第三章再会 第四節「失われた二十八年」
人は、たった一人に「よく頑張ったね」と言われるだけで救われることがある。
僕にとって、その人は今もアナスタシアだった。
「ねえ、アナスタシア」
「何?」
「僕の方が年取っちゃたでしょ?」
アナスタシアが、くすりと笑った。
その笑みは、懐かしい陽の香りのように胸に染みる。
「本当。髪の毛は、白髪が出てきてるし、顔はシミだらけ。目には小じわ。やっぱりあたしの言う通りになったわね。あたし達さあ、大学の時、毎週土日は一日中、宍道湖でウィンドサーフィンばっかりしてたから、二人とも真っ黒に日焼けしてたよね」
アナスタシアは、僕を見ているようでいて、遠い昔を懐かしんでいるような眼をしていた。
「うん」
「あたしはちゃんと日焼け止めもメイクもばっちりしてたけど、でもゆうちゃんは日焼け止めも塗らずに真っ黒だったから、あたしが『日焼け止め塗らないと四十過ぎたらシミだらけになるよ』って言ったのに、ゆうちゃん、『黒い方がかっこいいやん』とか言って、あたしの言うこと聞かないから。シミだらけのおじいちゃんになっちゃったわね。バカね」
最後のその一言に、僕は、優しさと愛情を感じ、心がとろけていくようだった。
「本当だね。バカだった。シミができるのはおじいちゃんになってからって思ってたのに」
「もう、おじいちゃんでしょ」
アナスタシアは、笑っている。
「何言いよん。まだ、お兄ちゃんだよ」
「何言ってるの。子供がいるでしょ」
「今、二十四歳の息子。医学生」
アナスタシアの目が、やわらかく光った。
驚きと、誇らしさと、少しの安堵が混ざった光だった。
「ゆうちゃん、子育て頑張ったんだね。偉いわ」
しみじみと低いトーンで、ゆっくりと言ったその言葉に、妻のアヤメが亡くなって以来、十三年、張り詰めた緊張がはじめて緩んだ気がした。
生き方を肯定された嬉しさが込み上げてきた。
涙が、あふれてきた。
「ありがとう。誰も僕のことは褒めてくれないけどね」
「相変わらず赤ちゃんね。いいわ、あたしが褒めてあげる。えらい。えらい」
その声は、まるで子どもをあやすように優しかった。
アナスタシアは僕を抱き寄せ、髪を撫でた。その仕草に、二十八年前の温もりが蘇る。
僕の喉から、嗚咽が漏れた。
自分でも驚くほど、弱い声だった。
「あなたも随分、苦労したのね」
「どうだかね。息子を医学部に入れれば、少しは周りの人間も僕を見直してくれるって思ったけど。『だから何?』って感じで拍子抜けした。と言うか、がっくりした」
「バカね。分からないだけよ。みんな」
「で、せっかく息子が医者になるから、『美容整形外科医になって、パパの顔のシミを消して、顔のゆがみを骨を削って修正して、ついでにワキガも治療して』って頼んだけど、『僕は、精神科医になりたいんだ。だから、シミ取りしたいなら自分で病院に行って』って、拒否された」
アナスタシアが声を立てて笑った。
笑いながら、僕の頬を両手で包みこんだ。
僕の顔。彫りが深く、団子っ鼻。寄った目。そして、ほんの少し、鼻から下が左向きに曲がっている。お世辞にもかっこいいとは言えない、醜い顔だ。
「あなたの子は偉いわ。そんなに思い通りにいく訳ないでしょ。好きにさせてあげて。そんなに頑張ったんだから。それにシミ取りはともかく、整形はやめて。顔が変わっちゃう。そしたら、ゆうちゃんがゆうちゃんで無くなっちゃうから。あたしは、この曲がった顔のゆうちゃんが好きなのよ」
アナスタシアは、再び、僕をやさしく抱きしめた。
そして、髪を撫でた。
優しく、ゆっくりと。
ああ、僕は長い間、これを望んでいたんだ。
この抱擁、このぬくもり、この肯定。
これが、僕の幸せだったんだ。
僕は、幸せだった。
アナスタシアも多分。
そして、ジョージアまで来た理由を忘れかけていた。
幸せな時間は、二十八年という空白さえ忘れさせてくれた。
だが、僕たちには、まだ向き合わなければならない過去が残されていた。




