第四章新しい家族 第一節「三人で歩く帰り道」
特別な出来事は何もない。
それでも、大切な人と歩く帰り道は、世界で一番幸せな時間だった。
しばらくの間そうしていると、アンナが急に思い出したらしく、顔を上げた。
「お母さん、夕飯の買い物に行かないと。もうすぐエリナが学校から帰って来るよ」
「本当ね。もうこんな時間」
アナスタシアが壁の時計を見上げる。
「今日は外で食べればいいじゃないか」
僕がそう言うと、二人が同時に声を上げた。
「ダメ!」
「今日は絶対、あたしの料理を食べて。二十八年ぶりにあなたに食べさせるんだから。アンナだって張り切っているのよ」
「そうよ。あたしだって料理、上手いんだからね。お母さんよりあたしの方が絶対、上手いんだから。だって、お母さんにもおばあちゃんにも教えてもらったんだもん」
アンナがあんまり必死にそう言うものだから、僕は思わず吹き出してしまった。
そしたら、二人もつられて三人で笑った。
笑い声が、アパートの薄暗い天井に柔らかく反響していった。
「じゃあ、エリナが帰ってくる前に三人で買い物に行こうか。さっき、両替もしてきたし」
外に出ると、時折吹いてくる、並木をそよがせる午後の風が心地よい。
陽ざしは穏やかで、空気は乾いて澄んでいる。
何でもない道を三人で歩くだけなのに、胸の奥が温かく膨らんでいく。
ああ、これが「幸せ」というやつなのかもしれない。
スーパーでアナスタシアとアンナがメモを見ながら話し合って、夕飯の材料を次々にカートに入れていく。
僕には何が何だかよく分からなかったが。
アンナの言う通り、確かに二人は、家では日本語で話していた。
だが、本当に一歩外に出ると、ジョージア語で話している。
そのきっちりと厳格に区別された、約束事か、あるいは習慣が、僕にはかわいらしく、二人のことを一層、いとおしく感じられた。
まるで母と娘というより、魂の鏡のようだった。
買い物を終えて帰るころには、夕陽がまちを金色に染めていた。
アナスタシアもアンナも、もうさっきまでの涙をすっかり忘れたように笑っている。
僕に荷物を全部持たせて。
でも、その重ささえ、僕には幸福の証のように思えた。
二人はアパートに戻ると、手際よく料理を始めた。
小気味いい、野菜を刻む音が聞こえてきて、スープのいい匂いが漂ってくる。
なんて、幸せな時間なんだ。
僕は、心底、そう思った。
僕はただ、静かにその光景を見つめていた。
三人で歩く、それだけで幸せでした。
次回、いよいよエリナが登場します。




