俺の心の中にだけ、呪いのようにその記憶を残して。


 数日後、ひまりがようやく意識を取り戻したと看護師から聞いて、俺は祈るような気持ちで病室のドアを開けた。

 ドアのノブを握る手が、ガタガタと震えて止まらない。どうか、俺のことだけは覚えていてくれ。幼馴染の記憶だけでもいい、一年の恋人の記憶が消えていても、俺の名前を呼んでくれ。そんな一筋の、惨めで淡い期待を抱きながら、俺は一歩一歩、ベッドへと近づいた。

 ベッドの上に身を起こし、窓の外の景色をぼんやりと眺めていたひまりが、ドアの音に気づいてゆっくりとこちらを振り向いた。

 そして、俺たちの視線が真っ直ぐに交差した。

 その瞬間、俺の全身の血が、一気に足元へ向かって逆流していくのが分かった。

 ひまりの瞳を見ただけで、全てを察してしまった。


 一年前に病院で目を覚ました時とは、明らかにレベルが違っていた。かつての幼馴染としての長い歴史に対する親しみも、この一年間で必死に育んできた恋人としての熱い眼差しも、そこには何一つ、塵ほども残っていなかった。

 そこにいたのは、完全に未知の不審者を見るような、冷徹で、無機質で、恐ろしいほど冷え切った、他人の瞳だった。


「……あの、あなたは、誰、ですか?」


 静まり返った病室に、ひまりの掠れた、蚊の鳴くような声が響いた。

 それは「れんくん」という、俺の鼓動を跳ね上げさせる愛おしい響きでは決してなかった。「あなた」という、冷たい壁で俺を隔絶する、決定的な他人の言葉だった。

 付き合っていた幸せな一年間どころか、幼稚園の時から十何年間ともに生きて、笑い合ってきた「幼馴染」としての全ての過去が、彼女の中から跡形もなく消滅していた。俺の目の前にいるのは、俺の人生のすべてを捧げて愛した女の子の形をした、俺の存在を全く知らない『赤の他人』だった。

ご覧いただきありがとうございました。


本物の医者は、リセットなんて言わないと思いますww

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