38 怪盗と侯爵
リアムと会うのは、五日ぶりだった。
久しく会っていないような感覚だったが、彼はいつも通り怪盗服に身を包み、窓からミラの部屋を訪れた。最近は、この窓から彼が現れるのを待ってしまうことが多かった
リアムを一目見ただけで安心感が湧いてきて、ミラはまた自分の好意を自覚させられる。
「今宵もあなたの想晶を頂きに参りました──」
怪盗リアムはにやりと笑う。窓際からミラの元へと歩み寄った。
「──おかえりなさい」
言いたいことも、聞きたいこともあったはずなのに、ミラの口から出たのはその言葉だった。
リアムは微笑むと、その場で膝をついた。ミラの右手を取り、その甲へ唇を寄せる。
「ただいま戻りました」
真剣な表情かと思えば、リアムはへらりと笑った。ミラは小さく息を吐く。
「それで誤魔化そうと思っていますか──リアム・エルフォード様」
ミラは少し目を細める。リアムは立ち上がったが、ミラの手は握ったままだった。
「……やっぱり気づいた?」
「研究所を摘発したのがエルフォード侯爵家で、リアムという同じ名前が出れば察します」
「今まで通り接してよ、ミラ」
伯爵家のメイドが、侯爵家の令息にくだけた口調で話すなど、ミラにはできない。だが、リアムはそれを望んでくる。
だから、リアムは自分の正体を明かしたくなかった。自分の身分がこの国でどれほど高い位置にあるのか、知らないわけではない。ミラはきっと、正体を知れば態度を改める。その予想は当たっていた。
「でも……」
「俺の本当の顔は怪盗リアムで、悪党だと思ってよ」
全身の怪盗服が見えるよう、リアムは両手を広げた。ミラは呆れたように微笑む。目の前にいるのは、正真正銘の怪盗リアムだ。悪党らしい笑みを浮かべているようにも見えた。
「……あとで、不敬罪とか言わないでよ」
「それは誓うよ」
口調が砕けている今のリアムからは、侯爵家の息子だという実感が湧かない。それでも、彼の所作は優雅だと、何度か思ったことがあった。
「リアム・エルフォードが存在したって、お嬢様も驚いていたわ」
「『存在を疑われていた、美しいリアム・エルフォードとはいったい』……っていう記事も見た?」
「美しいって書いてたかしら」
そう言いながら、ミラは笑うリアムを見上げた。その顔が美しいのだから、記事の予想は的中しているとミラは思った。
リアムはシルクハットを脱ぎ、その場で優雅に一礼する。
「──俺は、リアム・エルフォード。エレイン家の執事であり、怪盗であり、侯爵家の一人息子でもある」
「……色んな顔があるのね」
「全部知ってるのは、ミラだけだよ。あー……あと、シリルもか」
そこはミラだけだと断言したかったが、リアムはシリルの名を付け加えた。
怪盗エリオとシリルが同一人物だと、ミラが知ったのは数日前のことだ。それでも、リアムはそれを分かっていたかのようにシリルの名を出した。
「シリルさんを、なぜ怪盗に誘ったの?」
「ちょうど一人じゃ厳しいと思ってたところに、シリルの弱みを握ったから誘っただけだよ」
ヴィオラへの想いと、怪盗の正体。弱みとしては十分だった。ミラは納得したように頷いた。
「──そんなことより、研究所の話」
その話をするために、ミラの部屋にやってきたのだ。ミラは真剣な表情でリアムを見る。
「ホールデン領の研究所は封鎖された。ただ、他のどこに研究所があるのか、繋がりを示す記録が残ってない。研究員たちも、ホールデン領の研究所しか知らないようだった。肝心のオーウェン・ハースには逃げられたしね」
「逃げられた?」
ミラの声が大きくなった。記事では首謀者は逃亡中と書かれていたが、それがオーウェンのことだったなんて。
「騎士たちが馬車に乗せようとした時、あいつ薬品をばらまいたんだよ。目に沁みる程度のものだったけど、その隙に逃げられた」
「じゃあ、研究所の実態は……」
「掴めてない。ただ、違法な研究が行われていたことは、研究員たちの自白で証明できた。オーウェン・ハースは指名手配される」
「オーウェンが研究所を作ったのか、それとも他の誰かなのか。どれくらいの規模なのか……全然わからないままね」
「だから、これ。盗ってきた」
リアムは、いつの間にか取り出していた麻袋を広げた。中には、数十個の想晶が入っていた。ホールデン領の研究所で生成された、『作られた想晶』。透明度が低く、インクルージョンも多く見られる。
ここに何か手がかりがあるかもしれない。ただ、この数の想晶を、自分は視ることに耐えられるのだろうか。眉間に皺を寄せたミラの額を、リアムは指でつついた。
「ミラにも、カロラにも視てもらうつもりはないから。視える人を雇うよ」
──視えることから始まった、怪盗との関係。最近ではカロラがその役を担っていたが、怪盗リアムの正体を知っているのは自分だけだった。自分が視る必要のない今、怪盗リアムのそばにいてもいいのだろうか。ミラの中に、不安のような感情が湧いてくる。
執事ルーイは偽りの姿で、リアム・エルフォードとメイドでは天と地ほどの差がある。そして、怪盗リアムだけが唯一、並んで立てる存在だと思っていたのに。
「……何か、協力させてほしい」
「それはできないっていうか、したくない。俺の我儘」
作られたサファイアやラピスラズリを視たときのように、涙を流し、苦しみながら想晶の記憶を覗く彼女を、もう見たくなかった。
「でも、私だって何か……」
「ただ、ここまで鮮明に記憶が視えるのは、出会ってきた中でミラだけだよ。重要な想晶だけは視てもらおうと思う」
今欲しかった言葉を、リアムは何でもない顔で口にした。それがどれだけミラにとって嬉しいことなのか、表情にも声にも出さないミラからは伝わっていない。
「──ありがとう」
ミラがお礼を言うことではないはずなのに、なぜこんなに嬉しそうに見えるのだろう。リアムは思わず、ミラの頬に手を伸ばした。そして、その柔らかい頬をつまんだ。
「痛い……」
「嬉しそうな顔しないの」
「そんな顔してた?」
「うん。怪盗に協力できるからって、喜んじゃダメだって」
怪盗というより、リアムの力になれたことが嬉しかったのだが、ミラは言葉にできなかった。
リアムはミラから手を離し、口を開いた。
「そういえば、リュシアンからは何か連絡あった?」
「お嬢様から、話を聞きたいと手紙を書いたわ」
「さあ、あいつは知ってて投資してたサイコパスなのか、知らずに投資した可哀想なやつなのか……楽しみだな」
リアムはくつくつと笑う。その笑みに、ミラは眉を寄せた。
「楽しくない……お嬢様の婚約者だっていうのに……」
リュシアン・ルクレールは誠実で、計画性があり、気配りができて、実直だとミラは思っている。リュシアンだからこそ、虚弱なヴィオラを任せることができる。そう信じていた。
「『今日で婚約破棄させていただきますわ!』って小説が、世間では流行ってたよな」
怪盗ものが流行する前は、婚約破棄ものが流行していた。リアムがそんな小説を知っていることに驚いたが、ヴィオラも随分とハマっていたのを覚えている。
「婚約破棄なんて……ならないといいけど」
「なんで? シリルにチャンスが来るのに」
リアムの言葉に、ミラは目を見開いた。シリルとヴィオラが惹かれ合っていることをリアムは知っている。知ったうえで、『チャンス』だと言った。
身分差のある恋愛など、この貴族社会で肯定されるものではない。ヴィオラは伯爵家の令嬢だ。エレイン領のことを考えても、婚約は簡単に破棄できるものではない。それに、侯爵家の人間であるリアム自身も、身分の問題はよく分かっているはずだ。
「……ミラは、身分差がある恋愛は反対すんの?」
「反対というより、世間が許さないわ」
メイドが侯爵家の令息に恋をすることだって、許されないだろう。
ミラは金色の瞳から逃げるように、視線を逸らした。
「──そんなこと言わないでよ」
リアムの声に、ミラは視線を戻した。目が合う。
なぜ、リアムが悲しそうな顔をしているのだろう。今はリュシアンとヴィオラの話のはずだ。
「……どういうこと?」
「メイドと、侯爵の恋とか。どう思う?」
そう言いながら、リアムはミラに近づいていく。ミラは反射的に一歩引いた。
「ゆ、許されません」
「俺は、いいと思うけど」
にやりと笑ったリアムは、もう一歩、ミラとの距離を詰めた。
「私は……」
「だって、好きになった相手がたまたま身分の高い人だったってだけでしょ」
「そ、それは……」
「好きになるのに、身分なんて関係なくね?」
まるで、ミラの心を見透かしているような言葉だった。ミラは唇を引き結ぶ。だが、リアムの言うことは、綺麗事だ。
貴族の結婚は、本人たちだけの問題ではなかった。家と家を結び、財産や領地を守り、ときには新たなつながりを築くものでもある。
侯爵家の一人息子であるリアムの結婚は、彼自身の望みだけで決められるものではないはずだ。もし、彼がメイドとの結婚を望んだら。周囲はどう思うだろう。侯爵家の名に傷がつくと、反対されるに違いない。ミラには、彼の隣に立つための家柄も、財産も、後ろ盾もない。どれほど想い合っていたとしても、それだけで認められるほど、この世界は甘くない。
相手の家族にも、社交界にも認められない恋。自分のせいで彼の立場を危うくすることになったら。そんな恋が幸せになれるとは、ミラには思えなかった。
「……分かってない」
「そう?」
「そうよ。好きだからって、どうにかなるものじゃない」
言いながら、胸の奥がちくりと痛んだ。
リアムは、いつものように笑っていた。けれど、その金色の瞳はミラをまっすぐに見つめている。
「じゃあ、どうにかすればいいんじゃない?」
「……え?」
「周りが許さないなら、許してもらえるようにすればいい。身分が問題なら、それを乗り越えればいい。怪盗とメイドの恋にするとか?」
まるで、盗めないものなどないとでも言うように。怪盗らしい考え方だ、とミラは思った。欲しいものがあるなら、手に入れるために動く。
「……そんなに簡単なことじゃないの」
「うん。簡単じゃないだろうね」
意外にも、リアムはあっさりとうなずいた。
「でも、難しいことと、無理なことは違うって」
その言葉に、ミラは何も言えなかった。まるで説得されているかのようだ。
リアムの顔が、すぐ目の前にある。いつもなら、からかわれているのだと笑い飛ばせたはずなのに。今は、そうすることができなかった。
「……どうして、そんなことを言うの?」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。そこまで、シリルとヴィオラの恋路が気になっているのだろうか。
リアムは一瞬だけ目を細めた。
「さあ。なんでだと思う?」
また、いつもの調子に戻ってしまった。今度はミラが目を細めた。
「もう……真面目に話しているのに」
「俺だって真面目だけどねー」
「どこが」
ミラは思わず眉を寄せる。けれど、リアムの瞳を見ているうちに、胸の奥が落ち着かなくなってきた。どうして、そんな目で見るのだろう。どうして、自分のことを言われているような気がするのだろう。
「……とにかく、私はお嬢様とリュシアン様のことを心配しているの」
「分かってるよ」
リアムはようやく一歩、後ろへ下がった。
「ま、どんな返事が来るか楽しみにしておこうか。リュシアンが何を知っていて、何を知らなかったのか。お嬢様がどうしたいのかも含めてさ」
その言葉に、ミラは小さく息を吐いた。リュシアンが何を知っていたのか。それを聞かなければ、何も判断できないのだから。それなのに。
「……ミラ?」
呼ばれて顔を上げると、リアムが不思議そうにこちらを見ていた。ミラは慌てて頬に手を当てた。少し熱い気がする。
先程までの会話はまるで、諦めようとしている自分を責められたようだった。ミラはそっと視線を落とす。
リアムの隣にいることが、こんなにも心地いい。けれど、彼の本当の名前を知ってから、その距離が以前よりずっと遠くなってしまった。好きになった相手が、たまたま身分の高い人だった。そんなふうに、簡単に考えられたらいいのに。
ミラは小さく首を振り、浮かびかけた想いに蓋をした。




