表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白い百合  作者: 森本有介
第三章再会

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/20

第三章再会 第二節「扉の向こうへ」

人生には、一つの扉を開けるだけで世界が変わる瞬間がある。

この扉は、僕を二十八年前の春へと連れ戻そうとしていた。

アナスタシアも、たぶん、こんなふうに笑っていたのだろう。


あの頃と、今と。


時が交錯するように、胸の奥が静かに揺れた。


「ねえ、アンナ」


「何?」


「そう言えばさあ、僕、飛行機の時間、アナスタシアに教えてなかったんだけど、何で空港にいたん? あんなに朝早くに」


息を整えるために、僕は言葉をつないだ。


何度も言うが、アンナの日本語は驚くほど自然で、抑揚にほとんど訛りがなかった。


だからだろう、気づけば、僕はつい、アンナがジョージア人であることを忘れ、


いつもの「筑豊弁」で話していた。


まあ、別にアナスタシアにも「筑豊弁」で話していたのだが……。


「筑豊弁」とは、福岡県の中央部にある、「筑豊」という地域で話されている方言である。かつて、炭鉱で大変栄えた地域だが、閉山後は、さびれゆく一方である。


今は、まさに盆地というべく、ぐるりと囲まれた、美しい山々の連なりと、中央を流れる、一級河川、「遠賀おんが川」と、長閑のどかな自然くらいが、見どころといえるのか。


アンナは階段の手すりに手をかけ、こちらを振り返る。


薄い金色の髪が、窓からの光を受けて、はかなくきらめいた。


その光景に、僕はまた、遠い昔のアナスタシアを見た気がした。


「ああ、それね。お母さんが、『ゆうちゃんが気を使って飛行機の時間を教えないから、アンナ、朝一の到着便から空港に行って待ってて。ゆうちゃんは、ジョージア語が分からないし、英語も上手くないから』、だって。もう、本当ほんとによかったよ。ユーサクさんが朝一の飛行機で。じゃなかったらあたし、いつ来るか分からない人を待って、一日中空港に居なきゃいけなかったんだからね」


アンナはわざとらしくため息をつき、ひどい目に遭ったという顔をしてみせる。


だが、その口調の裏には、どこか嬉しそうな響きがあった。


「ごめん、ごめん。でも、あんな朝早くだったら、バスも電車もまだ動いてなかったでしょ。どうやって来たん?」


「お母さんの弟のサーシャおじさんが車で送ってくれたの。でもすぐに仕事に行っちゃったわ」


「ああ、サーシャね。あの無口な。一度、日本に来た時に会ったことがある。もう、結婚した?」


サーシャは、僕とアナスタシアが付き合い始めて半年くらい経った頃に、日本に遊びに来たことがある。確か、十七歳くらいだったかと思う。アナスタシアと同じ、金髪の短髪に青い目。身長は、百八十センチで、体重は九十キロ。柔道をやっているとか言っていた、大男だ。そんなやつと、僕の狭いアパートに、三人で二週間も一緒に過ごした。今だったらそんなこと、絶対にやりたくはないが、その当時は、結構、楽しかった記憶がある。



遠い、遠い、昔の話だ。



「いいえ、まだよ。一度も。お母さんもおばあちゃんも心配しているわ」


「そっか。僕のこと……なんか言ってた?」


答えは分かってはいたが、どうしても気になって確認してみる。


「うん。『姉さんは、今更、ユーサクに会いたがってバカだ。あいつは悪いやつだ。姉さんを捨てたくせに。何で今更、会いに来るんだ』、だって」


アンナは、呆れ顔でこちらを見上げた。


その青い瞳の奥に、ほんの少しの哀しみがにじんでいた。


「やっぱり。まあ、そうだよね」


「そうだよ。さ、休憩終わり、行くよ」


短い言葉のあと、階段に静寂が降りた。


残るは、靴音と、壁に反響する呼吸の音だけ。


アンナは、今度は僕の歩調に合わせてゆっくりと登ってくれた。


息が合うたびに、胸の奥の鼓動が強くなる。


七階までのわずかな距離が、まるで何十年分の時を登るように長く感じられた。


「さあ、着いたわ。ここよ」


目の前に、所どころ錆びたペンキ塗りの薄茶色のドアがあった。


アンナがその古びたドアをゆっくりと開ける。



金属のきしむ音がした。



「お母さん、ただいま。ユーサクさん連れて来たよ」



僕の心臓が、一気に跳ねた。



二十八年分の記憶が、胸の奥で洪水のように溢れ出す。


ついに、アナスタシアに会える。



「何してるの? さあ、入って」


アンナが僕の背を押す。


薄暗い玄関の奥から、淡い光がにじむ。


リビングの扉は開け放してあった。


白いレースのカーテンの隙間から差し込む朝の光が、床に柔らかな影を描いている。


僕はアンナに続き、靴を入り口付近で脱ぎ、キャリーバックとリュックサックをその辺りに置き、狭く、薄暗い廊下を通って、明るいリビングに入って行く。


その明るいリビングに置いてある生成りのソファーには、見覚えのある、薄い緑地に、白い百合の花が全面にプリントされたワンピースに、オフホワイトの、手の込んだ透かし編みの綿のカーディガンを羽織った、長い金髪に、青い目の女性ひとが座っていた。



陽光を受け、その輪郭が淡く溶けてゆく。



長い金髪が光をはらみ、あおい瞳が僕を見つめた。



その女性ひとが立ち上がり、近づいてくる。


人は人生で、何度も扉を開ける。

だが、この扉ほど重く、そして優しい扉は、もう二度とないだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ