第五章時を埋める 第2節「二十八年ぶりのぬくもり」
二十八年という歳月は、思い出を色あせさせるどころか、より深く、優しいものにしていました。
懐かしいぬくもりに包まれながら、止まっていた時間が、静かに動き始めます。
「早く上がってきてね。待ってるから」
「うん」
その言葉が、まるで柔らかな布のように、胸の奥を包みこんでいった。
背の高い曇りガラスの扉を開けると、ふわりと湯気が立ちのぼった。
壁も床も真っ白な大ぶりのタイルで、白い天井が静かに光を反射している。
少し浅めの舟形の真っ白な浴槽には、お湯がなみなみと張られ、柔らかな蒸気が肌を包みこんだ。
そして、なんと言っても、トイレが別になっているところも、日本人の僕としては、嬉しいポイントだ。
アナスタシアも、お風呂場にトイレがついてない、日本式のお風呂をとても気に入っていたから、もしかしたら、ここも日本式に改装したのかもしれない。
僕は、髪を洗い、そして体を洗う。
それから、浴槽につかる。
気持ちがいい。
いくら、八月の終わりのジョージアが乾燥していて、日本より気温も低く、過ごしやすいと言っても、二十七時間の大移動を終えた僕は、ずっと、髪や体がべたついて、不快だった。
旅の汚れをすっかり落とし、この浴槽につかっていると、「ここはもしかしたら、日本じゃないのか」とさえ思う。
体の疲れが、お風呂のお湯に溶け出すように剝がれていく。
僕は、顔を湯に沈める。
ゆったりとお湯につかる。
お風呂から上がると、脱衣所には、真新しい白いシルクのパジャマと、下着が用意されていた。
白いシルクのパジャマ。
二十八年前もアナスタシアが欲しがって、お揃いで買った、パジャマ。
胸の奥に、懐かしい記憶がふっと灯る。
僕は、アナスタシアが用意してくれた、そのパジャマに着替え、リビングに戻る。
「パジャマのサイズ、ちょうどよかったみたいだね。下着も大丈夫?」
夕飯の片づけを終えたアナスタシアが、柔らかな笑みで迎えた。
「うん。なんか、懐かしいね。こんなやつ、二十八年前も一緒に買ったよね」
「覚えていてくれたの?」
「忘れるわけないよ。僕が、アナスタシアのパジャマを買って、アナスタシアが、僕のパジャマを買って、贈り合ったやん」
アナスタシアが小さく笑う。
その笑顔に、あの頃の大学生のアナスタシアが重なった。
僕たちは、時間を超えて、ふたたび同じ場所に座っている。
そんな錯覚さえ覚えた。
「そうよ。今もよく似合っているわ。何だか嬉しいわ。絶対、忘れていると思っていたから。お風呂は、気持ちよかった?」
「うん。気持ちよかった。やっぱ、お風呂とトイレが別々なのは、いいよね」
「でしょ。ゆうちゃんも気に入ると思っていたわ。ここはね、もともとは、親が昔、住んでいたアパートなんだけどね。あっ、日本風に言うと分譲マンションね。あたし達、三人になってから、ここに引っ越してきたんだけど、その時にね、少し改装したの。キッチンと、お風呂と、トイレと、あとは、壁紙を張り替えたりとか。ちょこちょこと」
「それで、きれいだったんだ」
アナスタシアのお父さんは、ジョージア政府の高級官僚だった。
だいたい、そうじゃなかったら、ソ連が崩壊してまだ四年しかたってなく、経済が混乱していた平成七年に日本に留学なんかできないはずだ。
そう思うと、僕達を引き合わせてくれたのは、お父さんだ。
結局、未だに会えずじまいだが。
今回は、なんとしても会いに行かないと……。
それに、アナスタシアは公務員とか言っていたが、ずっと家にいるから、もしかしたら、休職中かもしれない。
だったら、お父さんもきっとアナスタシアに経済的支援をしているはずだろう。
この家だって、外観は古いが、室内は、上質な材料が使ってある。
とても一介の公務員では出来ないリフォームだ。
ありがたい限りである。
本当は僕が食べさせなきゃいけないのに……。
とにかく、出来るだけ早く、その辺の所もアナスタシアときっちり話し合わないと……。
お読みいただき、本当にありがとうございます。
二十八年の空白は、少しずつ優しい時間へと変わっていきます。




