第六章穏やかな朝 第四節「幸福のぬくもり」
言葉がなくても伝わる想いがある。
静かに流れる時間こそ、二人にとって何よりの宝物だった。
「あっ、お茶、淹れてくるわね」
「うん」
やかんに水を入れ、カチカチと音がして、ガスコンロに火が着き、水が温まっていく音がする。
その間に、アナスタシアが、茶筒からお茶の葉を茶匙ですくい、急須に入れる。
沸いたお湯をアナスタシアが、一旦、湯冷ましに入れ、冷ます。
それから、そのお湯を急須にゆっくりと入れ、少し蒸らす。
手首を使って、急須を揺らしながら、二つのお湯のみにゆっくりとお茶を淹れていく。
その、無駄のない動きを、僕は、じっと見つめる。
心が、ゆるやかになる。
「どうぞ」
アナスタシアが、二つのお湯のみを持ってきて、僕の隣に座る。
淡い湯気が、彼女の頬を包み、柔らかな光を透かしていた。
一口飲む。
「おいしい」
アナスタシアが、丁寧に淹れてくれた、そのお茶は、温く、緑茶のいい香りがして、とろっとしたうま味と甘みがあり、おいしかった。
心が、柔らかくなる。
心が、解けていく。
心が、温かくなる。
僕は、この幸せをかみしめた。
「よかった。喜んでくれて。あたしが、お茶、入れてる所作、どうだった?」
「完璧」
「本当? ゆうちゃんに教えてもらった通りだった?」
「うん。優雅だったよ」
「本当?」
「うん」
「嬉しい」
アナスタシアの瞳が、ふわりと笑う。
その瞳の奥に、二十八年前のあの日の光がかすかに揺れていた。
「もう一杯飲む?」
「うん」
「じゃあ、今、淹れてくるから待ってて」
アナスタシアが、お茶を淹れている間に、僕は、リビングに置いてある、生成りのソファーに移る。
少し離れた所から、アナスタシアがお茶を淹れている、後姿を見る。
なんて、美しいんだろう。
背筋の伸びた姿勢。
指先の繊細な動き。
ゆったりとしたキッチンに、まるで一枚の絵画のような美しさが満ちていた。
「はい、どうぞ」
アナスタシアが、お茶を持ってきてくれた。
「あたし、洗いものするから、少し、待ってて」
「手伝おうか?」
「大丈夫よ。いいの。少しだから。ゆっくりしてて」
「分かった」
僕は、アナスタシアの淹れてくれた、お茶をゆっくり飲みながら、アナスタシアが、手際よく洗い物をしている、後姿を眺める。
二杯目のお茶は、一杯目より少し温かく、味わいが増していた。
おいしい。
僕は、洗い物をしている、アナスタシアの後姿を眺めていると、だんだんぼんやりとしてきて、身体が、ふわふわとしてくる。
まだ、旅の疲れが残っているのか、それとも、アナスタシアの美しさに酔い痴れているのか。
「終わったよ。ゆうちゃん、大丈夫? まだ、疲れてるんじゃない?」
「そんなことないよ。大丈夫だよ」
「もう、歳なのよ。無理しないで」
「違うし」
アナスタシアが、優しく笑う。
その笑みは、まるで春の風。
「こっち、来て」
アナスタシアが、そっと僕の手を取り、寝室へ連れて行く。
その指先が温かくて、どこか切ない。
「ねえ。あたし、少し疲れたの。お昼寝したいから、一緒に寝ましょう?」
「えっ?」
「いいじゃない。ね、ね」
「分かったよ」
窓からは、レース越しに、柔らかい陽が射してはいたが、僕は、アナスタシアに手を引かれ、ベッドの中に入る。
アナスタシアの香りが、すぐ隣にある。
意識が遠のいていく。
幸福の中で、時間がほどけていった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
また次回も、二人が紡ぐ穏やかな時間をお届けします。
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