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第二章 偽りの日常

第二章!

付き合ってる、カミングアウト(嘘だけど)後の日常を楽しんで!

 ひまりが退院してから、季節はあっという間に夏へと移り変わった。

 俺が吐いた「半年前から付き合っている」という最低の嘘を、ひまりは今も一言も疑わずに信じ続けている。それどころか、彼女は毎日、俺が溺れてしまいそうなほどの純粋な愛情を向けてくれていた。


「ねえ、れんくん! 今年の地元の花火大会、一緒に行こう?」


 終業式が終わった放課後。夕日の差し込む教室で、ひまりがスマートフォンを握りしめながら、俺の顔を覗き込んできた。


 本当の過去――ひまりが記憶を失う前の俺たちなら、こんな誘い方はしなかった。いつも地元の幼馴染グループ数人で集まって、なんとなく一緒に行くのが定番だったのだ。二人きりで花火大会に行くなんて、去年の俺が聞いたら腰を抜かして喜ぶだろう。


「うん、もちろん行こう。ひまりと二人で花火を見るの、楽しみにしてる」


「本当!? やったぁ! ……あ、あのね。実は、お母さんに買ってもらった新しい浴衣があるの。れんくんに、一番に見てほしくて」


 ひまりは少し恥ずかしそうに視線を泳がせ、白い指先で自分の長い髪をくるくると弄った。その仕草があまりにも愛らしくて、俺の心臓が激しくトクトクと鐘を鳴らす。


 嬉しい。胸がはち切れそうなほど幸せだ。だが、その幸せのすぐ裏側には、どす黒い罪悪感が常にへばりついている。


(ひまりが今、俺のために浴衣を選んでくれているのは……俺が『彼氏』だからだ。俺が嘘をついて、彼女の記憶を横取りしたからなんだ)


 もし俺が嘘をついていなければ、ひまりは今頃、俺のことなんてただの「幼馴染の男友達」として扱っていただろう。二人きりのデートに緊張して赤くなるひまりの表情は、すべて俺の欺瞞ぎまんが作り出した偽物の果実だった。


「……れんくん? どうかした? もしかして、あんまり興味なかったかな……?」


 俺が黙り込んでしまったのを見て、ひまりの瞳に不安気な色が混じる。記憶を失ってからのひまりは、俺の顔色をどこか伺うような、健気で少し繊細な一面があった。それもまた、俺の嘘のせいで彼女に余計な気を遣わせている証拠のようで、胸がチクリと痛む。


「ううん、違うよ。ひまりの浴衣姿を想像したら、今から緊張しちゃってさ」


「もう、れんくんってば大げさなんだから! でも、嬉しいな」


 ひまりは安心したように、ひまわりが咲いたような笑顔を見せた。その笑顔を失いたくない。たとえこれが、いつか破滅を迎える嘘の上の城だったとしても、俺はひまりを誰にも渡したくなかった。


 花火大会の当日、待ち合わせ場所の駅前に現れたひまりは、淡い水色の浴衣に身を包んでいた。白地に鮮やかな大輪の向日葵が描かれたその姿は、夏の夜闇の中でそこだけが光り輝いているかのように眩しかった。普段は下ろしている長い髪がアップにまとめられ、うなじが少しだけ覗いている。その大人びた雰囲気に、俺は完全に声が出なくなった。


「れんくん、お待たせ。……どう、かな? 変じゃない?」


 ひまりは浴衣の裾を小さく手で押さえながら、上目遣いで俺の反応を窺う。ほんのりと施された薄化粧が、彼女の可憐さをさらに際立たせていた。


「……すごく、綺麗だ。本当に、よく似合ってるよ。言葉を失うくらいには」


「よかったぁ……。れんくんに変って思われたらどうしようって、お家出るまでずっと鏡の前でドキドキしてたの。お母さんにも『そんなに気合い入れてどうしたの』ってからかわれちゃうし……」


 ひまりは胸に手を当ててホッと息を吐くと、はにかみながら俺の隣へと一歩歩み寄ってきた。彼女から漂う、いつもとは違うお香のような、ほんのりと甘い夏の香りが俺の理性を狂わせそうになる。


「ねえ、れんくん。私の浴衣姿、ちゃんと目に焼き付けてね? 今日は特別な日なんだから」


「ああ、言われなくても視線が釘付けだよ。……じゃあ、行こうか」


 会場へと続く坂道は、すでに多くの見物客で溢れ返り、身動きが取れないほどの混雑を見せていた。すれ違う人々が口々に「綺麗な浴衣だね」と呟くのが聞こえる。その視線がひまりに向けられているのだと気づくたび、俺の胸の奥で、独占欲が醜く鎌首をもたげた。


 この子は俺の彼女だ。……嘘だけど。


 人混みはさらに激しさを増し、周囲の熱気と屋台から漂う香ばしい匂いが辺りに満ちていた。人と人がぶつかり合う波の中で、ひまりが小さく足元をよろめかせた。下駄に慣れていない足が、アスファルトに引っかかったのだ。


「あっ……!」


「危ない!」


 俺は咄嗟にひまりの細い腰を抱き寄せた。浴衣越しに伝わる彼女の体温と、驚きで丸くなった瞳が間近に迫る。


「れんくん、ありがとう……。その……手、繋いでもいい? はぐれちゃいそう……。ずっと離さないでね?」


 ひまりが俺の麻のシャツの袖を、遠慮がちにきゅっと引っ張る。

 幼馴染だった頃の俺たちには、こんな風に手を繋ぐ大義名分なんてどこにもなかった。ただの友達という境界線が、二人の間に透明な壁を作っていたからだ。だが今の俺は、彼女の『恋人』という、自分が偽造した免罪符を持っている。


「ああ、離さないよ。しっかり掴まってて」


 俺は差し出した右手で、ひまりの小さくて少し汗ばんだ温かい手をぎゅっと握りしめた。指と指が深く絡み合う恋人繋ぎ。ひまりは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに嬉しそうに俺の手をギュッと握り返してきた。


「れんくんの手、大きくてあったかいね。なんだか、すごく守られてるって感じがする」


「……そうかな。ひまりの手が小さすぎるだけだよ」


「もう、照れ隠ししちゃって。昔もこうやって、私を引っ張ってくれたのかな?」


 ひまりの何気ない一言が、俺の心臓をナイフで突き刺す。

 昔は、こんなこと一度だってしなかった。繋ぎたかった手を繋げず、ただ隣を歩くことしかできなかった意気地なしが、俺の本当の姿だ。

 神社の境内の裏手、少し開けた高台に辿り着いた瞬間、夜空を焦がす最初の一発が打ち上がった。ドン、と腹に響く重低音とともに、巨大な向日葵の花火が夜空いっぱいに広がった。


「わあ……っ! 綺麗……! れんくん、見て、すごく大きいよ!」


 満面の笑みで花火を見上げるひまり。その瞳に映る黄金色の光が、涙が出るほど美しかった。俺は花火から完全に目を離し、彼女の横顔だけをじっと見つめていた。


「れんくん、花火、すごく綺麗――」


 こちらを振り向いたひまりの言葉は、最後まで続かなかった。俺が衝動的に、彼女の柔らかい唇を奪ってしまったからだ。

 ひまりの身体が一瞬ビクッと強張る。しかし、すぐに彼女はトロンとした瞳で俺を受け入れ、俺の首に細い両腕を回してきた。

 花火の爆音にかき消される、二人の鼓動。ひまりが愛しているのは、嘘の上の俺なのに。俺の胸は極上の歓喜と、内側から抉られるような激しい罪悪感で、完全にぐちゃぐちゃに引き裂かれそうだった。

ご覧いただきありがとうございました。

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