第七章錯誤 第二節「湯気に揺れる心」
湯気の向こうで交わされる、何気ない笑顔と言葉。
けれど、その穏やかなひとときの中で、それぞれの想いは静かに揺れ始めていた。
「いいから、いいから。大丈夫よ。それより、まだ、よく目が覚めてないみたいだから、お茶でも飲む?」
アナスタシアが、軽やかに話を逸らす。
その笑顔には、安堵とも、愉悦ともつかない影があった。
まるで、すべてが彼女の手の中にあるかのように。
「うん。さっきのお茶、おいしかったから、また、お願い」
「じゃ、こっちに来て。アンナもおいで。日本茶の淹れ方、教えてあげる」
アナスタシアの声は、いつも通り柔らかく、春の陽だまりのようだった。
その声に誘われ、アンナが笑顔を取り戻す。
「でもその代わり、ゆうちゃんに教えてもらった、お茶の淹れ方だからね」
「いいわよ。あたし、お母さんよりもユーサクさんよりも、おいしく淹れてあげるから」
その言葉に、アナスタシアは小さく笑う。
その笑みの奥に、わずかな翳が見えた気がした。
二人に遅れて、僕もベッドから降り、リビングへ向かう。
生成りのソファーに座る。
アナスタシアが、アンナにお茶の淹れ方を教えている、後姿を眺める。
アナスタシアが、ゆっくりと茶筒を開け、香りを確かめる。
アンナが真剣な眼差しで、その手元を見つめている。
沸かしたお湯が、湯冷ましに注がれ、蒸気が柔らかく立ちのぼる。
その光景は、静かで美しく、どこか、儀式のようでもあった。
本当に気を付けないと。
確かに空港で、アンナのことをアナスタシアと間違えたが……。
まさか、再会して、ずっとアナスタシアと居たのに……。
間違うなんて……。
二人の声は、本当によく似ている。
気を付けないと……。
僕の胸の奥では、かすかな不安がざわめいていた。
あのとき、アンナが言った「嫌じゃないよ」という言葉。
あの響きが、どうにも耳から離れない。
まだ、目がしっかり覚めてないからだろうか。
頭が働かない……。
「はい、どうぞ」
アンナが、お盆に三つのお湯飲みを載せて運んでくる。
アナスタシアが、僕の左隣に、アンナが、右隣に座る。
お湯のみから立ち上る湯気が、三人の間を漂う。
僕は、アンナが淹れてくれたお茶を飲む。
温く、味わいが濃い。
嫌な渋みもない。
満足感のある味だ。
どこか、アナスタシアの淹れるお茶よりも、余韻が長い気がした。
「どう?」
アンナが、真っ直ぐに僕を見つめながら尋ねる。
その目の奥に、かすかな光が揺れていた。
あのざわめきは、終わったことになっているみたいだ。
これ以上、追求しない方がよさそうだ。
考えるのをやめよう……。
「うん、おいしい」
「本当?」
「うん」
「お母さんが淹れたお茶よりおいしい?」
「うん。お母さんよりおいしかったよ。完璧」
「本当? 嬉しい」
アンナの頬がほんのりと染まる。
その色が、なぜか目に焼きついて離れない。
「あっ、そう。じゃあ、これから、お茶は、アンナに淹れてもらえば? ついでに、歯でも磨いてもらう?」
アナスタシアが、真顔で言う。
「いや、そう言うことじゃなくて、何と言うか……」
困っている僕を見て、アナスタシアが、嬉しそうに笑う。
いつものように、いたずらっぽく。
でも、その笑顔の奥に、見えない何かが蠢いているような気がした。
僕は、お茶を一気に飲み干す。
温もりが喉を過ぎ、心が少しずつ落ち着いていく。
だが、何かが静かにずれている。
「ユーサクさん、お茶、もう一杯飲む?」
アンナが、嬉しそうに聞いてくる。
「うん」
「じゃあ、少し待っていて。今、淹れてくるからね」
アンナが鼻歌を歌いながら、お茶を淹れている。
僕の横でその後姿を、アナスタシアが微笑ましそうに眺めている。
……母と娘。
同じ仕草。
同じ声。
同じ、光。
アンナがお茶を淹れる、後姿も、アナスタシアと同じように洗練されていて、美しい。
普段から、身のこなし方に気を使っているからこそ出来る、振る舞いだ。
「はい、どうぞ」
アンナが、僕の目の前に、お湯飲みを置く。
一口、飲んでみる。
一杯目より、少し温かく、爽やかな味がする。
目が覚めた。
体の芯が温かくなっていく。
「おいしい」
「本当?」
「うん」
「じゃあ、これから、お茶は、あたしが淹れてあげるわね」
アンナが、そっと僕の肩に、身体を寄せてきた。
その距離が、ふわりと曖昧に溶ける。
窓の外では、午後の光がゆるやかに傾いていた。
まるで、すべてを静かに見届けるように……。
穏やかな午後は、何事もなかったように過ぎていく。
しかし運命は、その静けさの中で、確かに次の一歩を刻み始めていた。




