第五章時を埋める 第1節「家族の夜」
何気ない夜のひとときほど、人は幸せを実感するのかもしれません。
失われたはずの「家族の時間」が、静かに、そして優しく動き始めます。
ふと、時計に目をやると、針はすでに二十一時を回っていた。
「ねえ、もう二十一時だよ。エリナ、明日、学校でしょ? お風呂に入れなくていいん?」
僕とアナスタシアは、夢中で話しているうちに、すっかり時間を忘れていた。
「あっ、本当ね。うっかりしていたわ。アンナ、お風呂にお湯をためてきて。あたし、お皿洗うから」
やがて、食器の触れ合う音が静かに台所に響く。
僕は、どこか懐かしい家庭の音を聞いていた。
そう、もうずっと前に失くしてしまった音だ。
「お母さん、お風呂あがったよ」
頬を紅潮させ、濡れた髪をバスタオルでたどたどしく拭いているエリナが現れた。
ピンクのパジャマを着て、素足で駆けてくる。
小さな女の子がピンクを好むのは、世界共通なのだろう。
その姿が、どうしようもなく可愛らしかった。
「アンナ、こっちはいいから、エリナの髪をドライヤーで乾かしてあげて」
「エリナ、こっちおいで」
アンナがリビングのソファーにエリナを座らせ、ピンクのドライヤーを手に取った。
風に吹かれて、エリナの長い金髪がやわらかく揺れる。
濡れた髪が少しずつ乾き、艶やかに光を帯びていく。
アンナの手つきは慣れたもので、愛情のこもった姉のしぐさだった。
日常の、この何でもない風景が、僕の心をゆっくりと柔らかくしていく。
そして、『ここがお前の居場所なんだよ』と実感させられる。
「ゆうちゃん、お風呂入ってきて」
いつの間にか、アナスタシアがタオルとバスタオルを持って来ていた。
手渡された、その真っ白で、清潔なタオルは、丁寧に洗濯がされていて、ふんわりと柔らかい、さわり心地がした。
「これ、使って。着替えは、ゆうちゃんがお風呂に入ってる間に出しとくから。こっち来て。お風呂、こっちよ」
アナスタシアに案内され、脱衣所の中に入って行く。
ここの壁紙も真っ白で、美しいグレーの大理石の天板のついた洗面台があり、その洗面台と同じ幅の、大きな鏡が備え付けられていた。
その他の収納も、同系のグレーで統一されている。
どこもが、きれいに掃除され、ものが整えられている。
「ここの籠の中に、脱いだお洋服を入れといてね。明日、洗濯しておくから」
「分かった」
「それと、お風呂は日本と変わらないから、使い方は、多分、分かると思う。サーシャが友達に頼んでくれて、TOTOの蛇口とシャワーをつけてあるから。もし、お湯の出し方が分からなかったら、呼んで」
アナスタシアの「日本好き」って、こんなところまで徹底しているのか。
なんかちょっと、かわいい。
「分かった」
「じゃあ、ゆっくり入ってね」
「アナスタシア」
「何?」
僕は、アナスタシアを引き寄せ、唇を重ねる。
アナスタシアも僕の腰に手をまわす。
「何よ? 急に」
「アナスタシア、好きだよ」
「あたしも……。ゆうちゃんのことが好き」
そして、もう一度、唇を重ねる。
アナスタシアの頬が、ほんのりと赤くなり、とろんとした表情になった。
時間が止まったようだった。
「ねえ、早く入って。アンナもあたしも入るから」
「うん」
「旅の疲れをゆっくり落としてね」
「うん」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
次節では、二十八年ぶりのぬくもりが、さらに二人の心の距離を縮めていきます。




