第三章再会 第二節「扉の向こうへ」
人生には、一つの扉を開けるだけで世界が変わる瞬間がある。
この扉は、僕を二十八年前の春へと連れ戻そうとしていた。
アナスタシアも、たぶん、こんなふうに笑っていたのだろう。
あの頃と、今と。
時が交錯するように、胸の奥が静かに揺れた。
「ねえ、アンナ」
「何?」
「そう言えばさあ、僕、飛行機の時間、アナスタシアに教えてなかったんだけど、何で空港にいたん? あんなに朝早くに」
息を整えるために、僕は言葉をつないだ。
何度も言うが、アンナの日本語は驚くほど自然で、抑揚にほとんど訛りがなかった。
だからだろう、気づけば、僕はつい、アンナがジョージア人であることを忘れ、
いつもの「筑豊弁」で話していた。
まあ、別にアナスタシアにも「筑豊弁」で話していたのだが……。
「筑豊弁」とは、福岡県の中央部にある、「筑豊」という地域で話されている方言である。かつて、炭鉱で大変栄えた地域だが、閉山後は、寂れゆく一方である。
今は、まさに盆地というべく、ぐるりと囲まれた、美しい山々の連なりと、中央を流れる、一級河川、「遠賀川」と、長閑な自然くらいが、見どころといえるのか。
アンナは階段の手すりに手をかけ、こちらを振り返る。
薄い金色の髪が、窓からの光を受けて、儚くきらめいた。
その光景に、僕はまた、遠い昔のアナスタシアを見た気がした。
「ああ、それね。お母さんが、『ゆうちゃんが気を使って飛行機の時間を教えないから、アンナ、朝一の到着便から空港に行って待ってて。ゆうちゃんは、ジョージア語が分からないし、英語も上手くないから』、だって。もう、本当によかったよ。ユーサクさんが朝一の飛行機で。じゃなかったらあたし、いつ来るか分からない人を待って、一日中空港に居なきゃいけなかったんだからね」
アンナはわざとらしくため息をつき、ひどい目に遭ったという顔をしてみせる。
だが、その口調の裏には、どこか嬉しそうな響きがあった。
「ごめん、ごめん。でも、あんな朝早くだったら、バスも電車もまだ動いてなかったでしょ。どうやって来たん?」
「お母さんの弟のサーシャおじさんが車で送ってくれたの。でもすぐに仕事に行っちゃったわ」
「ああ、サーシャね。あの無口な。一度、日本に来た時に会ったことがある。もう、結婚した?」
サーシャは、僕とアナスタシアが付き合い始めて半年くらい経った頃に、日本に遊びに来たことがある。確か、十七歳くらいだったかと思う。アナスタシアと同じ、金髪の短髪に青い目。身長は、百八十センチで、体重は九十キロ。柔道をやっているとか言っていた、大男だ。そんな男と、僕の狭いアパートに、三人で二週間も一緒に過ごした。今だったらそんなこと、絶対にやりたくはないが、その当時は、結構、楽しかった記憶がある。
遠い、遠い、昔の話だ。
「いいえ、まだよ。一度も。お母さんもおばあちゃんも心配しているわ」
「そっか。僕のこと……なんか言ってた?」
答えは分かってはいたが、どうしても気になって確認してみる。
「うん。『姉さんは、今更、ユーサクに会いたがってバカだ。あいつは悪いやつだ。姉さんを捨てたくせに。何で今更、会いに来るんだ』、だって」
アンナは、呆れ顔でこちらを見上げた。
その青い瞳の奥に、ほんの少しの哀しみが滲んでいた。
「やっぱり。まあ、そうだよね」
「そうだよ。さ、休憩終わり、行くよ」
短い言葉のあと、階段に静寂が降りた。
残るは、靴音と、壁に反響する呼吸の音だけ。
アンナは、今度は僕の歩調に合わせてゆっくりと登ってくれた。
息が合うたびに、胸の奥の鼓動が強くなる。
七階までのわずかな距離が、まるで何十年分の時を登るように長く感じられた。
「さあ、着いたわ。ここよ」
目の前に、所どころ錆びたペンキ塗りの薄茶色のドアがあった。
アンナがその古びたドアをゆっくりと開ける。
金属の軋む音がした。
「お母さん、ただいま。ユーサクさん連れて来たよ」
僕の心臓が、一気に跳ねた。
二十八年分の記憶が、胸の奥で洪水のように溢れ出す。
ついに、アナスタシアに会える。
「何してるの? さあ、入って」
アンナが僕の背を押す。
薄暗い玄関の奥から、淡い光が滲む。
リビングの扉は開け放してあった。
白いレースのカーテンの隙間から差し込む朝の光が、床に柔らかな影を描いている。
僕はアンナに続き、靴を入り口付近で脱ぎ、キャリーバックとリュックサックをその辺りに置き、狭く、薄暗い廊下を通って、明るいリビングに入って行く。
その明るいリビングに置いてある生成りのソファーには、見覚えのある、薄い緑地に、白い百合の花が全面にプリントされたワンピースに、オフホワイトの、手の込んだ透かし編みの綿のカーディガンを羽織った、長い金髪に、青い目の女性が座っていた。
陽光を受け、その輪郭が淡く溶けてゆく。
長い金髪が光を孕み、碧い瞳が僕を見つめた。
その女性が立ち上がり、近づいてくる。
人は人生で、何度も扉を開ける。
だが、この扉ほど重く、そして優しい扉は、もう二度とないだろう。




